告発は紅にて

瑞樹(小原瑞樹)

プロローグ ―不穏な再会―

 朔風さくふうが正面から吹きつけ、男はコートの前を掴んで掛け合わせた。太腿や尻から伝わるベンチの硬さがいっそう身を凍えさせるように感じ、男は舌打ちをして目の前の光景を睨みつけた。眼前の池は風の名残を受けて波打ち、水面に映る月の影を揺らしている。


 男は腕時計に視線を落とした。時刻は間もなく21時50分を回ろうとしている。待ち合わせには非常識な時間。だが、それでも男は待たなければいけなかった。たとえ寒空の下で長時間風雨に曝されることになったとしても、男は『彼』を待つつもりでいた。


 やがて背後から砂を踏みしめる音が聞こえ、男は振り返った。枯れ木の立ち並ぶ道の向こうから、長身の人物が歩いてくる。静寂の漂う空間の中で、男の足音だけが時計のように正確に時を刻んでいく。霧の漂う公園内ではその姿を判別することはできない。だが、それが『彼』であることを男は本能的に感じ取った。


 ベンチの前まで来たところで『彼』は足を止め、男を見下ろした。男はそこで初めて『彼』の顔を見た。その顔には無数の皺が刻まれていたが、威厳さを漂わせるその面立ちは、何十年経っても見紛うことはない。


「……次郎か」


 『彼』はそれだけ呟くと、男の隣に腰掛けた。木枯らしが再び2人の間を吹き抜け、朽ちた葉が地面を擦りながら二人の足元を通り過ぎていく。


「いきなり連絡を寄越したかと思えば、こんな時間に呼び出して……いったい何のつもりだ?」


 『次郎』と呼ばれた男はそう言うと、睨めつけるような視線を長身の男に送った。だが、男は彼の方には目もくれず、目を細めて闇に包まれた池を見つめている。


「……お前とこうして会うのは、実に13年ぶりだな」


 長身の男が徐に口を開いた。足元の枯葉がかさりと音を立てる。


「この13年間、お前がどのような生活を送ってきたか……私には手に取るようにわかる。大方、昇進など微塵も興味を示さず、現場一戦で駆けずり回っていたのだろう?」


「管理職など、俺の性に合わんからな」『次郎』が鼻であしらった。

「だが、そんな近況報告を聞くために俺を呼び出したわけではないだろう?」


「……あくまで実務的に話を進めるか。昔から変わらんな、お前は」


 長身の男がふっと息を漏らした。白い吐息が、闇の中に音もなく溶けていく。木々がかさかさと揺れる音が、何かの予兆のように閑静な公園内に響く。


「……楓」


 長身の男が不意に呟いた。『次郎』が胸を突かれて顔を上げる。男は俯き、手袋をはめた右手で中折れ帽の鍔にそっと触れた。


「あの忌まわしい記憶は、今も鮮明に私の脳裏に焼きついている。目が覚めるたびにあの日のことを思い出し、際限のない悔恨と塗炭の苦しみに苛まれる……。この13年間、私は終わりのない悪夢を見続けているようなものだった。

 だが……今になって、私の人生にもようやく光明が差したようだ。お前にも、そのことを教えてやらねばならんと思ってな」


「何のことだ?」


 『次郎』は訝しげに男を見やった。コートの襟を立てた上に俯いているため、男の表情は見えない。次郎は男の顔を覗き込もうと、わずかに身を乗り出した。


 その時だった。突然首筋の後ろに激しい痛みが走り、『次郎』はかっと目を見開いた。歯を食い縛り、長身の男を凝視する。男は顔を上げて彼の方を見ていた。感情のない、死神のように昏い目をして。


「総十郎……お前、何を……」


 『次郎』に言えたのはそこまでだった。糸が切れたようにふつりと意識が途絶え、彼はそのままベンチの足元に倒れ込んだ。どこかの木から鳥が飛び立ち、不吉な予言を告げる使者のように闇夜へと消えていく。


 長身の男は立ち上がって『次郎』を見下ろした。月明かりが頭上から差し込み、男の姿を静かに照らし出す。白髪にしかつめらしい顔、長躯を包む黒のロングコート。


 だが何よりも目を引いたのは、その鋭い眼に宿る、周囲の凍てつきを凌駕するほどの冷たい光だった。


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