第七章 迫りくる影

(……これは……夢……!?)


 気が付いた時、自分が一体どこにいるか分からなかった。確か友人宅からの帰り道の途中で突然何者かに羽交い締めにされ、人気のない公園へ無理矢理連れて来られた。彼等は静藍に殴る蹴るといった暴虐の限りを尽くした。彼が道に倒れた後、何かの羽音が聞こえてきて、彼等はそれに恐れをなし、一目散に逃げ出した。

 

 その後だった。

 

 足音が近付いてきたと思った途端、静藍は突然目隠しをされた。

 

 (誰だ……!?)

 

 視覚を封じられている。

 自分の傍に近付いたと思ったら耳元で男の声が響いてきた。腰の奥から響いてくるような低い声だ。心地良く何故かもっと聞いていたくなる誘惑をはらむ、不思議な声だった。

 

「漸く見付けたぞ」

 

「……誰ですか?」

 

 声の主は意外そうな反応をしたようだ。だが、低い体温の手が自分の髪にゆっくりと触れてくる仕草をしてきた為、静藍は身体をぴくりと震わせた。さらりとした肌だが、ひんやりと、冷たい。

 

「我が名はまだ名乗るまい。焦らずともその内自ずと分かる。選ばれし者よ。我が眷属となり、共にゆこう。さすれば我等は最強になれる。共に“屍者の王”となろうぞ」

 

 突然非現実的なことを言われて静藍は混乱する。

 

「あなたが何を言ってるのか僕には全く理解出来ません。嫌です!」

 

「お前には生まれつき能力がある。気付いておらぬであろう? その瞳の中に紅玉の輝きを内包しているのを見た。このまま放置だなんてさせぬ。お前の本当の力、私が目覚めさせ、引き出してみせようぞ」

 

 自分の顎を捉えた手のあまりの冷たさに、背中にぞくりと悪寒が走った。歯と唇を舐める静かな音が聞こえ、唇に男の息がかかる。蜂蜜のような甘さを持ちつつも、その奥にまるで血の臭いのように不気味な香りも混じっている、不思議な匂いがした。

 

「僕に一体何をするつもりですか? 離して下さい!!」

 

 静藍は身を捩るが、いつの間にか身体全体を地面に押さえつけられていて思う通りに動くことが出来ない。冷や汗が背中を伝い、シャツをじっとりと湿らせる。 

 

「やめろぉ!! 嫌だぁああっっ!!」

 

 どんなに藻掻いても痛めつけられた身体は言うことを聞かない。舐めつけるような吐息と共に耳元で何かの呪文が聞こえて来る。

 静藍のシャツが乱暴に引き裂かれ、雪のように白い上半身が剥き出しとなった。先程暴行を受けた赤黒い跡があちこち花開いている。誰かが首に手をそっと這わせているかのように、脇腹から喉元にかけての皮膚がぞわぞわとした。

 誰も踏み込んだことのないその無垢な首元に尖っている何かが突き刺さり、皮膚を貫いて静藍の体内に侵入してきた。ひんやりとしているがどこか生暖かい唇の感触と舌の濡れた感触が同時に喉元に触れて来る。ライオンに襲われたインパラの気持ちはこんな感じなのだろうか。

 

「うわぁあああああああっっ!!!!」

 

 激痛が身体を一気に貫いた。静藍がどんなに藻掻いても頭を押さえつけられていて逃げることが出来ない。あまりの痛さに目元から涙が溢れてくる。

 

「あああああああああっっ!!!!」 

 

 首元に突き立てられたものからゆっくりと何かが体内に入って来るような違和感を覚えた。

 目隠しが剥ぎ取られ、やっと視野が自由になったと思ったら、目の前に深く濃い群青色の瞳があった。矢車菊が花咲くような輝きを見た途端、静藍はその瞳に釘付けとなり、そのまま動けなくなる。彼の青から紫、赤紫と輝く瞳の奥底から一筋の閃光が迸り、一瞬目の色全てが一気にピジョンブラッドに染まった。身体全体に男の声が響き渡ってくる。脳に直接語り掛けてきているようだ。

 

 ――お前にかけた我が術はそう簡単には解けぬ。お前の中に“種”を植え込んだからな。“種”が発動し、無事覚醒すればお前はめでたく我等の仲間“吸血鬼”となれる。但し、まだ完全ではない。人間の血を吸えば完全に吸血鬼となれる。強靭な力を持てるようになる。もう虐められず惨めな思いもせずに済むようになる。しかし、二度と人間には戻れぬ。お前はまだ人間だから普段の生活に影響はすぐには出ないであろう。猶予を与えてやる。十七歳の誕生日を迎えるその日までに人間として生きるか吸血鬼として生きるかを決断せよ。どちらかを選択せねばお前の命はないぞ。死にたくなければ自ら人を吸血し、吸血鬼化を完了せよ。唯一“芍薬姫の血”なるものを摂取すれば術は解け人間に戻ることが出来る。だが早々見つかる筈があるまい。諦めて我等の仲間になった方が賢明だ――

 

 何かによって細胞が一個ずつ塗り替えられてゆく。

 何千何百ものアリが骨髄に食らいつき這い上がってくる感触がする。

 身体が燃えるように熱い。

 心臓を高鳴らせながら瞼を閉じた。

 痛みが自然に抗い難い快感へと変化する。

 次に訪れる恍惚の瞬間が来ないか待ち侘びていた。

 やがて音も色も全て消え去っていった。

 

  ※※※

 

「……!!」

 

 静藍はふと目が覚め、がばっと身体を起こした。部室のソファの上で横になっていたようだ。傍に茉莉がいる。息が荒い静藍を心配そうに見つめている。彼は無意識に左の首筋に手をあてた。あの、薔薇のような不思議な形の痣がある部分だ。何故か熱を帯びており、鈍痛を感じる。

  

「……どうしたの? 嫌な夢でも見ていたの?」

 

 ふと視線を落とすと、自分の身体の上に紺色のカーディガンがかけてあった。彼女のだろうか。静藍は表情を和らげ、茉莉にカーディガンを返した。

 

「……何でもないです。門宮さん。昔の夢を思い出した。ただ、それだけです」

 

「そう。ならいいけど。うなされていたから、よほど悪い夢だったのね」

 

「今何時ですか?」

 

 茉莉は壁に掛けてある時計をちらりと見やる。

  

「もうじき四時になるわ。大丈夫よ。もう少ししたら部員のみんなが来るわ。それとも今日は部活休む? 神宮寺君今朝からあまり顔色良くなさそうだし」

 

 今日は三時半で授業が終わる日だった。現在部活動は五時までなら許可されている。曜日によって終了時間が異なる為、確保しようと思えば活動時間を確保出来る日もある。しかし文化部は部によるが、運動部であれば平日は朝練しかまともに機能していない状態だ。新聞部は記事にするネタをまとめたり、下書きの校正をしたり、ちょっとしたことや話し合いなら出来る為、少しの時間でも放課後に部室に集まって活動をしている。

  

 授業が終わって部室に寄ったがいいが、襲ってきた疲労感に負けて室内に置いてあった深緑色のソファに横になってしまった静藍だった。後から部室に来た茉莉はソファで眠っている彼を見付けた。彼女は毛布代わりのものがないか探したが見つからず、咄嗟に羽織っていたカーディガンを上に掛けておいたのだ。

 

 (僕は二十分位寝ていたのか……)

 

「少し休んだから大丈夫ですよ。どうもありがとうございます。いつも面倒ばかりかけてすみません」


 静藍は茉莉に花がほころぶような笑顔を見せた。

 

 窓の外では野球部の部員達が片付けや掃除でもしているのだろうか。ものを引きずったりと物音が響いている。

 

 月が変われば全ての部活動は通常の活動に戻って良いと許可がおりた。来月からどう活動を進めていくか、今日はその話し合いをする予定だ。

 

 (一体何故こんな夢を? 今まで全く見なかったのに。何かが起こる予兆なのだろうか?)

 

 静藍は一人首を傾げた。

 

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