第16話 プレゼン(3)プレゼン
喫茶店を出ると、むわっとした湿度の高い空気に包まれた。
先ほどまでは晴れて日差しが照っていたのに、今の空はどんよりとした雲に覆われていた。
気象予報士がテレビで「そろそろ梅雨入り」と言っていたのを思い出す。天気予報では今日は晴れの予報だったが、雨が降ってもおかしくない。
空と同じくらい重たい足取りで顧客のビルへと向かった。
ガラス張りの立派なビルに入り、一階の受付の横で課長と部長が来るのを待つ。
程なくして全員が集まり、そろった所で受付を済ませ、来客者用の入館カードを受け取った。
その間に桜木は担当者の川口にスマホで連絡を入れる。
降りてきた川口に
エレベータが左右に三機ずつ並ぶエレベータホールでじりじりとした時間を過ごし、降りてきたエレベータに乗る。
川口が操作盤に社員証をかざして認証を済ませ、会議室のある階のボタンを押す。
当然、エレベーターを降りて会議室の並ぶ区画に入るのにも社員証での認証が必要で、それでようやく認証からは解放される。
この区画から出るにはまた認証が必要で、トイレにこそ認証はないが、そこに行くためにも顧客にドアを開けてもらわねばならないようになっていた。
ビルに入ってからのこの一連のセキュリティは、早苗たち会社のビルでも同様だから、見慣れた光景ではある。
会議室には、顧客側の出席者全員がすでに集まっていた。
一瞬遅刻したのではとドキリとしたが、壁に掛かった時計をちらりと見れば、約束通りの時間だった。
大丈夫。時間ぴったりだ。
先方が立ち上がり、それぞれ形式通りの名刺交換が始まる。
橋本執行役員以外とは面識があり、以前に交換済みだが、これも様式美だ。
名刺入れの上に橋本の名刺を載せ、それ以外は役職の高い順に並べる。
シニア・マネージャーという、名称からは高いのか低いのかわからない肩書きの人物もいたが、序列はわかっているので迷うことはない。
名刺交換が終わり、顧客に
「この
全員が座ると、部長がこれまた定型通りの
事前に送付しておいた資料が、プロジェクターでスクリーンに投影される。
部長は川口から受け取ったマウスポインターを使い、レーザー光で示しながらプレゼンを進めていった。
早苗は机の下で手を固く握りしめてその様子を見守った。
やり慣れているだけあって、部長のプレゼンは上手い。説得力のある口調で、要所要所を押さえつつ説明していく。
部長が
だが、最後の質疑タイムで、それまで黙していた橋本が口を開いた。
「やはりクラウドの方が人件費が高いというのが納得いかない。御社の有識者を呼ぶからだというが、それは御社の内部の問題でしょう。御社の人員の育成費用を、なぜ我々が負担しなければならないのか。最初からクラウドが得意な人員でチームを組んで頂ければいい」
痛い所を突かれた。
それはその通りなのだ。
技術力がないのは早苗たちの勉強不足で、教育費用は本来会社がもつべきものである。それを人件費に転嫁するのはおかしな話だ。
見積りの内訳を詳細に提示したことによって、それが露呈してしまった。
これは、開発部隊の見積りを作成した早苗が答えなければならない質問だった。
「それは……」
早苗はなんとか最初の言葉を絞り出したが、喉の奥が貼りついてしまい、それ以上しゃべれなくなってしまった。
顧客の視線が早苗に集まっている。
答えなければ、答えなければ、と焦れば焦るほど、頭は真っ白になっていって、何を言えばわからなくなる。
その時、左隣の桜木が口を開いた。
「それについては、私からご説明いたします。ご質問はごもっともです。費用をご負担頂く理由は二つあります」
落ち着いた声だった。
「まず――」
桜木が一つ目の理由を説明する。
従来の開発メンバーは顧客の業務と現行システムへの理解度が高いこと。新規のメンバーを集めてしまうと引き継ぎが必要であり、不完全な理解により抜け漏れが発生するリスクがあること。
「それは一理ある。だが技術力不足の言い訳にはならない」
「はい。ですが、二つ目の理由として――」
桜木は今度はスケジュールが遅れていることを説明した。
新規メンバーに引き継ぎをするとなるとさらに遅れてしまうこと。それを取り戻すためには多くの人員が必要で、それは見積り金額に反映せざるを得なくなること。
「話にならないな」
橋本は首を振った。
「そこで、ご提案があります」
桜木は部長からポインターを受け取って立ち上がり、最後のスライドのさらに後、補足資料へとスライドを送る。
「次期システムの後には、機能追加のための小規模な開発が続きます。今回は初期費用として有識者の参画の費用を頂きますが、現開発メンバーがそのノウハウを身につければ、今後の費用は抑えることができます」
早苗がちらりと見ると、重役はじっとスライドを見つめていた。
「こちらは、既存メンバーで今後も開発を続けた場合と、新規メンバーで行った場合のシミュレーションです。開発規模などによって実際のお見積もり額は変動しますが、長い目で見れば全体の費用は削減することができます」
「なるほどな」
重役が腕を組んで考え込むように目をつぶった。
「業務理解の深い人材が必要なのもうなずける……。よし、それについてはわかった」
「ありがとうございます」
桜木が席に着く。
「では次の質問だが、クラウドにした場合のセキュリティの担保はどうとるつもりなのか。やはり
え!? それまた言うの!?
クラウドで構築することにはかなり前に同意していたはずだ。
なのに、クラウドかサーバーか、またその話を持ち出してきた。
これも桜木が答えるのだろう、と橋本を始めとした顧客の視線は桜木に向かっている。
だが、今度こそ早苗が答えなければならない場面だった。
桜木は開発に詳しいとはいっても、あくまでも営業。システムの構成など、技術的なところまで突っ込んだ内容には答えられない。
――声が出ない。
早苗は唇を震わせた。
そのとき、桜木に左手をぎゅっと握られた。
「先輩、大丈夫です」
桜木がそっと耳打ちをする。
ふっ、と肩の力が抜けた。
「セキュリ、ティの、担保……ですが――」
早苗は座ったまま説明を始めた。足が震えて立ち上がるまではできそうになかったから。
全員の視線が早苗に集まる。
早苗はぎゅっと桜木の手を握り返して、言葉を続けた。
「従来のサーバー構成ですと、ネットワークを内部と外部に区別し、内部のネットワークは全て安全と定義していましたが――」
専門用語を使わないように、平易な言葉で丁寧に説明する。
すると驚いたことに、橋本は専門用語を交えた技術的なことを聞いてきた。
早苗は橋本の知識レベルに合わせるように、専門用語を使って返答する。
スライドを見せながら何度かそのようなやり取りをした後、ようやく橋本は納得したような顔を見せた。
ほっと息をつく。
使わないだろうと思っていたが、念のためと専門的なシステム構成図を参考資料に入れておいてよかった。
早苗が桜木の手を離そうとすると、桜木は名残惜しそうに、すりっ、と親指で早苗の親指をこすったあと、手を離した。
その後は他の人から当たり
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