010.庶民と隔絶した生活

 俺の家庭はごくごく普通の一般家庭だ。

 住まいはマンションの一室で別荘なんてものも所有していない。


 ご馳走といえば半期に一度行くことができる回転寿司や焼き肉などだ。

 少なくとも昨日行ったような高級ホテルのレストランなど利用したことがない。


 普通じゃないところを強いて言えば俺以外の家族が海外に行っていることだろうか。

 この春、父親の仕事の都合でこの先1年ほどだが母と妹を連れて行ってしまった。

 勿論俺も行く予定だったが交渉の果てにこちらに残ることが決まり、ほんの少しの一人暮らしを満喫している。


 それでも……それでも、今目の前にある光景は俺の持っていた価値観を遥かに凌駕していた。

 この、地上100メートル弱から眺める絶景と、その高度に居を構えることのできる2人の存在は俺の想像を遥かに超えていた――――



 ―――――――――――――――――

 ―――――――――――

 ―――――――



「ありがと。いつもありがとね」

「いえ、いつも呼んでくださりありがとうございます」


 目的地に着いたらしいエレナは運転手のお姉さんに一言声をかけて降車する。

 それに続いて江嶋さんも降車し、助手席に座っている俺も出ようとドアノブに手をかけるも、その手には扉が開く特有の感触を感じられなかった。


「すみません。鍵掛かっているんで開けてもらえませんか?」

「…………お客様」

「はい?」


 どうやら鍵を掛けているのは故意的のようで運転手さんに呼びかけられる。

 もしかしてお金払えってこと!?そういえば二人とも払ってなかったし、手持ちあったかな……?


「私は長いことエレナさんたちの配送を専属していますが、ご家族以外の男性を見たのは初めてです。もしかして、そういう関係ですか?」

「へ? いえ……俺は……」


 そんな運転手さんの表情は学校で見たことがある。教室で女子たちが恋バナをする時の表情そのものだ。

 つまり俺を恋人関係かと勘ぐっているのだろう。彼女とは出会ってまだ半月も合っていない。それなのにそういう関係なんて……


「エレナとは……友人、です」

「そう……ですか……」


 たかが3度会った程度で友人というのもおこがましいかもしれないがそれ以上に適切な言葉など見つからなかった。

 運転手さんはひとつゆっくりと頷きながらこちらに笑顔を見せてくる。


「なんにせよ、朝からあんなにエレナさんがはしゃいでいたのを見るのはデビュー当時以来でした。あの子をよろしくおねがいしますね」

「は、はい……」


 運転手さんはそれを言いたかったのか、俺の格好つかない返事と共に扉のロックが解除される音が響く。

 エレナは普段からはしゃいでいる気もするが一体どんな感じだったのだろう。そう聞こうとも思ったが本人の居ないところで聞くのも失礼だと諦め、今度こそとドアノブを引くとようやく扉が開かれる。


「あ、あと――――」

「?」


 車を降りた俺に再度彼女から声がかかる。その時の運転手さんは人差し指を唇に当て――――


「さっき私が言ったこと、エレナさんには内緒でお願いしますね?」

「……勿論です」


 その言葉を最後に今度こそ歩みを進めて先に待っている2人の元へ追いつく。エレナは腕を組み、待ちくたびれた表情をして待ち構えていた。


「だいぶ時間掛かったわね。もしかして……運転手を口説いてたんじゃないの?」

「い、いや……そんなこと……」


 俺が否定しようとするもサングラスの奥から睨んでいるのがよく分かる。

 内緒にしろって言われてるし……なんて説明しよう。


「エレナ、もしかしてお金払わなくていいってこと知らなかったんじゃない?」


 と、間髪入れずに江嶋さんからのナイスフォローが。助かった……その道でいこう。


「あら、たしかに言ってなかったわね……悪かったわ。アレは後々一括して処理するから大丈夫なのよ」

「……うん、そう説明されたよ」


 エレナは不機嫌そうな雰囲気を弛緩させ、高さ100メートルは超えていそうなビルに囲まれた道を歩いていく。

 そんな彼女の後を俺と江嶋さんも無言のままついていった。






「――――ついたわ。ここよ」


 と、道を先導していたエレナがとある建物の前で立ち止まる。

 そこはいわゆるタワーマンション……それもここらへんで一番高い建物だった。

 首が痛くなるほど見上げて最上階の位置を確かめるも入り口からでは高すぎて見えない。


「ここは…………事務所の社長さんの家?」

「何いってんの…………」


 盛大に溜息を吐かれた。いやだって、こういうところに住めるのって社長とか会長とか、そういうイメージだし……


「えっと……弟さんなのに知らなかったんですね……ここは、私達の自宅なんです」


 江嶋さんから発せられるその事実に、俺は何度目になるのか開いた口が塞がらなかった。

 住む世界が違うなと昨日から思っていたが、まさか文字通り住む世界が違っていたとは……


「弟といっても色々複雑だからね……ま、とにかく入りましょ」


 複雑どころか勝手に言ってるだけの至極単純なものだろうに。

 けれどそれを口に出すことはなく、3人揃ってエントランスへ脚を踏み入れる。



 建物の中も俺の知っているマンションとは一線を画していた。

 エレベーターも複数基あってカードをタッチさせないと動くこともなく、各階にはゴミを捨てるためのダストシュートがあるというのだ。

 ダストシュートは本当に羨ましい。こちらは毎回重いゴミを持って苦労して1階に降りているというのに。


「たしかにダストシュートは便利ね。でもカードキーはいただけないわ……以前誰かさんが間違えてクレジットカードをかざしていたもの」


 とはエレナの談。その直後江嶋さんが顔を真っ赤にしてエレナの肩を揺らしていたからそういうことなのだろう。




「さ、着いたわ。この部屋が私の家よ」


 エレベーターを降りて数歩進んだ扉の前で俺たちは立ち止まる。

 このフロアにはエレベーターを除き3つしか扉がない……つまり1フロアを3部屋で分割しているという贅沢仕様だ。住民トラブルも少なそうで羨ましい。


「お邪魔しまーす……」


 恐る恐る踏み入れた先もなかなか豪勢なものだった。

 玄関は複数人が踏み入れるほど広く、見える範囲の廊下の片側は鏡になっていて開放感が感じられる。


 更に歩みを進めてリビングにたどり着くと壁一面の大窓に出迎えられ、暖かな陽の光に照らされる。


「凄い……」

「ふふん!でしょう?」

「まさかエレナが片付けのできる人だったなんて……」


 内装も十分驚いたが、まず驚愕したのはそこだった。

 完全に印象だが、なんとなくエレナは片付けができない人だと思っていた。だから部屋もゴミで散乱していると思われたがこうも綺麗だと考えを改めねばなるまい。


「も……勿論よ! 私が部屋を汚すなんてあるはずが――――あいったぁ!!」

「?」


 内装に気を取られて何が起こったか分からなかった。

 エレナの驚きの声に振り向くと彼女は背中をさすっていて、その真隣にいる江嶋さんがニコニコと微笑んでいる。


(なにするのよ!)

(昨夜遅くに起こされて部屋全部綺麗にした私になにか言うことは?)

(あ……ありがとうございます)


 何やら後方でボソボソと話し声が聞こえてくるも内容までは聞き取れない。

 けれどこの部屋……窓が大きすぎてエアコン代が大変な事になりそうだと思う俺は庶民の極みなのだろうか。


「――――それで、なんで俺をここに呼んだの?」


 初めて入ったタワマンの内装にひとしきり驚いたところで最も大事なことを問いかける。

 するとエレナは思い出したように手を叩き、隣の江嶋さんが額に手を当てため息をつき始める。


「えぇ……そうだったわ。 ちょっとそこで待ってて!」


 そう言って廊下へと駆け出していくエレナ。俺は頭に疑問符を浮かべながら彼女の帰りを待つのであった。

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