元お飾り王妃は侯爵令息の狂気に毒される

「っつ!」


 その瞬間、私は言葉を失ってしまった。


 頬とはいえ、キスなんて……。


 そんなの、一度目の人生でも数えるほどしかしたことがない。


 だからこそ、私はそのまま言葉を失ってしまった。


「フライア様」


 しかし、そんな私の気持ちを知ってか知らずか、シリル様は妖艶な笑みを浮かべられる。


 その後、私のことを力いっぱい抱きしめてこられた。


 今、この人を拒絶することはきっと簡単だろう。でも、私がもしも完全にこの人のことを拒否してしまえば?


 この人は壊れてしまうような気がした。いや、元からこの人は壊れているのかもしれない。それでも、これ以上は壊れてほしくない。

 そんなことを思うのは、自分勝手なことなのだろうか?


「しり、る、さま」


 私はゆっくりとシリル様の名前を呼ぶ。そうすれば、彼は「はい」とただ返事をくださった。


 そして、私は恐る恐るシリル様の胸を手で押す。だが、全く動かない。これが男女の力の差か。


 そんなことを思いながら、私はただ小さな力でシリル様の胸を押すことしか出来なかった。


(この人は、危ういんだ。まるで、前の私みたい……)


 そう思った。


 シリル様には頼れる人がいる。


 ブラッド様は、きっとシリル様が助けを求めれば普通に助けてくださると思う。けれど、シリル様は助けを求めようとはしない。


 ただ、一人の人間を求めているのだ。一度目の時間軸の私が『彼』だけを心の支えにしていたように。


「フライア様。貴女は、とてもお美しい。その容姿も、内面も、すべてが俺好みなのです。あのとき初めて出逢ったとは思えないくらい、俺は貴女に恋い焦がれているみたいなのです。……どうして、なのでしょうね?」


 シリル様にそう問いかけられても、私は何とも答えられなかった。


 私とシリル様。私にとってシリル様は、一度目の時間軸ではあまりかかわりのない人……のはず。もしかしたら、すれ違うことくらいはあったかもしれない。


 しかし、シリル様が私に執着する理由がこれっぽっちもわからない。だから、どうしてなのか私にも分からない。


「わかりません。私、シリル様のお気持ちが全く分かりません」

「そう、ですか。俺も、フライア様のお気持ちが全く分かりませんよ。お互い様ですね」


 抱きしめられたまま、こんな会話を交わしていればまるで恋人同士にも見えてしまうだろう。そんな風に、錯覚してしまいそうになる。


 だけど、今の私は一応イーノク様の婚約者であり、シリル様とは恋人同士でも何でもない。私たちはただのお友達。私はお友達が困っているから放っておけない。ただ、手を差し伸べたいと思っている。それだけ……ですよね?


「しかし、貴女はひどい人だ。俺の気持ちをここまで壊そうとする。気持ちを乱してくるのに、責任は全くとってくれない。まるで、一線を引いたみたいに俺に関わってくる。もっと、踏み込んできてもいいんですよ?」


 シリル様はそんなことをおっしゃると、私を抱きしめる力を弱めた。


 そして、私と視線をまっすぐに合わせると、ただ一言「愛しています」と告げてこられる。その目にはやはり影のようなものが宿っていて、光がなくて。


 希望なんて、何も見えていないみたいで。やっぱり、一度目の時間軸の私のようだと思ってしまう。


「……フライア様。口づけ、してみましょうか。そうすれば、貴女の気持ちもはっきりとするような気がするんですよ」

「え? ちょ、まっ!」


 しかし、次にシリル様のおっしゃったお言葉は、私の予想のはるかに斜め上を行っていて。シリル様は、私の静止の声も聴かずに、そのままご自身の端正なお顔を私の方に近づけてこられる。


(こんなの……シリル様も、不本意のはずなのに……!)


 何故か、私はそう思ってしまった。


 シリル様は私に執着されている。でも、こんなことをするのは不本意ではないのだろうか。そんなことを、私は思ってしまった……のかもしれない。


 だから、どうにかしてこの場を回避しなくては……!


 だけど、どうしたらいいのかが全く分からない。シリル様の胸を押しても、彼はびくともしない。


(どうする? どうする? って、考えている時間はないに等しいじゃない……!)


 私の心だけが、焦りだす。シリル様の整った顔立ちが間近に迫り、私は「もうダメだ」と思ってしまった。


 しかし、そのときだった。


「シリルさん! ちょっといいですか……って!」

「おい、ナイル。止まるなっての」


 そんな騒がしい声と共に、いきなりお部屋の扉が開いた。その声を聞かれたからか、シリル様の動きが一瞬止まる。そして、シリル様の意識は私から騒がしい声の方に移ってくれた。


 それに、私は一安心した。その後、私の身体は緊張から解放されたためなのか、力が抜けてしまうのだった。

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