第25話 闇より忍び寄る邪悪⑥

 ……何故だろうか。

 どこからか、懐かしい声が聞こえてくる。


『……ん。分かった。ユウくんが望むなら私も行く』


 とても涼やかな少女の声だ。

 物心ついた時から知っている彼女の声――。

 感情こそ滅多に面に出さなかったが、常に優しさを秘めた女の子だった。


『おいおい、テンション低いぞ二人とも! 生まれて初めてのカラオケだぞ!』


 今度は少年の声が聞こえてくる。忘れもしない親友の声だった。

 本当に懐かしい。かつてはいつも傍にいた二人の声だ。


(……大和、沙耶ちゃん……)


 山道を駆け抜ける悠樹の表情が、徐々に暗いものへと変わっていく。


「……悠樹? どうしたのじゃ? 顔色が悪いぞ」


 悠樹の斜め後ろを追うように走る由良が、心配げに声をかける。しかし、悠樹は聞こえていないのか、振り向こうともしない。

 由良は一瞬考えた後、悠樹の右手を掴んで強引に足を止めた。

 ぐい、と急ブレーキをかけられ、たたらを踏む悠樹。

 彼は困惑した顔で由良を見つめた。すると、彼女は少し頬を膨らませて、


「ちゃんと妾の話を聞くのじゃ。悠樹、一体どうした? 顔色が悪すぎるぞ」


「そ、それは……」思わず口ごもる悠樹。こんな話を今するべきなのだろうか……?


 だが由良の紫水晶の瞳は悠樹を真直ぐ捉えて、聞くまで離さないと訴えている。

 わずかな沈黙の後、悠樹は躊躇いがちに口を開いた。


「……不意に、昔のことを思い出したんだ」


「……昔のこと?」


 由良の反芻に、悠樹はこくんと頷き、


「そう。昔の話。僕と大和と沙耶ちゃんの三人で、初めてカラオケに行った日のこと」


「……カラオケとな?」


 由良は怪訝そうに眉根を寄せる。カラオケとはまた随分と呑気で平和的な話だ。

 この危機感ある状況で思い出すようなことではないし、そもそも、その内容で悠樹がこんな辛い表情を見せる理由が分からない。


「どういうことじゃ? 何故その思い出で、そなたはそんな辛い顔をしておる?」


 単刀直入にそう尋ねる由良に、悠樹は沈黙で返す。

 そして少しの間だけ少年は苦悩の表情を浮かべていたが、ようやく言葉を紡ぎ出した。


「……とても楽しかった大切な思い出だよ。だけどさ」


 悠樹は拳をきつく握りしめる。


「大和はもういない。もう二度とあり得ないことなんだ」


「―――ッ!」


 由良は悠樹の真意――彼が抱いている予感を察して、息を呑んだ。


「ずっと嫌な予感がしているんだ。何か取り返しがつかないような予感が……」


 由良は何も言えなかった。悠樹の『嫌な予感』は本当によく当たる。

 数多の死線をくぐり抜けて身に付けた異能のようなものだ。それが思い出という形で悠樹に警鐘を鳴らしている可能性は大いにあり得る。


「もしかしたら事態はもっと深刻で、御門さんと鷹宮君の身に何か危険なことが起きようとしてるんじゃないかって、頭から離れなくて……」


 全身を強張らせて、悠樹は俯いた。


「……悠樹、そなた……」


 由良は静かに少年を見つめた。他者を思いやり、不安で胸を痛める優しい少年を。

 改めて思う。やはり悠樹は戦士には向いていない。

 優しい性格と親友を失った経験ゆえに、どうも必要以上に他人を気遣いすぎるのだ。

 敵である《妖蛇》が相手ならば、まだ非情にもなれるのだが、味方に対しては甘すぎる傾向があった。正直それはまずい傾向だった。戦場においては、時には味方に対しても非情になる必要性がある。そんな時、非情に徹せない性格など足枷にしかならない。


 戦況によっては、優しさが仇になることもあるのだ。

 悠樹のこの性格は本来ならば、すぐにでも矯正すべき欠点だった。


(……だがのう)


 由良は小さく嘆息する。

 悠樹の欠点は、相棒である由良が一番理解している。

 だが、同時にそれこそが悠樹の根源だった。まさに彼の本質だ。そして傷ついた者に手を差し伸べずにはいられない悠樹の優しさにこそ、由良は強く惹かれたのだ。

 この少年が優しかったからこそ、彼女は地獄のような孤独から救われたのである。


 ――だからこそ・・・・・

 この少年の優しさは、大切にしてやりたかった。


(……はあ、これもまた『惚れた弱み』というやつなのかのう)


 内心でそんなことを思いつつ、由良は苦笑を浮かべる。

 いずれにしろ、今は悠樹の精神状態を少しでも落ち着かせるのが先決だ。

 由良は小さく嘆息すると、わずかに頬を染めた。

 これからやることは、彼女にとってもかなり恥ずかしいのだ。

 悠樹には無防備とか思われているかもしれないが、本来の彼女は結構奥手であり、本当は手に触れる時さえ緊張しているのが実情だった。


(…………ふう)


 しかし、今は仕方がない。

 由良は覚悟を決めると、表情を少し緊張させつつ悠樹に告げる。


「………悠樹。少し座れ。膝をつく程度でよい」


「……え? 由良? う、うん」


 由良に言われるがままに両膝をつく悠樹。

 すると、

 ――ぎゅうぅ……。


「え……? ゆ、由良っ!?」


 いきなり由良の豊満な胸に、頭を抱きしめられてしまった。

 服越しでも伝わるとんでもない柔らかさに、悠樹は激しく動揺した。今まで彼女と触れることは何度かあったが、正面から抱きしめられたのは初めてのことだった。


「ゆゆゆ、由良あっ!? なななな、何をッ!?」


「こ、これ動くな悠樹! あっ……」由良の顔が一瞬真っ赤になる。


「や、やぁ、動かないで……」


「ッ! ッ!?」初めて聞く由良の嬌声じみた声に、思わず悠樹はフリーズした。すると彼女は少し安心したのか、小さく息をついた後、悠樹の髪をゆっくりと撫で始めた。


 悠樹は言葉も出せず、ただされるがままだった。

 その抱擁はしばらく続いた。

 そして数十秒後、悠樹を抱きしめたまま、由良はおもむろに囁き始める。


「……大丈夫。暴走しておっても鷹宮は鷹宮じゃ。小娘を殺したりはせん。小娘の方も鷹宮を憎んでなどおらん。二人が死ぬことなどありはせん」


 それは、まるで幼い子供に言い聞かせるような優しい声だった。 

 その後も由良は「大丈夫」と何度も繰り返す。悠樹はただ唖然としていたのだが、彼女の声が耳朶を打つたびに、何故か少しずつ心が落ち着いていった。

 彼女の温もりが、とても心地良かった。


(……由良……)


 耳を澄ませば、トクントクン、と由良の少し早い鼓動が聞こえてくる。

 もしかしたら、彼女も緊張しているのかもしれない。

 悠樹は瞳を閉じる。

 鼻孔に広がる彼女の甘い匂いは、まるで花の香りのようだった。


「……由良。もう大丈夫だよ」


 そう告げて、悠樹はすっと肩の力を抜いた。

 嫌な予感はまだ消えない。

 しかし、それでも不安はかなり払拭され、大分気持ちが楽になっていた。

 そして少年は穏やかな笑みを浮かべつつ――。


「……ありがとう。由良」


 いつも迷惑をかけてばかりの相棒に、感謝の言葉を述べた。

 すると由良は、少しいたずらっぽい笑顔を見せて。


「ん? そうかの? なんなら、あと十分ぐらいこのまま延長しても良いぞ?」


「え? い、いやいやいや、その、そんな余裕ないし!」


 赤い顔で立ち上がる悠樹。少年の返答に、内心ではホッとする由良。

 少し照れくさい空気が流れた――その時だった。

 森の中に雷音が轟いたのは。

 二人は息を呑んだ。次いで慌ただしく飛び立つ鳥の群れ。

 悠樹は、ハッとして空を見上げる。

 どこまでも澄んだ青い空。所々に白い雲はあるが、雷雲などどこにもない。


「――由良! 今のって!」


「……『雷』じゃと……まさか、鷹宮家の《黄金符》なのか……?」


 予期せぬ事態に、眉根を寄せて由良が呟く。悠樹の顔が青ざめた。


「……《黄金符》って……それって鷹宮君が御門さんに《黄金符》を使ったの!?」


「いや、確かに『雷』は鷹宮家の《黄金符》の効果だとは聞くが、まだ鷹宮には――ひやあっ!? えっ、え? ゆ、悠樹? いきなり何を……」


 普段ならまず聞けない可愛らしい悲鳴を上げて、パチパチと瞳を瞬く由良。

 彼女は今、いわゆる『お姫様抱っこ』と呼ばれる格好で悠樹に抱き上げられていた。


「……ゆ、悠樹?」


 急な展開に由良は激しく狼狽した。

 ――こ、これはまずい! 非常にまずい! 

 必死に抑えていた先程の緊張感まで一気に噴き出し、カアァと頬が熱くなった。

 そして、どんどん心音が高鳴っていき――。


「……由良」


「――ひやあっ!? なっ、何でしょうかっ!」


 上擦った声で返事する少女に対し、悠樹は真剣そのものの顔で告げる。


「さっきより嫌な予感がする。両足を部分顕現して走るよ。しっかり掴まって!」


 と、言い終えた途端、悠樹の前に一枚のカードが現れた。そして両足のみが銀霊布に包まれると、紫色の具足へと変化した。

 由良はキョトンとしていたが、すぐさま状況を察し、


「――ま、待て悠樹、少しは加減して……」


「却下! 全力で走る! 僕の首にしがみついて!」


 悠樹の宣言で完全に冷静さを取り戻した由良は、どこか諦めたような表情を浮かべた。

 こういう時の悠樹には何を言っても無駄だった。小さく嘆息し、由良は渋々といった感じで悠樹の首に手をまわす。それを見届けた悠樹はこくんと頷き、


「じゃあ跳ぶよ!」


「せめて走ると言ってくれんかの!?」


 由良のツッコみも無視して悠樹は宣告通り跳んだ。山道を陥没させ、十メートル近くも跳躍する。由良の唇から三度みたび可愛らしい悲鳴がもれた。

 そうやって大跳躍を繰り返し、悠樹と由良は翔子達の元へと急ぐ。

 言い知れぬ焦燥を胸に抱えながら――。

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