第五話 蛇
和真は部長のお言いつけどおり、主にゴミの処理施設を見て回った。一部は換気扇が修理中で、むせ返るような臭いが充満していた。
報告書にまとめようと、夕方には事務所に戻ったが、心なしか同僚には遠巻きに見られ、終始背中に向かって何かを言われている気がしていた。
和真が家に帰ると、丸坊主に近い頭になった兄が味噌を煮詰めるいい匂いがしていた。思わずお腹を押さえ、腹の減り具合を確かめる。
玄関の靴がひっくり返っていた。下駄箱の中身がほとんど地面に落ち、靴べらまで落ちていた。
どうやったらこうなるんだよ。
和真は下駄箱に靴を並べ直しながら、台所に立つ兄の明徳の背中を見た。
いい加減なやつ。
明徳は鍋を掻き回しながら、スマホを片手にニヤニヤと微笑んでいる。
和真は昨日の余りのご飯を冷蔵庫から取り出してレンジに入れ、温め終わると熱しておいたフライパンに入れて炒めた。
今のいままで和真が帰っていることにすら気づいていなかった明徳は驚いたように言った。
「おわっ! おまっ! 帰ってたのか!」
「ああ、そうだよ。すいませんねぇ、帰ってて」
「スネるなよ。悪かったって」
「今日はチャーハンとその味噌汁でいいんだよね?」
「ああ、充分だろ」
二人で食事を貪り、おもむろに立ち上がった明徳は冷蔵庫からいつものようにデザートを取り出そうとしていた。
明徳はコンビニで余った商品などを家に持ち帰っている。そのまま廃棄するよりは、俺たちの胃袋に入った方が作った人たちも浮かばれるってもんだと持論をいつも展開する。
冷蔵庫には常にいくつかデザートがストックしてあるが、ここ最近は空いてきている。ストレス発散に和真がこっそり食べているからだ。普段は食べないが。
その分、お腹に肉がついてきた気がする。そのうち、兄のような出た腹になって薄らハゲてくるのか? 不安は尽きない。
「あれ? もうデザートないや」
和真は大袈裟に驚き、大幅に食った個数をちょろまかして言った。
「え? この前一個だけ食べたけど、もうなくなったんだ」
「ちょっと余り貰ってくるかな」
そう言い、財布を鞄から出してサンダルを履いた明徳は、玄関でぎゃっと声をあげた。
自分の体重で足でも捻ったのかと思った和真は、うぅーっと唸る兄の様子をのんびり見に行った。
明徳は足首を押さえて、玄関の段差をはい登りながら言った。
「噛まれた! 下駄箱! 下駄箱の下に何かいる!」
「はあ? なに?」
和真は玄関先の段差を這い上がってきたばかりの、明徳のでっぷりとした尻をトイレの前の扉まで足で押しやってやって、玄関に腹ばいになると下駄箱の下を覗いた。
「暗くてよく見えないな」
けど、何かいるようにも見える。
和真はスマホを持ってきてライトをつけた。これまた同じように腹ばいになって覗き込んだ。今回はライトの光を向けながら。
「うわっ! 本当に蛇がいる!」
和真は飛び上がるように起き上がった。
「蛇だって? 俺は蛇に噛まれたってのか? もうダメだ。だからこんなに痛いんだ、毒で死ぬ。救急車を呼んでくれぇ」
痛い痛いと呻く明徳を呆れたように見て言った。
「まだ分かんないだろ? 毒のない蛇だといいけど」
和真は玄関に投げっぱなしにしてあるモップを掴み、また腹ばいになって下駄箱の下を覗きこみながらモップをスルスルと押し込んでいく。
和真はとぐろを巻いた蛇をモップで押さえつけた。
「このっ! 暴れるなよ!」
蛇はのたうち回って抵抗しながら、和真の腕を目掛けて下駄箱から飛び出てきた。
「うわっ! うわわぁ!」
驚き過ぎた和真は玄関の土間に転がり落ちて、尻もちをつきながら後ろに下がるが、玄関のドアに腰をぶつけた。
モップを突き出し蛇を牽制するが、今度はモップにスルスルと巻き付き、和真目掛けて迫ってくる。和真の全身の毛が逆立つ。モップを離したいけど、和真は凍りついたように動けないでいた。
蛇は口を大きく開き、二本の鋭い牙を見せて威嚇している。
その脳天目掛けてバットが振り下ろされた。
ドカン!
地面とモップと木製バットがぶつかる音が辺りに響く。和真は凍りついた呪縛が解けて思わずモップを放り投げるように手放した。
「何すんだよっ! 危ないだろっ!」
「このっ! このっ! このっ!」
明徳は狂ったようにバットを振り下ろし、蛇を叩き潰し続けた。
明徳は肩で荒々しい息をしていた。持っていたバットは玄関の下駄箱に立てかけてトイレに入っていった。
和真はブツブツとまだ文句を言っていた。玄関の土間にはバットで打ち付けた跡が残り、その端々には蛇の黒い血や肉片が飛び散っていた。
和真はトイレをドンドンと叩いた。
「おい! 毒は?」
「ちょっと待ってくれ。でかいのが出そうなんだ」
和真は呆れた顔で玄関のサンダルを履くと、モップを持って外に出た。新品なんだぞ。まったく。どうやら折れていないようだった。そういえばと思い返しモップの柄を持って先を見てみると、先にべっちょりとついた虫の死骸も、黒い染みを擦った跡もきれいさっぱりなくなっていた。玄関の外に備え付けられている蛇口を捻り、念の為に洗っておいた。
和真が玄関から中に入ると、明徳がヤカンを持って蛇の死骸にお湯をかけていた。
「……何してんだ?」
「こうやればこの汚れを落とすのも楽になりそうじゃないか?」
和真はそんなわけないじゃないかと思っていた。だが黙っておいた。
明徳はバットを取ってくれと言わんばかりに玄関の段差の上にしゃがんで手招きしている。まるで届かないから取ってくれと言わんばかりに。チラチラとこっちを見ている。あと少し伸ばせば届くじゃないか。脂肪で腕が伸びないのか?
和真はやれやれとバット手渡した。明徳はヤカンからお湯を垂らしてバットにかけていった。蛇の毒々しい黒い血はお湯に押し流されて地面に垂れたかと思うと、蛇の死骸ごと蒸気となって四散していった。
「ほら、落ちやすくなるどころか蒸発したぞ! すごいだろ!」
「すごくねえ! すごくねえどころかありえないだろ! なんだよ今の! まるで……」
和真はそこで言葉を切った。言葉を思いつかなかったが、それでもとにかく不気味で、非現実的だと感じていた。兄の明徳の前では怖がる素振りはしたくなかった。
「……んで、毒は?」
「何ともないみたいだ。クソと一緒に出ちまったかもな」
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