17.恋と殺戮としにがみクラゲ
「――やっと名前を思い出した」
キーラはほう、と息を吐く。
その手は、完全に頭部を失ったナオミの首の付け根を水面へと押さえつけていた。
しかし、それでもナオミは死んでいない。
指先で徐々に盛り上がる肉と骨の感触を感じながら、キーラは記憶を手繰る。
「確か、イルカンジクラゲと言ったかな。シドニーが前に話してた……オーストラリアにいるヤバい殺人クラゲだ」
『小さな体に漲る殺意! その名もイルカンジクラゲ!』
記憶の中のシドニーは熱っぽく語っていた。
何故かギロチンクラブの水曜日恒例となっている有毒生物講座。シドニーはダーツ盤にクラゲの写真を貼り付け、それを指し棒で示した。
『こいつはともかくヤバイ! 刺されるとイルカンジ症候群が引き起こされる! 全身の激痛! 血圧の急上昇! 精神不安! その他諸々! あと男だとアレが勃ったまま止まんなくなるぞ! でも、こいつのヤバイところはこれだけじゃないぜ!』
「――見えないんだ、このクラゲは」
激しくもがくナオミの体を押さえつけたまま、キーラは淡々と囁く。
水面から、ぽつぽつと白いクラゲ――オマモリイルカンジ達が浮き上がってくる。
いずれも本当に小さく、ほとんど指先程度の大きさしかない。
「この通り、小さいクラゲだ。クラゲ避けのネットもすり抜けてしまう。――けれども触手はそこそこ長いし、そのうえ傘にまで刺胞を持っているんだよ」
刺されても、ほとんど痛みを感じない。
波に紛れてしまえば、何匹いても見えるわけがない。
なんの痕跡も残さずに、死と苦痛とをもたらす――そんな、先住民がかつて恐れた『見えない怪物』の正体は、このクラゲだったのではないかと推測されている。
「――これはオーレリアがこのホテルで初めて発現したクラゲだ」
「ぎっ、い……」
一瞬、ナオミが水面から顔を上げた。
完全に再生した頭部に、ばらばらと濡れた黒髪がかかる。
血走った目で、ナオミは天井を睨みあげた。
そこにはカラスの群れの残骸と思わしき、黒い影がいまだわだかまっている。
どろりとした墨のようなそれは、ナオミの視線にざわめいた。そうしてぼこぼこと泡立ち、再びカラスの形を成そうとする。
が、それよりも早くキーラはナオミの頭部を金網床に叩き付けた。
脳挫傷――死亡。
「君はこのクラゲの存在を知らない。だから私は、この小さなクラゲに賭けることにした」
ぼこりと水中から大きな泡が上がる。
ナオミの手が小太刀を探して彷徨うのを見て、キーラは群青の瞳を細めた。
「でも、この子達の存在に気付かれちゃ困る。だから、いろいろ考えたよ。他の大きくて派手なクラゲで目眩まししたり、接近戦に持ちこんでみたり……まさか、この私が陽動をすることになるとはね」
くつくつと喉の奥で笑いながら、キーラは水中からナオミの頭部を引きあげた。
甲高い喘鳴とともに、ナオミが水を吐き出す。激しく咳き込み、不規則に肩を上下させるナオミの耳元に唇を近づけ、キーラは感情のない声で囁きかけた。
「おかげで全然気付かなかっただろう。数十回は刺されたのに」
「良い気になるなよ……ッ!」
苦しげに喘ぎながら、ナオミは横目でキーラを睨んだ。
「この程度で、私は滅びはしなっ
最後まで聞かなかった。キーラはナオミの頭部を金網床に叩き付けた。
脳挫傷――死亡。
「君の命は残機制なんだろう?」
砕けた骨が再生する感触を感じつつ、キーラはもう一度ナオミの頭部を引きあげる。
すっかりルージュの剥げた唇が何かを言う前に、再び落とす。
脳挫傷、頸椎骨折――死亡。
「君は無限に近いかもしれない。けれども実際のところは有限の存在だ。つまり、こうして丹念に丁寧に執念深く何度も殺していれば、いずれは完全に死に絶えるというわけだ」
ナオミの手が、再び暴れ出す。背中が波打ち、起き上がろうとする。
キーラは涼しげな顔で、ナオミの頭部を床へと押しつけた。
「私にはね、一瞬で十分だったんだ。ほんの一瞬でも、君が思考を止めてくれたなら」
ぼこぼこと湧き上がる泡が妖光に煌めき、なんとも美しかった。
呼吸困難――溺死。
「――私は、君を永遠に殺すことができる」
静かになった水面を見下ろして、キーラはわずかに唇を吊り上げる。
静寂は一瞬のことだった。すぐにまた、蘇生したナオミが起き上がろうと暴れ出す。
「君の敗因は主に三つ」
キーラが淡々と語る中、オマモリイルカンジ達がゆっくりと水中に沈んでいった。
直後ナオミの体が大きく何度か痙攣し、弛緩した。
アナフィラキシーショック――死亡。
「一つめは、調子に乗ったこと。二つめは、オーレリアをなにもできない弱者と侮ったこと」
一瞬だけキーラは眉を寄せ、わずかな不快感をその表情に示した。
「ひどい侮辱だ……オーレリアは確かに弱い。でも、彼女は変化できる存在だ。このクラゲ達がその証拠。君を追い詰めたのは、紛れもなく彼女の力だ」
ナオミは言葉もなく、ただ荒い呼吸を繰り返す。
キーラは群青の瞳を細めると、「そして」と不気味なほどに優しい口調で囁いた。
「最後にして最大のミスは――この私の前に立ったことだよ、愚か者」
「ヒ、ヒヒッ、ヒ……ずいぶん、オーレリアにご執心じゃないかね……?」
ナオミは、悲鳴のような声で笑った。
そうして乱れた黒髪越しに、青ざめた顔でキーラを見つめる。短時間で幾度もの死と蘇生を繰り返した瞳は、ほとんど焦点が定まっていない。
「どうして彼女に固執する……? 逢ったばっかりの、見知らぬ娘に……」
キーラは視線を宙に向け、考え込んだ。
「……違いすぎるから、かな」
――最初に見た時は窓越し。次はラウンジの一瞬。
あまりにも短い邂逅だった。
けれどもそれは、稲妻のような衝撃をキーラに与えた。
「いつも哀しそうで、不安がっていて……気がつけば泣いてる……。そのくせ優しいし、律儀だし、わりと頑固なところもある。あとかわいいし……まぁ、ともかく。私とは、あまりにも違う生物だよ。オーレリアは」
あまりにも違う人間――いや、生物だった。
それこそ、シャチとクラゲくらいには遠すぎる生物だということだけが理解できた。
「まったく理解できない……意味がわからない……」
キーラは深くため息を吐いた。群青の瞳が一瞬伏せられ――そして、ゆっくりと開かれた。
「――でも、だから気に入っている」
鋭利な歯を一瞬だけ覗かせて、キーラは唇を綻ばせた。
虚ろな瞳を輝かせ、白い肌をわずかに紅潮させ――心底満足げに、笑う。
「だから良いんだよ、オーレリアはさ」
「…………殺人鬼のくせに」
ゆるゆると首を振り、ナオミは吐き捨てるような口調で呟いた。
「まるで、恋をしているような顔をするんだね」
キーラはくすっと笑って、とりあえずナオミの頭部を金網床へと叩き付けた。ナオミの手が一瞬跳ね上がり、真紅に染まる水面へと落ちていった。
「なるほど、恋か。悪くない。――ま、それはさておいて」
キーラはナオミの頭部を引きあげ、きつく締め上げた。
「答えてもらおうか。どうすれば人間界に帰れる? 君が素直になるまで殺すよ」
「ヒヒッ……私を殺しているうちに、手遅れになるかもねェ」
「せ、せんせい……」
か細い声が、響いた。
途端、ナオミの体が硬直する。キーラはわずかに目を見張って、振り返った。
「オーレリア……」
出入口脇の資材置き場――そのブルーシートから、オーレリアが顔を覗かせていた。
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