3.オーレリア・ティアフォード
――奇妙な【色】を見た。
「は……?」
「な、……ッ、あガッ……!」
キーラが眼を見開いた瞬間、突如としてロバートが苦しみだした。
先ほどのまでの不敵な笑みはかけらもない。彼は血走った目を剥き出し、胸を押さえた。
炎の獅子が倒れ込み、苦悶の声とともに明滅を繰り返した。
「お、お待ちください……何故だ……? わけを……ッ!」
かすれた声とともに、ロバートの口から血の泡がぼこぼこと吹き出す。
ロバートだけではない。白スーツを着たドアーズ達もまた、胸を押さえながら床に倒れ込んでいた。血の床に無数のしぶきが上がり、悲鳴と呻きとがこだまする。
「な、何……何が、起きているの……?」
それまで自分を嘲っていた男の豹変を、オーレリアは涙に濡れた目で呆然と見つめた。
「どうして、こんな……」
「……私が聞きたい」
キーラもまた目を見開いたまま、ロバートとドアーズ達の狂乱を凝視していた。
「お待ちを……な、何故私にこんなことをッ、ッう、ぐ……!」
四つん這いで苦しむロバートの【色】は、今までにないほどに激しく乱れている。
透き通っていた【琥珀】は濁り、環はまるで子供がめちゃくちゃに描いたような波線状になっている――すさまじい恐怖を、ロバートは何かに対して感じているようだった。
そのうえ、キーラの眼には異様なものが映っていた。
「なんだ、これは……」
「おれは貢献したッ! 貢献したんだぞ!」
高価なスーツを血に染めて、ロバートは半狂乱で叫んだ。
不規則に波打つ胸に、奇妙な【黒】がぼこぼこと泡立っている。それはまるで――。
「中になにかいる……」
「義務を果たしたじゃないかッ! おれの働きで組織はここまで……! おれも、家族も、ずっと、ずっと――! やめろ、待て、待ってくれ、どうか、どうか――ッ!」
瞬間、炎の獅子が甲高い絶叫とともに消失した。
同時にロバートの体が大きくのけぞった。眼球がぐりんっと白目を剥いた。
「どうか、どうか……! 頼む、レギオン――ッ!」
哀願は、そのまま断末魔の叫びとなった。
【黒】が爆ぜた。同時に、湿った布を引き裂くような音が響く。キーラは目を見開いて、ロバートの胸を内側から突き破ったそれを見つめた。
「……アー、ア、アア、アアー……」
人間のような声を上げ、黒い嘴がカチカチと音をならす。
仄暗い肉と骨の向こうで、濡れた羽毛が揺れる。ロバートの血にまみれたそれは、食いちぎった肉片を飲み込むと、白い目をキーラに向けた。
紛れもなくカラスだった。カラスは頭を不規則に揺らし、嘴を開いた。
「ワァアアア…………モアァアアアア……」
奇怪な鳴き声は、やがて咳き込むような音に掻き消された。
カラスの頭が痙攣する。そうして嘴から赤黒い泡を吹き、それは動かなくなった。
「う、え、くっ……」
白い顔をしたオーレリアが口元を押さえ、体を折り曲げる。――もはや吐くものはない。
キーラはその背中をさすりながら、ホールを見回した。
ロバートのみならず、白スーツ達も絶命している。皆一様に白目を剥き、口から血の泡を吐いている。そして程度は様々だが、胸を内側から食い破られていた。
「……これも、ハルキゲニアの侵蝕かな」
耳に痛いほどの静けさの中で、キーラは呟く。
「でも、奴らは変貌を防ぐ薬を使っている……そしてロバートはメイジだから耐性が――」
「……違うと、思うわ」
喘ぐような言葉に、キーラはオーレリアに視線を向けた。
階段の手すりに縋り付いた状態で、オーレリアは不規則に呼吸している。周囲にはオマモリミズクラゲ達が集い、どうにか顔や首筋の冷や汗を拭おうとしていた。
何度か深呼吸を繰り返した後、オーレリアはアイスブルーの瞳をうっすらと開いた。
「魔法の……気配が、した……」
「じゃあ、あれは魔法なの? カラスが胸を突き破ったのが?」
「たぶん……断言は、できないけど……」
オーレリアは首を振り、不安と恐怖の表情でロバートの死体を見下ろす。
「聞いたことが……あるの。人を、服従させる魔法……相手に力を貸すかわりに、相手に使い魔を取り憑かせて、隷属させる……人の命を、支配する……」
「なるほど。やっぱり、ロバートの他に黒幕がいると見て間違いなさそうだな」
キーラは口元に触れながら、ロバートが口走った言葉を思い出す。
「……レギオンか。古代ローマの軍団を示す言葉だね。そいつが黒幕なのかな」
「あ、悪霊という意味もあるわね……」
オーレリアは震える息を吐くと、腕に力を込めた。
危なっかしくふらつく彼女にキーラは手を貸し、立ち上がらせた。握りしめたオーレリアの手はぐっしょりと汗ばみ、冷え切っていた。
「でも、わからない……」
オーレリアは乱れた髪をぐしゃりと掻き、ゆるゆると首を振った。
顔色はひどいが、呼吸はいくらか落ち着いている。足元の影も徐々に凪ぎつつあった。
キーラはハンカチを取り出すと、オーレリアの顔から汗を拭ってやった。
「黒幕の居場所のこと? この分だと、九階や十階にはいなさそうだ」
「それも、わからないけど……どうして……」
ハンカチを片付けようとするキーラをよそに、オーレリアは階段下の屍山血河を見下ろす。
ロバートの死体をアイスブルーの瞳に映し、かすれた声を漏らした。
「どうして今、あの人を――」
乾いた音がした。
何百何千回と聞いたはずの音だった。しかし、キーラは一瞬なんの音か理解できなかった。
顔を上げると、大きくバランスを崩すオーレリアの姿が見えた。
後頭部から血の雫が散った。その一滴一滴が、シャンデリアの明かりに煌めく様が見えた。
それを見て、あれは銃声だったとキーラは理解した。
「オーレリア」
名前を呼んだ。同時に、華奢な体がぐらりと揺れた。
反射的に伸ばした手をすり抜けて、オーレリアはそのまま落ちていった。
鈍い音――そのくせ鮮烈な【色】が一瞬だけ視界に咲いた。
肉の【赤】と骨の【白】――それがぐちゃぐちゃに入り乱れた色彩。
オーレリアの姿は、壊れたビスクドールのようだった。
黒いフリルに縁取られた白い手足が、無造作に床に投げ出されている。
額の銃痕から流れ出す赤色が、奇妙に折れた細い首をなんとも鮮やかに彩っていた。
アイスブルーの瞳はうつろにキーラを見つめている。
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