7.ナムハチマンダイボサツ
七階は、仄赤い薄闇に包まれていた。
電灯は灯っているものの、肉の皮膜にうっすらと覆われている。床にわだかまる赤い液体といい、壁面を覆う海綿と腫瘍といい、その景色は地獄か体内かを思わせた。
「……おやおや。これは面倒だな」
かろうじて原型を保っている壁面に手を突きつつ、キーラは声を漏らす。
客室の扉は、ほとんどが開いている。
そして逃げだそうとしたと思われる人々の遺体が、床に折り重なっていた。
き、ぃ、ぃ、ぃ――き、き、き、き――【白】の亀裂が、赤い闇に幾重にも走る。
キーラは数歩歩くと目を細め、耳に触れた。
「……ふぅん」
「そ、そろそろ降ろして……」
肩に顔を埋めた状態で、オーレリアがか細い声を漏らした。
「わたし、大丈夫だから……て、敵がいたら、邪魔になっちゃうし……」
「うーん……でも……」
キーラは珍しく困ったようにわずかに眉を下げつつ、オーレリアを床に降ろした。
瞬間、オーレリアの体が大きくふらついた。
「きゃっ、な、何――!」
「これじゃ君、まともに歩けないだろう?」
倒れかけたオーレリアの体をしっかりと支え、キーラは薄暗い廊下を見やる。
「ここの廊下、床が少しだけ傾斜しているんだよ」
赤黒い闇の彼方を見つめつつ、キーラは淡々と説明する。
「そのくせ柱とか壁面は捩れてるわりに垂直だから、平衡感覚にズレが生じているんだ。慣れていないと、まずまともに歩けないよ」
言いながら、キーラはよろめくオーレリアを再び抱え直した。
頭をクラクラと揺らしている彼女の背中をさすりつつ、群青の瞳をすっと細める。
「……私も少しだけ気分が悪い」
かちっと歯を鳴らすと、キーラは無表情のまま歩き出した。
一歩歩くたびに、重力が増していくような錯覚を覚えた。廊下のどこかから透き通った帯が伸び、それが自分の全身を持っていこうとしているような気がする。
「……それに、こんなにうるさいと気が散るよ」
き、き、き、き、ぃ、き、ぃ――数多の【白】が客室から響き、視界にひっかき傷を残す。
そしてそこに、【蛍光色】の波紋が加わる。
ずん、ずん――と。仄赤い闇を震わせるように、蛍光する円が断続的に広がった。
最後の角を曲がると、青白い光が目に飛び込んできた。
広々としたスペースがあり、花瓶や椅子などの調度品が散乱している。
壁際に自動販売機が倒れていて、ブーンと小さな唸りを立てながらいまだに稼動していた。
青白く光る自動販売機の傍には、やや無骨な黒い扉がある――非常階段だ。
そしてその前に、武者が立っていた。
幾重もの小札、大兜の前立て、黒い面頬――肉色の闇の中でもなお鮮やかな真紅の甲冑。
「当世具足か……すごいな、生で見るのは初めてだ」
感嘆するキーラをよそに、武者が一歩踏み出す。
ずんと地響きが響いた。その両手が腰に伸び、大小二本の刀をぞろりと抜き払った。
「Na……」
面頬の向こうから、かすれた声が零れた。
瞬間――闇に閃光が走った。
「きゃあ――!」
壁の方へと放り投げられたオーレリアが床に落下し、悲鳴を上げる。
消防斧に力を込めつつ、キーラは目を細めた。
「ほう、これは……」
とっさに振るった消防斧は、すんでの所で鎧武者の太刀を受け止めていた。
二つの刃が噛み合い、火花を散らす。今までにない重さがキーラの腕にかかっていた。
「Na……m……」
キーラの眼前には、武者の顔面があった。
口元に大量の小さな眼球がみっしりと詰まっているのが見える。さらに武者の左の肩口から背中にも巨大な金の眼があり、いずれもキーラを凝視していた。
「熱視線だ。照れちゃうね」
無表情のキーラをよそに、武者はゆらりと反対側の手を掲げる。小太刀が闇に煌めいた。
首を狙う斬撃に対し、キーラはとっさに体をのけぞらせた。
そのまま大きく後退し、消防斧を構え直す。
「……そこそこやるね」
呟きつつ、キーラはぐっと足に力を込める。
爆音――加速。しかし突進したのは、キーラだけではない。
武者が鋒を前に向け、傾斜した床面に亀裂を刻みつつ突撃してくる。地響きとともに迫りくる武者の突撃に対し、キーラは真っ向から突っ込みはしなかった。
接触の寸前で、わずかに横に針路をずらす。
そうしてすれ違いざまに、消防斧を武者の胴体めがけてぶち込んだ。
甲冑が一息に叩き割られる。足場は最悪だったが踏み込みも完璧。膂力と重力とを存分に載せたその一撃は、胴体を両断するには十分な一撃だった。
予感――とっさにキーラは消防斧を引き抜き、後退。
間髪入れずに襲ってきた斬撃がその顎をわずかに掠め、髪をいくらか散らした。
「こいつは……」
「オ、オートクチュールだわ……!」
ついで迫る斬撃を受け流したところで、オーレリアの悲鳴が聞こえた。
再びの鍔迫り合い――キーラは無表情のまま、消防斧の角度を傾ける。刃が滑る。武者の体勢がわずかに崩れたところで、その首めがけ消防斧を叩き込んだ。
「オートクチュールってなんだい?」
「特別な体を持ったヴィジター……金の眼球が特徴なの……」
開け放たれた客室の扉にすがりつきつつ、オーレリアが囁いた。
視線の先で、武者が地響きを立てて片足を踏み込む。ぼたぼたと胴体から蛍光色の血を零しながら、武者はゆらりとキーラに顔を向けた。
「つ、通常のヴィジターと違う……虚体を再利用した粗製濫造の体じゃない。ある特定の目的に合わせて調整した肉体を持って出現する……き、極めて強力な……」
「……なるほど、文字通り特注品ってわけだ」
「N……m、m、m、m……!」
嘆息するキーラの眼前で、武者が奇妙な唸り声を上げる。
途端、具足の下から――裂けた肉から腸のような触手が伸び、うねった。
自らめがけて伸びた触手をキーラは叩き切り、オーレリアは扉を閉めたことで難を逃れた。
しかし武者の狙いは、攻撃ではなかったらしい。
触手の大半はキーラ達ではなく、床に散らばる死体へと突き刺さった。そこから啜るような音を立てて、恐らくは変異した血液を吸い上げる。
左肩の眼が、すうっと細められた。――笑ったように見えた。
瞬間、キーラはとっさに身を翻した。
直後、轟音とともに破片が散る。稲妻の如く加速した武者の体がキーラがそれまで立っていた場所を掠め、壁面に大穴を穿っていた。
「……さしずめ対キーラ・ウェルズ用のボディってところかな。困ったものだ」
ぼやきつつも、キーラは消防斧を振るう。
地面が震える。空気が揺らぐ。大小の刃が幾重にも煌めく。全てに死の気配が絡みつく斬撃に、キーラは本来は武器ですらない斧一本で立ち向かう。
キーラは武者の顔面に膝を叩き込んだ。
そのまま俊敏な身のこなしで頭部にしがみつき、首と肩とを足で締め上げる。
そうして左肩の眼球めがけ、片手に仕込んだ彫刻刀を繰り出した。
ガツッ――金の眼球には傷一つもない。それは、ガラスのような透明な殻に守られていた。
「だろうね」
「Nm……O……Ooo……On……!」
身をのけぞらせ、武者が咆吼した。
そのまま、壁に向かって突進する。嫌な予感を感じたキーラは、とっさに武者の状態を蹴り飛ばして空中へと離脱する。
直後、武者は轟音とともに壁面に体当たりを噛まし、大穴を穿った。
武者が振り返り――そうして次の瞬間には、眼前にいる。
怒濤の如く叩き込まれる斬撃を青く輝く刃で捌きつつ、キーラは慎重に状況を見定めた。
硬い。大きい。動きは速い。
力は強く、生半可な攻撃では怯まない。
そのうえ床は傾斜し、死体が散乱しているせいで足場は最悪だ。
「……挙句、こちらの武器はそろそろ限界ときた」
首めがけて叩き込まれた刃を消防斧でぶち上げ、キーラは目を細める。木製の柄がみしみしと軋む感触――そして刃が欠けていく感触が、掌に伝わってきていた。
「キーラ……! 武器が……!」
「大丈夫だよ。私は素手でも十分強い」
悲鳴を上げるオーレリアに対し、キーラは振り返りもせずに指を二本立ててみせた。
威嚇するように振るう武者に対し、消防斧を構える。
「最初の奴だって得物を使わずに倒した」
「え、得物……?」
「多少手間はかかるけど大丈夫」
キーラは傾斜した床をしっかりと踏むと、上段に構える武者とは対照的に低く構えた。
青く光る消防斧を引き、武者からはその刃が見えないように構えた。
「私に殺せないものなどこの世にない」
群青の視線と黄金の視線とが睨み合う――その膠着は、長くは続かなかった。
再び触手が伸びる。自らを掠め、死体へと突き刺さるそれをキーラは俊敏にかいくぐる。
接近しながら強く踏み込み、掬い上げるようにして消防斧を叩き込む。
蛍光色の血と臓物とが傾斜した床に零れ落ちた。しかし、すぐに胴丸の裂け目からぼこぼこと肉が盛り上がる。
キーラは目を細め、かちかちと鋭い歯を鳴らした。
「さて……どう調理してやろうか」
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