3.おはよう、クラゲさん

 キーラは、目覚めた。

 群青の瞳にまず映ったのは、ふよふよと浮遊するクラゲの姿だった。


「……いけないな。すっかり熟睡してしまった」


 キーラはため息を吐き、体を起こした。

 そして、くるくると回転しながら離れていくクラゲの姿を見つめる。


「クラゲには癒やし効果があると聞いたけど……なるほど。確かなようだ」


 無表情で一つうなずくと、キーラはベッドから出た。

 ベッドボードの時計を見ると、現在は朝の六時ということになっている。試しにラジオ機能を使ってはみたものの、聞こえてくるのはノイズばかりだった。

 カーテンを引くと、空模様はすっかり変わっている。

 マゼンタの空、シアンの雲、赤い天体――どうやら、夜が明けたようだ。


「……朝か。今のところ、時間はまだそこまでズレてはいないのかな?」


 淡々と分析しつつ、キーラはメッセンジャーバッグからスケッチブックを取り出した。

 キーラの朝はスケッチから始まる。

 描くものは日によって様々だが、今日の彼女は異界の景色を描き留めることにした。


「うーん……いつもならもう少しこだわるところだけど、今日は私のほかにも人が……でも、やっぱりもう少しディテールを……どうしたものか――」


 ため息を吐きつつ、視線をスケッチブックから上げる。

 目玉焼きが目の前で回転していた。さすがのキーラも鉛筆を落とした。


「……これがハルキゲニアの侵蝕か。私もついにやられたかな」


 浮遊する目玉焼きを、キーラはどこか感慨深げに見つめる。

 そこで、その目玉焼きに触手らしきものが生えている事に気づいた。


「……これ、まさか」


 キーラは口元に手を当てると、隣部屋の方に視線を向けた。そこから漂ってくるクラゲに、ちらほらと目玉焼きが混ざりだしている。

 キーラはひとまず部屋を出ると、オーレリアの寝室をノックした。


「オーレリア、起きてる?」

「…………はぁい」


 ベッドの上で、ネグリジェ姿のオーレリアがうつらうつらしていた。昨晩と同じく、彼女の体やシーツに落ちる影からクラゲがふよふよと現れている。

 例の空飛ぶ目玉焼き達は、揺れるオーレリアの頭に向かってぽこぽことアタックしていた。


「この目玉焼きクラゲ、君の友達かな?」

「……ああ、この子達は、オマモリチチュウカイイボクラゲといいます」


 オーレリアはぼんやりと、自分に体当たりをする目玉焼きクラゲ達を見つめた。


「朝になると……起こしに来るの……」

「毒はないの?」

「あるけど弱いわ……それにこの子達は使い魔だから、毒もわたしの指示で……」


 そこでオーレリアははっと目を見開き、震えながらキーラを見た。


「どうしたの?」

「寝坊してごめんなさい……ころさないで……」

「殺さないよ。それに私もさっき起きたところだから」


 青白い顔をさらに青くするオーレリアに、キーラは軽く肩をすくめてみせる。


「きょ、今日は……今日は、これからどうするの?」

「まずは一階で、外に出られるかどうか確かめる。あとは使えそうなものがないか探す」

「……せ、生存者を探した方がいいんじゃ――あ、あなたにも、お友達が――」


 電子音が響いた。

 断続的に響くその音にオーレリアはびくっと肩をすくめ、キーラはわずかに眼を見開く。


「これは……圏外だと思っていたけど……」


 キーラは首を傾げつつも、ポケットからスマートフォンを取り出した。

 映像通話だ。発信元には『レティ』の文字が浮かんでいる。

 電波強度を示すアンテナのマークは、二本と三本との間で点滅していた。


「こ、この場所は先生の加護が残ってるから……時々、人間界と通じるんだと思う……」


 か細いオーレリアの声を聞きながら、キーラは受話器のマークをタップする。

 すると、険しい表情をレティシアの顔が映った。


『やっと繋がった……無事?』

「やぁ、レティ。おはよう。まぁまぁな朝だね」

『その分だと元気そうね……。それで? 今、どんな状態なわけ?』


 映像は何度かフリーズしたが、声は滑らかに通じている。

 キーラはひとまず近くの毛布の塊がオーレリアという名前の女性であること、メイジとヴィジターのこと、そしてこれまでのあらましを簡単に説明した。


『LSDでもキメたのかってくらい荒唐無稽な話ね』――レティシアはシビアに評した。

『でも、この状態じゃ信じるしかないわね……はぁ、心底ダルいわ……』

「君達の方はどうなの? シドニーは?」

『あの子なら朝食を買いに行ったわ。そろそろ戻ってくると思う。あたし達、昨日の夜はバーの二階に泊まったのよ。ホテルがあんな状態なんだもの』

「ふむ……そっち側から見ても、ホテルはおかしな状態になっているのか」

『ええ。あんたとの電話が切れたあとの話なんだけど……』


 レティシアの説明によると、彼女達はすぐにレッドサン・パレスホテルへと戻ったらしい。

 しかしホテルは半透明になり、まるで蜃気楼のように揺れていたという。


『中には入れなかったわ。目の前にあるのに、どれだけ近づいても距離が変わらないの。シドニーが試しに石ころを投げてみたけど、ホテルのすぐ前で落ちるわけ』

「そこにあるけど、そこにない……」


 毛布の塊がもぞりと動き、オーレリアが青い顔をちらりと覗かせた。


「やっぱりこのホテルは……人間界と、ハルキゲニアの狭間にある、みたい……」

『……あら、可愛い子じゃない』


 画面の向こうでレティシアが微笑む。途端、オーレリアは顔を真っ赤にして縮こまった。


「わ、わたし……か、かわいくなんか、ないです……」

「……外からの干渉は困難というわけか」


 ぷるぷると震えるオーレリアをよそに、キーラは口元に触れながら考え込む。

 金髪をいじりつつ、レティシアは目を細めた。


『……どうする? あたし達にできることはない感じ?』

「いや……。こっちはこっちでホテルを探索して、脱出方法を探してみる。君とシドニーは、ひとまずホテルの周辺を探ってみてくれ。なにかわかるかもしれない」

『面倒だけど了解。――といいたいところだけど、通信手段はいつまで保つかしら?』

「そうだな、それは……」


 キーラは首を傾げ、オーレリアに視線を向ける。

 オーレリアは部屋を見回すと、やや自信がなさそうに肩をすくめた。


「この部屋なら、もうしばらくは大丈夫だと思う……あと……もしかしたら、ホテルの他の場所でも、人間界との繋がりが強かったら、電話が通じるかも……」

「わかった。上々だ」


 キーラはうなずくと、スマートフォンに視線を戻した。


「君達はなにかわかったことがあったら連絡をいれてくれ。探索中でも私は小まめにスマホを見るようにするから、通じるまで一定間隔で。この部屋に戻ったら電話する」

『わかったわ。くれぐれも気をつけなさいね』

『――あー、なになに? キーラと電話繋がったの?』


 まさに電話を切ろうとした瞬間、シドニーの陽気な声が響いた。

 同時に、紙袋を両腕に満載したシドニーがレティシアを押しのけるようにして映り込む。

 迷惑そうなレティシアをよそに、彼女は満面の笑みで口を開いた。


「よう、キーラ! 異世界トリップの気分はど――!」


 電話を切った。

 スマートフォンの電池の残量を確認し、キーラはポケットに片付ける。


「あ、あの人達も、貴女と同じなの……?」

「ああ。どっちも私の同類さ」

「ひ、ひぃ……さ、殺人鬼が三人も……」

「心強いだろう? 外のことは向こうに任せればいい」


 震え上がるオーレリアをよそに、キーラは口元に触れながら考えた。


「私達は脱出方法を探そう。ひとまずは一階の様子を見に行きたいな……ああ、その前に私はこれから出かけるよ。君はその間にゆっくりしているといい」

「で、出かける……? どこに……?」

「朝食の用意だ。朝食の欠如は、一日のパフォーマンスに影響する」

「えっと……出かけなくとも、この部屋にも非常食があるわ。ナオミ先生が、もしもの事があったらいけないからって、乾パンとか、ビスケットとかを……」

「それは食料だ。料理ではない」

「……えーっと?」


 首をかしげるオーレリアに対し、キーラはすっと人差し指を立ててみせた。


「――私は、朝は卵料理と決めている」

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