2.洗練されたインテリアと異音が貴方を迎えます!
レッドサン・パレスホテル。
創業一八九〇年――このサンセットレイクで最も古いホテルだというここは、長いリニューアル期間を終えてつい昨年オープンしたばかりらしい。
「……さすがに綺麗だね」
黒と金で彩られたエレベーター内を、キーラは見回す。
「前は結構ボロかったんだよ。でも数年前に経営会社が変わって、良い感じになったみたい」
スマートフォンをいじくりながら、シドニーが答えた。
「地上十階、地下一階――へぇ、最上階には音楽ホールがあるのね。結構なものじゃない」
エレベーター内のパネルを見つめ、レティシアが目を見張った。
「うん。九階には高級レストランとか、バーとか、カジノとか……まー、お金持ちの向けの施設が集まってる。地下一階にはプールとかエステサロンとかあるんだってさ。――あ、良いこと思いついた。ちょうどいいしエレベーターで写真撮らない?」
「そんな時間はないね」
八階――ベルの音とともに、エレベーターが止まる。
開いた扉の先に広がるのは、金と黒とに彩られた落ち着きのある空間だ。壁には絵画が飾られ、床にはふかふかとした絨毯を敷き詰められている。
「で、僕達の部屋は八階のスイートってわけだ」
「……ちゃんと三人別部屋で取ったんだろうね?」
無表情でじろりと見つめてくるキーラに、シドニーは不満げな顔でうなずいた。
「二人からしつこく言われたからね。――別にいーじゃん、三人ででっかい大部屋とったってさ。そっちの方が安いのに。それに絶対盛り上がるよ」
「あんたと同部屋になるくらいなら靴箱で寝たほうがマシ」
「うわー、ひどい! レティ、同じ職場で働く友人になんということを!」
「あんた、本当にうるさいのよ。それに読書してても邪魔してくるし……次、ネタバレかましたら本当に殺すから。覚悟しておきなさい」
「レティが読むの遅いからいけないんだろー? ――えーっと」
こめかみを引きつらせる友人をよそに、シドニーは三つのルームキーを取り出した。
いずれも、部屋番号を記したプラスチックのプレートがついている。数字のそばにはやはり鍵穴と太陽のマークが刻まれ、それが柔らかな照明に煌めいた。
「僕が八〇一、レティが八〇二、キーラが八〇三だ」
「……それにしてもスイート三部屋なんて、よくとれたものね」
自分のルームキーを受け取りつつ、レティシアがぽつりと賞賛する。
「スイートと言っても、この階の部屋はまだ少し安いよ」
「あら、そうなの?」
「うん。このホテル、三階と四階にあるいくつかの部屋に『パレスルーム』って名前をつけててさ。そっちの方が高いんだよ。湖が目の前に見えるからね」
「……へぇ、そうなんだ」
とすると、さっき見かけた女性はパレスルームに宿泊しているのだろうか。
キーラが思案していると、何故かシドニーが得意げに笑った。
「ま、他にも理由があって……友達のマリーがここで働いててさ、そのツテなんだ」
「……相変わらず顔が広いね」
キーラが感心すると、シドニーは胸を張った。
「彼女、去年失恋したせいでだいぶ参っててさー。僕がいろいろと力を貸したわけ。そしたらそのお礼ってことで招待してくれたんだ。しかしこんなに良いホテルだったなんて。ジョシュアも連れてきたかったなぁ……あ、あとでマリーにお礼を言いに行かないと」
「……ふむ。確かに」
自分のルームキーを見つめ、キーラは唇を軽く撫でた。
「私も、その子にお礼を言いにいった方が良いかな。君が失恋してくれたおかげで、私達は破格の安値でスイートに泊まれたと――」
「絶対来るな」
笑顔でシドニーは言い切った。レティシアも無言でうなずいた。
やがて、三人は自らの宿泊する区画にたどり着いた。
八〇三号室。キーラは鍵を差し込み、回した。
「八〇一号室にシドニー・ダーウィン降臨!」「うるさい」「ウェルカムドーナツはさすがにないか」「あってたまるもんですか」――二人の声を聞きながら、ドアを開く。
き、ぃ、ぃ、ぃ――かすかな音が聞こえた。
キーラは一瞬だけ眉を動かしたあとで、ドアを後ろ手で閉じた。
ゆったりとした広さのバスルーム、黒とグレーの壁がシックなリビング、エレガントな調度品を揃えた応接間。最新の人間工学に基づいた寝具を用意したベッドルーム――。
「悪くない」
スイートというだけあって見事なものだ。一人で過ごすにはもったいない。
キーラはライダースジャケットを脱ぎ、ベッドの上に放った。そうして白のシャツの襟元を緩めると、黒のベストの銀ボタンをなぞりつつリビングを横切る。
グレーのカーテンを引くと、大きな窓の先は木製のバルコニーになっていた。
「そこそこ人が来ているようだ」
バルコニーに出たキーラは、あたりを見回す。
街は閑散としていたが、眼下に見えるホテルの駐車場は満杯になりつつある。
そして視線を上げた先には、街の名前にもなっている湖が広がっていた。
いったん部屋に戻ると、キーラは青い瓶を手にバルコニーに立った。
『52ヘルツ』――ラベルにはそんな名前とともに、深海を泳ぐ白い鯨が描かれている。
アルミの蓋を開けて、キーラはそれに口を付けた。
ほろ苦い柑橘の風味と爽やかな炭酸の感触が舌の上に広がる。スピルリナで青く染め、アクセントに海塩を加えたトニックウォーターだ。
風変わりなこの一品をキーラは気に入っていて、今回の旅行にもわざわざ持参した。
「……どう見ても終わってる観光地なのに」
炭酸を愉しみつつ、キーラはサンセットレイクをしばらく眺める。
柔らかな西日が、湖をほのかな金色に染めている。
煌めく水面には、観光客の者と思わしき白いボートがいくつか浮かんでいる。湖の縁を囲む色褪せた街は、傾いた陽光も相まってセピア色の写真のように見えた。
どこか絵本を思わせる幻想的な光景だった。
――けれども。
き、ぃ、ぃ、ぃ――キーラはやや眉を寄せて、部屋の中に戻った。
「……なんだろうな」
窓を閉じたキーラは、しきりに耳に触れながらあたりを見回した。
ブーンと唸る冷蔵庫の音が聞こえる。かちかちとせわしない時計の音が聞こえる。
テーブルに並んだグラスが陽光を目障りに反射している。オレンジのペンダントライトが茫洋と光っている。黒と灰の漆喰の壁が、目の前に迫ってくるように見えた。
き、ぃ、ぃ、ぃ――。
上の階にも住民がいるのか、床板が軋む音が聞こえる。
52ヘルツに口を付けつつ、キーラは足音を潜めて部屋を歩き回った。微かに漂うムスクの香りが、鼻の奥に貼り付いてくるような気がした。
その香りから逃れるように、洗面所へと足を踏み入れる。
柔らかなオレンジの光に照らされたその場所は、空気がひんやりと冷えていた。
硝子と陶器を組み合わせた洗面台には、様々なブランドのアメニティが並んでいる。奥には透明なシャワーブースと、大きなバスタブが見えた。
入口に立つキーラの姿を、ぴかぴかに磨かれた鏡が映している。
さながら凍り付いた水面のように輝くそれを、キーラは無表情で見つめた。
洗面台の脇に52ヘルツの瓶を置くと、壁面に並ぶコンセントの差し込み口に耳を近づける。
き、ぃ、ぃ、ぃ――。
がちがちがちがち。キーラは口元を押さえ、そして首を傾げた。
「……なんなんだろうな、この――」
ベルの音が聞こえた。そして、ドアをせわしなくノックする音が聞こえた。
「――おーい、おーい! キーラ! まだかーい?」
口元を押さえたまま、キーラは無表情で視線を玄関へと向ける。
「一緒にコーヒーを飲もうっていっただろー? 早くしろよー、なにしてんの? ――返事がないな。もしかして死んでるのかな。警察に電話した方がいい?」
「バカね。どうせ湖のスケッチでもしてるのよ。――それよりもう少し声を落として」
「ふーん。なんでもいいや。おーい、キーラ!」
「声を落とせって言ってんでしょ、このバカ……!」
キーラは深くため息を吐くと、踵を返した。
き、ぃ、ぃ、ぃ――。廊下に出たキーラは無表情で、部屋を見回した。
「……変だな」
押し殺した声で呟き、キーラは玄関に向かう。
背後で、ペンダントライトが瞬く。そうして風もないのにカーテンが、揺れた。
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