オルカ・オーヴァーキル

伏見七尾

Prologue.

【赫】

 風のない夜だった。


 かちかちと時計の音が響く。ブーンと冷蔵庫が唸る。

 甘ったるいにおいの漂う部屋で、赤髪の女が一人一心不乱に鉛筆を走らせている。


 き、ぃ、ぃ、ぃ――甲高い音がかすかに響いている。


 赤髪の女は不意に、立ち上がった。

 ソファに置かれたスケッチブックには、一面に赤色が塗られている。

 耳を押さえつつ、赤髪の女はテーブルに置いていたスマートフォンを取り上げる。

 青ざめた電光が、薄暗い部屋の中にぽつりと点った。


「ねぇ――」


 電話の向こうの相手に、赤髪の女は『耐えられない』と訴える。


 き、ぃ、ぃ、ぃ――その間も、硝子をすり合せるような奇妙な音が響いていた。


 そして、影が揺れた。

 奈落のように暗い廊下から、なにかがまろびでた。

 黒い泥のようにも見えたそれは見る見るうちに像を結び、禿頭の男の姿を形作る。

 青白い肌に、褪せたポロシャツを来た男だった。

 眼窩からはだくだくと蛍光色の液体が流れ、口はムカデのそれのように変異している。

 赤髪の女は気付かずに、延々と電話を続けている。

 その様に、禿頭の男は鋭利な口を大きく開いた。てらてら光る口内と、牙とが晒された。


 どうやら、笑ったようだった。


 赤髪の女は電話先となにやら言い争いながら、部屋の隅に向かった。

 持っていたままだった色鉛筆をテーブルの灰皿の傍に置き、床に膝をつく。

 禿頭の男はその背後に、ゆっくりと近づいた。

 赤髪の女は気付くそぶりもない。

 揺れる赤髪の隙間から、白い首筋が覗く。青い静脈が、月明かりに透けている。

 柔肉を纏うしなやかな肢体が、そこにある。

 禿頭の男が、手を伸ばす。限界まで開かれた口が、空気を吹き出すような音を立てる。


 その音で、ようやく赤髪の女は気付いたようだった。

 けれども、もう遅かった。

 振り返った女が、眼を大きく見開く。

 海のように青い瞳に、下顎をぱっくりと裂かせた男の顔が映った。

 絹を引き裂くような絶叫が闇を震わせる。

 骨が砕ける音とともに、壁が血に染まる。

 天井まで飛沫が飛び、湿った音を立てて床に臓物が落ちる。


 き、ぃ、ぃ、ぃ――。

 殺戮のさなかも、脳を掻き毟るような音が延々と響き続けていた。

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