第十七話 利賀は裏山を駆け下りる

 天気の良かった港祭りも、昼過ぎになると海の上にもいわし雲が増えてきた。

「えっとね。えっとね。しっぽは?」

「しっぽ? しっぽは太くて大きいなあ」

「わかった。かんがるー」

「ぶー。外れ」と利賀が顔を突き出す。

 ええー? うーん。と。堤防に足を投げ出した少年が、大げさに腕組みして頭をひねるのだ。ちょこっとヒントを増やしてやる。

「しっぽ大きいたって、体はそんな大きくないからね」

 浜もさすがに日差しが落ち着いて。

 この問題で切り上げて降参なり正解なりさせないとブースでそろそろ恭子がツノ生やしてんじゃないかと。

 むしろ少年より利賀がちょっと焦ってきたのだ。

「降参?」

「まだ。じゃあかおは、どんなかお?」

 おお。それだよ。その質問だよ。ナイス少年。と。

「目に模様があってさ。ほっぺたの毛が横に尖ってる。びょんと」

 利賀のジェスチャーで少年の顔がぱっと明るくなって。

「あらいぐまー!」「当たり」

「やったあ。ねえねえ、じゃあつぎはねえ」

「おおっと。……時間かなお兄ちゃん」

 慌てて大げさに腕時計を見れば。

「ええ。そうなの?」

 少年がつまんなさそうに口を尖らせるのだ。笑って利賀が言う。

「そろそろ戻んないと。家の人心配するだろ?」


「……べつに、かえったってばあちゃんしかいないし。つまんない」

 うつむく顔に、ちょっとやばい雰囲気を感じた。立ち入ったことを聞いてしまったか? と。だが。少年が話を引っ張るのだ。

「ぼくね、おばあちゃんちにあずかってもらってんだ」

「あ、ああ。そうなんだ」

 仕方ない。聞いて欲しそうなのだ。

「お父さん、漁師とか?」

「ううん。でかせぎ。おかあさんはびょうきなんだ。こないだしゅじゅつして」

 思ったより境遇が重い。利賀が頭を掻いて。

「そっかあ。じゃあ家に帰っても退屈だなあ」

「うん」「ちょっと待って」

 ポケットからスマホを取り出して利賀が電話をかける。恭子がすぐ出た。

『何しとるの長いタバコやん』

「——ちょっとお得意さんと会ってさ。もうちょいかかりそう」

『仕事の話?』「うんうん」

『まあ売れとらんからゆっくりでいいよ』

 あっそうと苦笑した利賀が電話を切って。

「よしっ。次の問題」「うんっ」

 少年が喜ぶのだ。


 利賀もにこやかだ。もちろん。

 彼にはなんの悪気もない。





「わあ……」

 小箱に散った五百円玉をちょんちょんと碧がテーブルの上に置いていく。

 朝十時ごろから十五時あたりまで、昼の休憩を除けば四時間ちょっとで。

 今日の鑑定は十九組だ。碧が言う。

「まあまあかな」

 えーと、えーとと八津坂が指を折って計算するのが可愛い。

「九千五百円で、四時間で、えーっと?」

 やっぱりスマホを出して。

「二千三百七十五円っ。時給、二千三百七十五円。すっごい」

「なんで。二人だろ」

 そう言って碧が束の半分、十枚をすっと八津坂の方へやった途端。ぎょっとして。ちょっとふくれて。四枚だけぴっぴっと取って。

「貰い過ぎでしょお。二千円でいい」

「ええ、でも一日拘束しちゃったし」

「じゃあ今度おごって」

 上目で覗き込む。なんだか今日はいちいち可愛い。ずるい。そして教室とは違ってぐいぐい来るのだ。

「りょ、了解」

「えへへっ、言ったからねえ」


 隣を覗きに移ってみれば、結局恭子が奮闘して午後から数千円は売れたらしい。タバコ休憩と言ったまま利賀は戻ってこなかったそうだ。

「えーそうなんですか?」

「まあ、店でも暇だとふいっと散歩に出たりするのよ。もう昔っから」

 そろそろテントの中を片し始めた恭子が肩をすくめる。

 日差しも弱くなってきてやや吹き下ろしの風に変わってきた。弱くテントがはためく。

 ぴっぴっと。八津坂が碧のジャケットの裾を引っ張った。

「ねえねえ」「なに?」

「お祭りの終わりってさ、風が強いよね」

 そんなことを言う八津坂に、碧がちょっと答えに詰まって。

「気温が下がるからじゃない?」

「……えー、つまんない答え」

 いやどう広げて欲しいんだその質問と思う碧が、老婆に気づいた。

 軽く頭をさげる。女子二人も外を見て。

「どうも」

 仏頂面でテントの中を覗き込む老婆が、ひと言だけ話す。

「子供、あれから来たかい?」

「え、いえ。僕らのブースには来てないです……迷子ですか?」

「迷子なんてわけあるかい、ここは庭みたいなもんだ。邪魔したね」

 子供がいないとわかったら特に関心を示す風でもなく。

 ぽけっと立つ三人を放っといて老婆が別のテントに向かおうとした。


 その矢先だった。

「あ。神社のばあさん。遅くなったか?」

「ああ?」


 利賀の声がしたので。

 テントの三人も外に走り出る。

 振り向いた老婆が少し驚いた風で。駐車場の砂利を歩いてきた利賀がおんぶした少年はすっかり眠り込んで青年の肩に髪を垂らして寝息を立てている。

「ほら。着いたぞ」

 利賀が揺らすと。眠そうに目をこすった少年が目の前の老婆に気づいた。

「ばあちゃん」

「……ずいぶん遊んだね。しょうがない。帰るよ」

「うん」

 屈んだ利賀の背中から降りたその子はまだ眠そうだ。

 横に恭子もしゃがみこんだ。

「どゆこと?」「あとで、な」

「まあいいけど」


 老婆は、何も言わず。ただ深い息を吐いて。

 同じようにしゃがみこんで。

 何も言わない。その方がいい。そう思ったのだ。

「帰るよ」「うん」

 立ち上がった老婆に手を引かれて、少年は鳥居の階段に向かって歩き始めた。だが。


 なにが、そうさせるのだろう?

 こんな時、どうして。

 子供はふと言葉にしてしまうのだろう?


「おかあちゃん、くればよかったのに」


 老婆が。歩みを止めてしまったのだ。

 駐車場の風が少し冷たい。

 少年は祖母を見上げる。

「……きたの?」


 ふたたび。手を引いて。だが動かない。

「おばあちゃん? きたの? ねえ! ねえ!」

 ぎゅっと足を踏ん張る。老婆が振り向いて。その顔は無理に口元だけが笑って。

「もう帰ったよ」「なんで!」

「また来月見舞いに行けばいいじゃないか。すぐ会えるよ。なんだったら明日電話すれば」

「なんで帰ったの! ねえ!」

「病院が閉まるからだよ。お前が遅いからだろ」

 急に大声を出す少年の顔が。祖母を見て。振り向いて。利賀を見て。

「どこにいるの」

「バスに乗ったよ。帰るよ。歩きな」

「おばあちゃんッ!」

 

 離れて見ていた四人が、引きずられるように連れて行かれる少年を見て。

 利賀の背中に冷や汗がじっとりと流れて、思わず。

 ざっとテントの脇に走って遠くを見る。

 海岸線の向こうにバスが走り去っていく。

 今しがたなのだ。老婆は母親を見送った帰りに、ここに寄ったのだ。

 少年は手を引かれながら必死にこちらを見て。


 わけもわからずに、だがただならぬ彼の雰囲気を察した恭子が利賀の背中から声をかけた。

「車出す? でも今日は駐車場、自分ら漁港の奥だよ」

 そうだ。出展者と主催者の車は遠くの駐車場だ。

 去っていくバスは臨時便だ。海岸線から街中を通って、役場前から駅へ——

 ぐるうっと利賀が高台に視線をやって。


 また裏目だ。


 利賀はよく、裏目を引く。

 生きづらい性格なのか運が悪いのか、そんなことは知らない。

 良かれと思ってやったことが、悪く出るのだ。今もそうだ。

 少年がこっちを見て。引きずられて。

 

「車、出して。」

 それだけ言った利賀はまた一気に走って。鳥居に向かう二人に駆け寄って。

「ばあさんッ!」

「なんだい。びっくりするじゃ——」

 驚く老婆にかまわず右腕で神社の裏手を指差して。

「向井さんとこの裏まだ通れるの?」

「は?」「あの裏道!」

 答えを聞く前にしゃがんだ利賀が少年を見れば、涙で目が真っ赤だ。

「会いにいくか?」「う、うえ?」

「お母さんに会いにいくか?」


 泣きそうな顔で少年が何度も何度も頷いて。

 泣きそうな顔は泣いてしまった。

「あいたいいいい。うえええええ」

「よし来い!」

 軽々と抱えた利賀が立ち上がって「ちょ、ちょっと」と止める老婆の声も聞かずに顔を埋めた少年を背負って駐車場の奥へと一気に走り出したのだ。

 ただ呆然とその後ろ姿を見る碧と八津坂の横を。

 恭子も勢いよく走って、逆に。港へ向かって坂を下っていってしまった。


 残された老婆は、ただ。利賀の去った裏山への道を眺めて動かない。

 




 その道は、道とは言えないけもの道だ。

 裏山の木が生い茂る西日も射さない林の中を、おぼつかない足で利賀が降りていく。

 地面は土だ。泣き腫らした目で不安そうに周りを見る少年に声を飛ばす。

「なあ、掴まって」「ええ?」

「ぎゅっと首に掴まって。足も巻きつけるんだ」

 言われた通りに子供が両手両足でがっしと利賀の背に張り付いたので、少し動きやすくなる。

 せめて片手で木を掴みながらでないと、勢い余って足が滑りそうだ。

 ふうっふうっふうっと息を短くしてかかとを埋めるように強く踏んで歩く。そうしろと言った。昔も。怖がった恭子に「滑るから気をつけろよ」と手を繋ぎながら。

 枯葉で埋まったか細い道に、だが確かに滑り止めの横木が微かに残っているのだ。

 駅から神社へ。神社から駅へ。

 知っている子だけが知っている、それは幼い利賀の自慢だった。

 こんな道を知っているだけで自分が特別に思えたのだ。

 ばかみたいだ。かわいいもんだ。

 息を切らして可笑しくなって。

 思い出し笑いをしながら、ぜえぜえと降りていくのだ。





 テントの中に戻った八津坂はテーブルの後ろに座って片付けも止めた碧が、唇の前で両手を緩く合わせて、じっとカードの山を見つめているのに、ちょっと声をかける。

「入れ違い、だったのかな」

「……うん?」「あの子」

「そうみたいだね」

「会えるのかな」

 碧が顔を上げた。

「ごめん。二、三分だけ」「え?」

 その視線は真っ直ぐで。

「少しだけ。一人にしてもらっていいかな」

 きょとんとしたまま、だがすぐ八津坂がうんうんと頷いた。指を三つ立てて。

「三分?」「じゃあ三分で」

 もう一度軽く頷いた八津坂が、テントを後にする。


 碧がカードに手を伸ばす。


 ざっと束を手に取りテーブルに右手を振れば扇型に綺麗に並ぶ。そこを躊躇なく小さな両手で混ぜ合わせて。渦が、だんだんと小さくなって。


 碧は。でカードを引いたことがある。

 ずっと昔だ。その一回だけだ。

 引いたカードが光ったことは何度もある。しかし。

 カードを光らせようとして引いたことは一度だけだ。

 あの事件の時だけだ。


 あれから光らなくなったカードが、また光り始めた。

 八津坂に出会ってからだ。理由はわからない。

 それでも、こんな田舎の祭りの場所で、

 またカードを〝光らせる〟つもりで引くなんて。


——占い? お前、知ってたんじゃないのか?——


 利賀は少年を背負って走っていった。

 ぎりぎりなんだ。きっと。ぎりぎりの時なんだ。

 だったら。光るかもしれないのだ。


——あんた、カードやめるかい?——


「だって僕にしか! 見えないじゃないかッ!」


 たんッ! と強く置いた一枚を。オモテに返す。

 棒のペイジは逆位置だ。そして。


 やはり光っているのだ。





「え……なんだよこれ」

 駅の表まで降り切った利賀が呆然とする。道はそこで途切れていた。 

 造成された区画に新道が通って高さ三メートルほどの法面のりめんが切られていたのだ。

 こんな車も通らない田舎道にいらん税金使いやがってとどうでもいいことを思う利賀が辺りを見る。右も左も何もない。

 ぜえぜえと息を荒げたまま少年を一旦下ろして。

 飛べない高さじゃない。大丈夫だ。

 すぐ目の前は駅の駐輪場で、その先がロータリーで。

 だが見えた。もうバスが出ている。発車して駅を出ていく。

 母親は駅の中だ。そして遠くで。


 かんかんかんかんと。


「ええいくそ! 掴まれッ!」

 今度は少年を胸にがっしりと抱えこんで。

 ぶわあっと。利賀が飛び降りた。

 路面に着地したその足首に。

「——ぐぎッ」


 強い痛みが走る。また裏目だ。ちきしょう。と。

 屈む少年が声をかけた。

「おにいちゃんっ」


「走れ! 行け! いけるだろ! かあさんに会え!」


 かんかんかんかんと。それは遮断機の音だ。

 遠くで汽笛が鳴った。

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