第2話
僕は無意識に息を止めていたようで、自分を落ち着かせるように、ゆっくりとそれを吐きだした。もう一つ息を吸って、吐く。僕はそのまま開かずの間のほうへ向かった。
塾の時間に間に合わないというのに、なぜこんな行動を自分自身がとったのか、よくわからない。あえて言うならドアが僕を呼んだ、とでも言おうか。行かなきゃならない気がした。
ドアノブの近くに立つと、手前に開かれたドアの隙間から中が見えた。赤かった。赤いものが見える。
(なんだ、この部屋)
そっと顔を近づけて、中を覗く。
僕は息を飲み、固まった。
中は部屋ではなく、屋外だったのだ。しかも全く見たことがない場所。
乾燥してひび割れた大地はあかあかとして、ところどころに岩が突き出している。まさに不毛な地といったところだ。空の色が自然界にはありえないような紫色なのにも驚いたが、一番驚いたのは十メートルほど先の凄惨な光景だった。
人が串刺しにされている!
焼きとりみたいに、何人かの人間が、裸の姿で並んで串に貫かれ、ぶらんぶらんしていた。串の両側を肩に担いでいるのは……鬼だ! 紛れもない、頭や額から角が生えた鬼だ。青鬼が前を、赤鬼が後ろを担ぎ、どこかへぶらんぶらんさせながら連れて行く。
その横ではこれまた何人もの人間が、大鍋で煮込まれていた。釜ゆでというやつだ。釜は湯気が立ち上り、当然ながら中の人間は熱さでもがき苦しんでいる。それを一つ目の鬼が、鍋をかきまわしながら笑って見ているのだ。
その他にも、鉄球に潰されてぺしゃんこにされる人、四方に引き裂かれる人、氷漬けにされる人などで、そのあたりから先は埋め尽くされていた。
僕は胃の中のものを吐かないように精いっぱい努力しながら、この光景を凝視していた。これは、まさに地獄絵図だ。小さいころ、母親に読み聞かせてもらった絵本と同じ、地獄だ。地獄の責め苦は終わらない。串に刺された人も、釜ゆでにされた人も、苦しむけど死ぬ気配はない(というか、普通なら即死だと思う)。潰されても、ぺしゃんこにされても、カチコチに凍らされても、時間が経つと元に戻る。そして、また同じ責め苦を受けるのだ。その繰り返し。
いよいよ気持ち悪さが限界に達して、僕はその場を這うようにして離れた。足が震えて力が入らなかった。膝をつき、そのまま倒れこむ。意識が遠のいてゆく。
目が覚めると、僕は保健室のベッドの上にいた。僕はあのまま倒れたのか。その後誰かが僕をここまで運んでくれたのだろうか。なにも思いだせない。
保健室の先生は留守みたいで、しいんとしている。僕は塾のことをはたと思い出すと、急いで上履きを履いた。そして、立ち上がりかけてぎくりとした。隣のベッドとを仕切るカーテンが半分開いていて、その先にベッドに寝転ぶ篠崎がいたからだ。篠崎は起きていた。寝転びながら何かを読んでいる。それには見覚えがあった。僕が二学期のテストのために時間をかけて、一生懸命つくった、二百ページにも及ぶ、要点早分かりノートファイルだ。
僕が呆然として立ちつくしていると、篠崎がこちらに視線を向けた。
「うわっ、びっくりした。なんだよガリ勉、起きてたのかよ。起きてんならなんか言えよ」
心底驚いたように、胸をさする。そして僕の視線に気づいたのか、
「あ、このファイル? わりい、気になったもんでちょっと借りた」
悪いなどとまるで思っていない口調でそう言った。気になったってなんだ? 育ちが悪い人間は、人の鞄を勝手に見ないという最低限のマナーも知らないのか。
「だけどよお、これって意味あんの? 要点早分かりって、これじゃ要点じゃねえよ。教科書とかネットで検索したほうがはやくね? これ作んのに、一体どんだけ時間かけてんだよ」
ファイルを閉じて、僕に差出しながらこの馬鹿は笑い転げていた。僕は素早くファイルを奪うとベッドの脇に置いてあった鞄を手に保健室を出た。
怒りで自分がどうにかなってしまいそうだった。ファイルを手荒く鞄につめると、僕は早足で昇降口へと向かった。一秒でもはやく、学校を出たかった。
塾にはかなり遅れたが、学校で倒れたことを講師に説明すると、お咎めなしだった。講師は教室で足を掛けられて転んだときの鼻血の跡に驚きつつ、「勉強のしすぎじゃないのか」と心配な顔をしたが、「今が頑張りどころですから」と僕は毅然と答えた。講師は力のこもった目を僕に向けて、そうだ、その意気だ、今の頑張りが未来を左右する、と力強く言った。
さすが特進コースの講師だ。よく分かっている。倒れたぐらいで弱音を吐いてはいられない。それに、倒れた原因は、勉強の疲労じゃない。そう、僕は地獄を見たんだ。本物の地獄を。
開かずの間の怪談話は本当だった。この僕が、この目で見たのだから間違いない。現実的に、とても信じられることではないと思うけれど、僕は見た。串刺しにされたり、釜ゆでにされている人たちを。
思いだしてまた気持ちが悪くなってきた。いけないいけない、授業に集中しなければ。そう思い、僕はさっそく「要点早分かりノートファイル」を開いた。
瞬間、僕の心臓は三秒ほど止まった。
なんと、ページは半分ほど破ったように抜き取られており、残った部分にも「バーカ」「ガリ勉」など稚拙な落書きがしてあったのだ! 僕の頭に僕を「ガリ勉」呼ばわりする篠崎がふとよぎった。あいつだ。あいつがあのとき保健室でやったんだ。僕は篠崎からファイルを取り返して、そのあとファイルを一切開かなかったから、中身に気がつかなかったんだ。
あのゴミめ。ゴミの分際で、僕の未来を邪魔しようというのか。僕はなんとしてでもN高に入らなければならない。じゃなきゃ僕の未来は真っ暗だ。それなのに……!
塾を終えて家で勉強していても、僕の怒りは収まらなかった。思えば三年に上がり、篠崎と同じクラスになってから、ろくなことがない。奴は規則を守らないからいつもHR中担任に注意されて、クラスみんな無駄に帰りが遅くなる。ケンカで授業妨害、理科の実験の最中にふざけて火を出す、掃除、係の仕事をさぼる、態度だけは大きくて、威張ちらしている。そう、すべてが僕の癇に障る。
無意識に、手に力が入っていたようで、シャープペンシルの芯が、ぽきりと折れた。芯を折ってしまうなど、筆圧の弱い僕には珍しいことだ。
あいつをどうにかしないと。
もしかしたら、やつは僕に目を付けたかもしれない。
退屈でマンネリ化した日々を、僕をいじめることで解消する。考えが浅く、幼稚でヒマな人間の思いつきそうなことではないか。毎日が忙しかったり、僕のように物事をよく考えることが出来る人間ならば、そんな馬鹿げた行動は起こさないはずだ。退屈なのは、努力をしないからだよ。怠けものは自分じゃ何の努力もしないくせに、毎日が退屈な不平不満を周りにぶちまけ、害を及ぼす。やつが愚かだろうが幼稚だろうが僕には関係ないが、巻き込まれるのはごめんだし、とばっちりを受けるなんて、うすら寒い思いだ。
篠崎は邪魔だ。というか、べつにいなくなっても誰も困らないだろう。篠崎など、いなくなってしまえばいいんだ。
そのためにはどうすればいい?
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