さいごの電話

常陸乃ひかる

1 彼女の成行

 人間は誰しもを、持っていたり持っていなかったり。

 それがいつ、どのような形で、心の奥底から芽を出すかは各々おのおので異なるが、『些細』にも『多大』にも変化してゆくファクターをはらんでいる。言ってしまえば、人間としての純粋な萌芽ほうがである。

 あゝ、そういえば私の叔母も心が弱い人だった。

 彼女の名前は――そう、確かムツといった。


 ムツは、高い煙突のふもと――鉱山町こうざんまちで、高度成長期を過ごしていた。その名のとおり小さい頃から誰とも仲むつましかった彼女は、顔が整っていたこともあり、異性にモテる素質を備えていた。

 成長してもその魅力は変わらなかったが、容姿ゆえに男を取っ替え引っ替え――という形にシフトしてしまい、落ち着いた生活は送っていなかった。

 一方、時代の流れ、鉱量の枯渇により鉱山は閉山し、そこで生活していた者たちのほとんどが山を下り、新たな生活を始めていった。


 昭和後期になると、ムツの実姉――カズが、東京でふたりの子を出産した。ほどなく実母のヨシが住む実家へと移住し、家族五人での生活が始まった。

 一方、独身のムツは実家に住まないことを条件に、餞別として五十万円を受け取り、神奈川県へと移住した。

 一見、危なげない独り立ち。しかしそれから数年が経った頃、ムツは実家との約束を無下にし、ふらりと姿を現したのだ。餞別をすっかり使い果たし、精神安定剤が手放せなくなった状態で。


『……あんた、なにがあったの?』


 ヨシが質問しても、ムツは浮遊する霊のようにフワフワした態度、意思のない虚ろな目で、雲を掴むような返答を行うばかりだった。まるで要領を得ないムツからは、性格が崩壊した経緯も、お金がどこに消えたかも聞き出せるわけがなく――

 その朦朧たる姿から唯一確認できたのは、い人にフラれたことのみ。

 悲しいかな、ムツにかつての面影はなかった。

 薬や暴飲暴食の影響で、体は寝肥ねぶとりのように膨れ、長い黒髪はパサパサに乾ききり、化粧の仕方も忘れてしまったのか、顔と首の色が異なるほどにファンデーションを厚く塗りたくっていた。

 理由はどうあれ、住居ホーム現金キャッシュも持たない我が子を突き返すわけにもいかず、ヨシはしぶしぶ家に置いてあげることにしたのだ。

 また世話のかかる妹を放っておけず、カズも同様に不承不承に――


 実家に転がりこんだムツからは、働くという意思が感じられなかった。

 代わりにエナジーを注いでいたのは、元カレの実家に電話をかけ続けたり、来るわけがない元カレからの連絡を一日中、電話機の前で待ち続けたり。

 また、替えボタンを入れていた長方形の箱の六面すべてに、


  ぼたん入れ ぼた ん入れ ぼ た ん入れ ぼたん 入れ ぼたん入れ ぼ たん入れぼた ん いれ ぼたん入れ ぼた ん入 れ ぼた ん入れぼたんいれ  ぼたん入れぼたん 入れぼ たん入れ


 と、憑かれたように書き殴ったり。

 奇声を発したり、部屋をグルグルしたり。

 とにかく常軌じょうきいっした行動だった。

 加えて、消費者金融から借金までしており、取り立ての電話が頻繁ひんぱんにかかってきて、家族全員に迷惑をかけていたのだ。


『この奇行は、さすがにヤバイ』


 これが、ヨシとカズの判断だった。

 すぐにムツを病院へ連れてゆくと、とどのつまり【統合失調症】と診断された。皆と仲睦ましかったムツは、誰も彼も別の生き物として認識しているようで、ますます近寄りがたい人物になってしまった。

 それからしばらく、狭い実家で六人暮らしが続いた。が、穀潰ごくつぶし扱いを受けていたムツが長く居座れるわけもなく、半ば強制的に家を追い出されることとなった。とはいえ、借金を代わりに払ってもらったり、次の住家を探してもらったりと、どこまでも実家に面倒をかけていたが。

 当然ムツは社会に出られず、その日を境に、生活保護を受給しながら、性格がさらに後ろ向きになっていった。

 それらの厚意に対して、少しでもムツの心に『感謝』は宿っていたのだろうか。

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