第56話 「覚悟と決意のマーチ」
日本 VS イタリア
男子ダブルス ゲームカウント 4-4
デカリョウの打ち放った落雷のようなスマッシュに対し、ロシューは自ら落下点に飛び込み直接打ち返すという無謀とも思えるプレーで見事に打ち返した。その結果、またしてもサービスキープとなりゲームカウントは4-4と並ぶ。
「すげぇやロシュー兄ぃ! ヤツの打ってくるコースが分かったんですかい!」
「いいや。そんな気がしただけだ」
「……え、気がした?」
「あの2人。確かにテニスは上手いが、どうにも坊ちゃん育ちの腑抜けヅラだ。あいつら、前衛にスマッシュをブチ当てる覚悟なんざねぇ。決めて当然のチャンスボールは、相手を避けてスマートに終わらせるタイプだろうと踏んだのさ。まったくお行儀の良いこったぜ。多分、このあと同じような場面があっても、奴らは非情になれない。そんな気がする」
「気が……」
ただの勘を頼りに、自らあんな危険なプレイを躊躇なく実行するロシューの心の強さを目の当たりにしたリーチは、心の中でロシューに改めて尊敬の念を抱きつつも、表情はやや引きつってしまう。テニスボールを身体にぶつけられても死にはしないが、大怪我をするリスクはある。この男の辞書に、恐れの文字は無いのだろうか。
「さて、これで4-4。またあのデカブツの出番だ」
「ロシュー兄ぃ、それなんですが、さすがにあの立ち位置だと」
「あァ!? てめぇ、まだ分かってねぇのか。仕方ねぇ、次ちゃんと見とけ」
「見とけって……」
血に混じって流れる汗を乱暴に拭い、ロシューは言った。
「オレたちの勝機は、覚悟の先にあるんだ」
★
「マサキ、すまねぇ」
「気にすんな、ありゃ相手が一枚上手だった」
マサキはデカリョウにそう言いつつも、内心では状況がかんばしくない方向に進んでいると感じていた。先ほどのスマッシュミス――厳密にはロシューのファインプレーだが――は、この後のことを考えると少々、いや、かなり具合が悪い。
(そろそろ1stセットも終盤。現状、全員がキープを続けて次でサーブ3巡目。やつらは早い段階でデカリョウのサーブを極端に前でさばこうとしてた。特にあの金髪オールバックは、何気に
「マサキ」
声をかけられハッとするマサキ。
「心配すんなよぉ。ここは、き~っちりキープしてみせるさぁ」
デカリョウは、肉付きの良い顔にぷよぷよした笑みを浮かべながら、のんびりと、しかし諭すようにいう。その表情をみて、マサキのなかにあった不安のさざ波が自然と凪いでいく。なんてことはない。サーブなんてものは
★
「うーん、ちょい流れ悪いかもね」
「そーね、次あたりヤバげかもね」
仲良く並んで座っている桐澤姉妹が、左右対称で同じポーズのままつぶやく。その言葉の意味するところが分からなかった聖は、ダブルスの先輩である2人に質問を投げかけてみた。
「今のスマッシュが決まらなかったのが、そんなによくないってこと? でも今のはさすがに、相手が上手かったっていうだけじゃないの?」
双子は同じタイミングでうーんと小さく唸り、言葉を考えてから同時に答えた。
「「相手も凄かったけど、あれは決めなきゃダメだったね」」
<ステレオかっ! オレにこんなベタなツッコミさすンじゃねェ!>
聖以外には聞こえないのにも関わらず、ノリツッコミしているアド。聖はそれを無視して、話に意識を向ける。双子が指摘する通り、確かにさっきのは決めて然るべき場面だったとは思う。それはきっとマサキとデカリョウも分かっているだろう。だが、それを相手が上回った、それだけのことではないのか。
「イタリアの2人がデカリョウのサーブを極端に前で取ろうとするのは、さっき話してたメリット以外に、別の意味があるの。というか、多分そっちが本命だと思う」
ミヤビが落ち着いた声色で自分の考えを口にする。試合前のせいだろうか、いつものような明るい雰囲気は影を潜め、どこか凛然とした雰囲気を漂わせている。整った顔立ちの彼女が見せる真剣な横顔には、吸い込まれるような美しさがあった。
「
ミヤビに見惚れて油断していた聖の脇腹に、鈴奈の軽いパンチが入る。気まぐれに人の注意を引きたい猫のように、微妙な距離を取りながらじゃれついてくる彼女は全くもって普段通りだ。ミヤビとは実に対照的だが、それはそれで見習うべき点があるかもしれない。
「確かに、見てればそのうち分かるだろう、とは言ってましたけど」
「そうじゃ、見てれば分かる。コラ、ひじリン避けるな」
聖は鈴奈のじゃれつきをやんわり受け流す。なるべく身体の接触を避けようとする聖の意図を汲み取っているらしく、鈴奈はわざとにじり寄って距離を詰める。だが途中で奏芽に首根っこを掴まれ、親猫にくわえられた子猫よろしく元の席に戻されてしまった。
「ま、見てりゃ分かるのはマジだと思うぜ。……たぶんな」
般若のような表情を浮かべる鈴奈の視線を無視しながら、奏芽が言う。そうこうしているうちに会場の騒めきが収まり、ポイントが始まる気配が会場に広がる。結局、イタリアペアの狙いが何なのかは分からず仕舞いだったが、鈴奈や奏芽のいうことが確かなら、それは間もなく分かるだろう。分からないのもなんだか悔しいので、聖は真剣な眼差しで試合の展開を見守った。
★
「コホォォォォ……」
ボールを受け取ったデガリョウは、自分が所属するATCの先輩であるプロ選手、
(変な緊張は……無い。大丈夫、落ち着いてるぞぉ)
デカリョウは自分の精神状態を客観的に俯瞰して分析する。とはいえ、あまり難しくあれこれ考えるのは得意ではないため、自分のなかに何か引っ掛かりやしこりのようなものがないかをぼんやりなんとなく感じているだけだ。
(オレのサーブは世界一、オレのサーブは世界一、オレのサーブは世界一)
呪文のように頭のなかでくり返すデカリョウ。神様は彼に、恵まれた体格と運動センスという、アスリートならば誰もが羨む
ボールを持つ手は握らずに
指先はそっと添えるだけ
腕は使わず身体全体でボールを送る
筋肉を弛緩して重力に任せ沈み
弓の弦を引き絞るように身体を捻って
地面を蹴って空に飛び立ちながら
生まれた力を束ねるように
全ての力を集約し
インパクトの瞬間、全てをぶつけて打ち放つ――!
(よし、ドンピシャ!)
ボールを叩くラケットの衝撃に確かな手応えを感じるデカリョウ。リターン位置を絶対に下げようとしない相手からは、ずっと目には見えないプレッシャーを感じていたというのが正直なところだ。強力なサーブを確実に返すべく下がってくれればしめたもの。そうなればマサキがどうにでも決めてくれる。デカリョウがサーブで崩し、マサキが決める。ダブルスの理想形を体現する彼らのスタイルは、戦術的には隙が無い。だが――
(いい加減慣れたぜ、デカブツッ!)
デカリョウの放ったサーブは見事にライン際へ着弾。深く突き刺さったボールは軌道を変えながらも猛烈な勢いを保ったまま跳ね返り、左利きであるロシューの
「
拳を握りながらロシューが吼える。
同時に会場が沸き、地鳴りのような拍手が鳴り響いた。
★
マサキはすぐさまデカリョウに駆け寄る。
「ワリィ、カウンターで抜かれちまった」
自分のミスだと主張するように謝罪を口にするマサキ。リターンが通過した位置だけを見れば、確かにそこの守備範囲を担当しているのはマサキだ。しかし、デカリョウのサーブを一切下がらず、早いタイミングで攻撃的なリターンを成功させたロシューが見事だったともいえる。むしろ、強いて今のポイントの敗因を挙げるなら、コースを読まれたデカリョウのサーブだろう。
(クソ、最初の段階で速いサーブを控えて隠し玉にすべきだった。そうすりゃあ、緩急を使って慣れさせないやり方で戦えた。結果論だが作戦ミスを認めるしかねぇな)
マサキは胸中で舌打ちしながら反省する。デカリョウの爆裂サーブをより効果的に活かすなら、早い段階から使わずここぞという場面で使うべきだったと今更ながら作戦の
(とはいえ、団体戦の初戦。精神的なイニシアチブを取るために、最初から全力でかかるとオレ等は決めてた。予定通り初っ端をサーブ4本でキープしたし、その次もそれが実践できた。それでも一切揺るがず、初志貫徹してきた奴等の覚悟が見事だったんだ。オレ等は『先の先』を、奴らは『後の先』を取りに来て、結果的に奴らが上を行った。そこは認めねぇと)
頼もしい相棒のサーブで初っ端に相手の心を折るつもりが、相手は全く動じることがなかった。それどころか、自らの危険を顧みずスマッシュに飛び込んでみせたうえ、遂にはデカリョウのサーブを捉え始めた。
分水嶺だ、とマサキは思う。1stセットは確かに終盤へと差し掛かっているが、3セットマッチであることを考えればまだ序盤と言える。しかし、マサキはこの試合の結果を左右するであろう分かれ道が早くも訪れたと感じた。マサキの脳裏に、選ぶべき道のイメージが浮かび上がる。
このまま作戦を継続するか
作戦中断し、別の作戦を展開するか
(さっきのリターンは確かにやられた。あの金髪オールバックはデカリョウのサーブを捉え始めたと言っても過言じゃねぇ。だが、パイナップル頭の方は? あいつは下がるなと言われて仕方なく前に陣取ってるだけだ。
勝敗を分かち得る重要な場面であることは承知しつつも、作戦方針を変えるにはまだ確認しなければならない点が多く、マサキは判断に迷う。勝負の場というものは、時として判断材料が揃う前に決断しなければならないときが往々にして訪れる。情報が揃ってから決めていたのでは手遅れで、そういう場面に限って「その前に決断していれば」と後悔するのはままあることだ。
判断するための材料が足りない状態で、正しい道を導き出すことは難しい。焦りを感じ慌てるときほど、人はころころと行動を変えてしまう。そして、状況が拮抗しているときほど、人は現状維持を選ぶ。その時々の選択の正誤が分かるのは、結果が出たあと。ならば、決断の場面で人は何を根拠として道を選べばよいのか。
(どうする……)
重要な局面での決断を前に、マサキは暗闇の荒野に迷い込んだような気分に陥った。
★
「リーチ、重要な場面だ」
リターンエースを決めて咆哮をあげたロシューは、そのあとまるで何事もなかったかのように冷静な態度でリーチに声を掛ける。さきほどの咆哮は、ようやく成功したリターンがエースになった歓びを爆発させたように観衆の目には見えたことだろう。だが、ロシューの頭のなかはずっと冷えたままだ。彼のもっとも深いところには確かに情熱の炎が灯っているが、それは決して溶けない分厚い氷の壁が覆っている。
「覚悟を決めろ、リーチ。それさえあれば、道は開ける」
それだけ言うとロシューはリーチの肩をぽんと叩き、全てを任せる。凄まじい威力のスマッシュに自ら飛び込む勇気、失敗を意に介さず強烈なサーブを前で受け続ける度胸、それらを用い、ロシューは遂に相手の武器を突破した。言葉ではない、見事な行動と覚悟だ。
(分かってきたよ、ロシュー兄ぃ。言いたいことが分かってきた)
構えながら、リーチは自分の心が落ち着いていくのを感じる。いや、より正確には、どこか浮き足立っていたような気持ちがどっしりと地についたような安心感を憶えた。テニス自体にはそれなりに自信を持つリーチだが、アメリカに着いた頃からどこか落ち着きの無さをずっと感じていた。イタリアという国の抱えている諸々の問題や、チームメンバーが口にするきな臭い連中の存在、実際に発見された盗聴器がその原因だった。
だが試合が進行するにつれてようやく、試合そのものだけに集中し、彼が持つ本来の卓越した才能と柔軟な発想力が目を覚まし始めた。そのお陰でやっと、ロシューが口にしていた「下がるな」という言葉の意味を実感し始めた。
(強烈なサーブを前で捉えることで得られるメリットは、リターンを成功させなきゃあ得られねえ。相手のサーブの確率が安定しないなら迷わずそうするけど、やつの1stは本当に精度がたけぇ。その場合、メリットを得る前にリスクでこちらがやられちまう。オレぁそれを恐れていた。虎の子を得るために虎穴に入って、親虎に食い殺されたんじゃ話にならねぇ。だけどよぅ)
デカリョウがトスを上げる。これまでと変わらず、乱れている様子は無い。
(親虎をブッ殺す覚悟が無きゃ、虎の子は捕まえられねぇ!)
またしても強烈なサーブが爆音と共に打ち放たれ、容赦なくサービスボックスへ叩き込まれる。だが、リーチは遂にそのサーブを捉え、サーブを打った直後のデカリョウの足元目掛けてリターンを叩き込んだ。
「チッ!」
サーブの打ち終わりでバランスが回復するより僅かに早く届いたリターンに、デカリョウは辛うじて反応。下がる間も無いため
ロシューは、容赦なくハイボレーを前衛であるマサキの身体に目掛けて引っ叩く。マサキは相手が構えた瞬間にそれを察知し、身体を逃がして回避。自分に向かって来るボールならば、ラケットを出してどうにか当て返すことも不可能ではない。しかし、打つ瞬間のロシューの表情から、マサキは瞬間的に危険を感じて回避を優先。選手の身体にボールが当たってしまうと失点になる。確率の低いラケットでの返球より、当てに来たボールがアウトする方に賭けたのだ。だが、マサキの思惑は外れ、ボールは日本ペアのコート内でバウンドして観客席まで飛んでいった。
「よォし! それだ! それでいいッ!」
リターンを成功させたリーチに、ロシューが力強く賞賛を浴びせる。相方の期待にやっと応えられたことで、リーチも誇らしげに堂々とロシューに向けガッツポーズを見せた。続く第3ポイント、デカリョウはこれまでとは異なり、回転量を強めたスピンサーブでリターンを崩しにかかった。だが、リターナーであるロシューは即座に対応。絶妙なコントロールのリターンでデカリョウをコートの外へと追い出す。どうにか返球には成功したものの、今度は前衛だったリーチがスマッシュを決めて3つ目のポイントを手にした。
何事かを話し合ってからそれぞれの立ち位置に戻る日本の2人を、リーチは先に構えて観察する。ボールを受け取っているデカリョウは、表情にこそ出していないが立ち振る舞いのそこかしこに焦りが見て取れた。
(ラケットでボールをつく強さ、首をほぐす回数、しつこく繰り返す深呼吸、分かるぞ。やつが焦っているのが分かる。自慢のサーブでポイントが取れず、さっきのように攻め方を変えても上手くいかず、どうしたものかと迷っていやがるんだ)
いける。
リーチはそう確信する。サーブに対して絶対的自信を持つ相手に、絶対下がらずリターンし続けることで、戦術的な意味以上の効果が出ようとしているのを実感した。例え序盤にあっさりとキープされ続けたとしても、後半の大事な場面で、こうして相手に強いプレッシャーをかけ続けられるのはこの上なく大きいメリットといえる。
(それにこのプレッシャーは、このセットだけでは終わらない。序盤にこうして相手の武器を脅かすことで、試合全体の流れを大きく引き寄せることができるんだ。サーブが自信の相手からサーブを奪う。相手の武器を破壊する。自分の最も信頼できる武器を失った状態で、やつはこのあとも戦い続けなきゃなんねぇってこった)
デカリョウがサーブを放つが、この試合初めてネットにかかった。
(これが、
続く2ndサーブが、僅かにサービスボックスを外れてしまう。その直後、イタリアペアは互いに、無言のまま力強く拳を握りしめてガッツポーズをとる。相手のもっとも強力な武器を破壊するという何よりも困難な道を、2人の覚悟が切り開いた瞬間だった。
続く
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