第15話 「新星教授」
ポイントが決まった瞬間、
高揚感と戸惑いの異なる感情が自身の内で揺れ動いていたが、聖は自分の中の動揺を辛うじて堪え、平静に努める。だが、内側から湧き上がる怒りにも似た闘志は抑え難く湧き上がり、指先が震えるほどに戦意を漲らせて戸惑いを押し退け、それにつられるように勝手に身体が動いて次のポイントに臨んだ。
しかし、それでも。ポイントを失うことはあったが、能力を最大限に引き出せる今の聖にとってサービスゲームをキープするのは難しくなかった。デュースを迎える前にポイントを決めて聖がゲームを
これでゲームカウントは聖から見て4−5。
聖は次の蓮司のサービスゲームをブレイクしなければ敗北が確定する。
しかし聖に不安はない。
それどころか、依然として追い詰められているこの状況を楽しんでいる自分を自覚する。身体の底から獰猛で好戦的な感情が止めど無く溢れ、集中力が高まっていく。チェンジコートの際、スポーツドリンクを口にしながら冷静に自分の状態を振り返ってみたが、これはやはり
<数いる選手の中でも、ヒューイットは特に感情的な方だからな。技術的な能力だけじゃなく、魂の在り方が同調してンのさ。別に身体的な害はねェから恐がらなくてもいいぜ。もっとも、オマエ自身の
アドがおおよそ聖の考えと同じことを口にする。身体にもプレーにも影響はなさそうだし、むしろこの状態を受け入れた方がもっと力を発揮し易くなるような気さえする。だが、このヒューイットの苛烈な精神は聖の元の性格とはあまりにかけ離れている。気の持ちようであると言われればそれまでだが、試合で
とはいえ現状でそれを気にしていても仕方がない。
それよりも、なるべく早く決着をつけないと
勝つのであればあと2ゲーム。最短でも8ポイント。もつれたとして最大で14ポイント。急げばなんとか間に合うはず。だが、蓮司相手に油断は出来ない。能力を最大限発揮して可能な限り早急に決着をつけたい。
チラリと時計を見ると、時刻は17時半を少し過ぎたところ。好戦的で獰猛な感情が自分の中で大きく渦巻くのを強く感じながらも、聖は幽かな焦りを覚えていた。
★
最初と、中盤、そして終盤に差し迫った今。
対戦相手の若槻聖は明らかに様子が変わった。いや、そんな生易しい変化ではない。別人になったといっても大袈裟ではないぐらいの変貌ぶりだ。キープされた今のゲーム、プレースタイルは異なるものの、あれこそまさしく黒鉄徹磨と戦っていた時の聖だ。
ゲーム中盤、蓮司は聖が手を抜いていると感じた。そのことにイラついてしまい、それならさっさと終わらせてやろうと強打を連発した。その途端、急に聖のプレーが変わった。それまでのやる気のない鈍い反応から、鋭い動きと俊敏なフットワーク、そして堅実なディフェンスで次々とボールを打ち返すようになった。
ようやく本気になったかという思いと、今更になって本気を出しても遅いという思いから、強打で力の差を見せつけようとする戦い方をした結果、聖のディフェンスが蓮司の攻撃を上回りゲームを連続で落としてしまった。
ゲームを落としてしまったことと、途中でミヤビが乱入してきたことが重なり冷静さを取り戻した蓮司は、過去に怪我をした肘に負担がかからないよう本来の自分のプレースタイルで確実に勝とうと決心した。それとほぼ同時に、いよいよ聖が本気を出してきた。
先ほどの見事なカウンターと挑発的な雄叫びに驚きはしたが不快感は無かった。むしろ初めから自分に全力を出そうとしなかった事の方が腹立たしく思えていたくらいだ。
その圧倒的なまでのプレースメントに賞賛を送りたくなるのを蓮司は辛うじて抑え込む。試合の最中に、相手に対して余計な感情を持つべきではない。試合外ならいざ知れず、今まさに勝敗を競おうという時にそういった緩みは命取りになる。
――勝ちたければ非情になれ
これは蓮司が尊敬している徹磨の先輩に当たる
「同じ国だろうが、同じアカデミー所属だろうが、自分以外のプロは全員敵」
そう豪語する金俣は、その刺々しい振る舞いにも関わらずそれなりの人望がある。だがそれは金俣が結果を出し続けているという事実に基づくものであり、彼の普段の他人に対する言動はとても尊敬できるものではない。蓮司も人間的な部分で言うなら金俣を好きにはなれないのだが、平然と他者を敵と見做し馴れ合いを嫌う彼の価値観は世界で孤独に戦うプロのテニスプレイヤーを目指すなら必要なものに思えた。
蓮司はタオルで汗を乱暴に拭い、投げ捨てるように放る。ふと、甘い香りが鼻をくすぐった。それがミヤビのものであるとすぐに気付いたが、蓮司はわざとミヤビの方を向かないようにして振り払った。今この場において、甘ったれた感情は一切不要。邪魔なだけだ。
(次のゲームをキープすれば、オレの勝ち)
好きにはなれない6先ノーアドというルールだが、勝ちは勝ちだ。例え公式戦で無いにせよ、いきなり入ってきた新参者に団体戦でのシングルスの座をそう簡単に明け渡すなど到底受け入れられない。こいつがこれまでどんな風にテニスをしてきたのかは知らないが、少なくとも自分以上に努力して必死にやってきた奴などそうはいない。この場はなんとしてもきっちり勝ち切って序列を分からせてやる。そんな風に戦意を奮い立たせながら、蓮司は第10ゲームを迎えた。
★
最初のポイントは長いラリー戦となった。蓮司のもっとも得意とする戦い方は
それに対して聖が宿しているレイトン・ヒューイットは
このスタイルは基本的には守備主体。だが相手に主導権を握らせないようにひたすら精度高く
ヒューイットは特に相手のエースをカウンターで叩き返すプレーが特徴的で、それを支える俊敏なフットワークは当世最速とも呼ばれた。誰もが諦めるような必殺の一撃を、風のように駆け抜けながらカウンターで逆転してみせる。ポイントが決まった直後に上げる「カモン!」という雄叫びは相手の戦意を挫き、観る者の闘志に火をつけた。
聖がミスを控え、攻撃はカウンター狙いに絞っていることは蓮司も気付いている。迂闊に仕掛ければ却って自分が不利になる以上、堅実に
数十回とラリーが続き、聖のショットが蓮司の予測と噛み合った瞬間、蓮司は
――来やがれッ!!
蓮司が上手く立ち回ることで、聖が打ち易いコースを視覚的、心理的に塞ぐ。蓮司の守備範囲外は聖にとってどこを打つのにもリスクが伴い、読まれれば蓮司に反応されてしまう。絶妙な配球によって攻撃の手を狭められた聖は、微かな罪悪感を噛み潰すように歯を食いしばり
だが、蓮司の胸元から十数センチの場所でボールは止まる。僅かに身体を捻りながら器用にラケットでボールを捉えた蓮司は、ボールの勢いを見事に殺し切って聖のいない方向に
聖は
僅かに崩れた体勢のまま正確に蓮司の真正面へ強打しただけでなく、打ち終わりと同時にコート前方への警戒を高めて最初の一歩を踏み出していた。それでも、蓮司の放ったドロップは完全にボールの勢いを殺している。いくら反応出来たとはいえ、聖が追いつく頃には最初のバウンドが終わり2度目の落下を始めている。ギリギリ追いついたところで、聖は拾うのが精一杯のはずだ。
同じようにドロップで来るか、もしくは前へ詰めた蓮司の頭上を抜く
蓮司に
ボールが2度目のバウンドをする直前、蓮司は聖に背を向けたままの姿勢でラケットを振りかぶる。まるでラケットを持った手で障害物を乗り越える様にしながら、股の間からボールを打つ
「カモォォン!!」
ポイントが決まると、今度は蓮司が拳を握り締め聖を睨みつけながら叫んだ。
<ハッハー!見た目通り、根に持つタイプだなァあの陰キャチビ>
嘲るように笑うアド。自分の意思ではなかったにせよ、先に挑発するような雄叫びをあげたのは聖だったのだから、相手の態度について文句はない。叫ぶ方は気持ち良いのだろうが、叫ばれる方は当然のことながら良い気はしないものだなと聖は冷静に感じつつ、その鮮やかな一打に胸中で拍手を送った。
★
コートサイドで試合を見守っていたミヤビは、試合が終盤に差し迫るのを静かに見守っていた。蓮司が言いつけを守り、無理な強打を控えて本来のプレイスタイルで果敢に聖に挑んでいることに安堵していた。
同時に、蓮司が聖に対してライバル心を剝き出しにするが故に怪我を省みないプレーをしていたのは自分の責任だと反省もしていた。黒鉄徹磨を兄のように慕う蓮司にとって、突然現れた同い年の男子に目の前で徹磨を倒されたのはショックだっただろう。元々負けず嫌いな性格だったから、わざわざミヤビが煽らずとも恐らく蓮司の方から勝手に試合をふっかけたに違いない。少々、余計なお節介をし過ぎたなと感じていた。
このところの蓮司は精神的に少し成長したと、ミヤビは感じている。その証拠に、昔のように周りに対して露骨にツンツンした態度は取らなくなったし、同世代の3バカと一緒になって談笑することが増えた。練習や試合などテニスに関する時はまだまだ以前のような負けん気の強さを発揮するものの、不用意な発言で周囲と衝突を起こすようなことはかなり減ったように思う。
とはいえ、まだまだ感情のコントロールは拙い。今回のようにしなくてもいい我慢をするせいで、ミヤビといる時でさえ不機嫌なままだったりする。それはそれで可愛げがあるので悪くないのだが、以前のような子供っぽい素直さは失われつつあるので、ミヤビとしてはちょっぴり寂しさもある。この辺の不満はミヤビの意地悪さにも原因があるのだが、自分の事は棚に上げている。
だからわざと吐き出させる為にお膳立てしてみたのだが、ミヤビの予想以上に蓮司は聖に対して対抗心を燃やしていた。我慢していた分、何が何でも叩きのめしてやると頭に血が昇っていたのだろう、散々やめるように言った徹磨まがいのハードヒットをサポーターも付けずに乱発してしまった。
幸い、そのことを
ミヤビは今回の練習試合で、蓮司が上には上がいることを知り少しでも謙虚さを学んでくれたらと思っていた。蓮司は超がつく負けず嫌いではあるものの、負けた後に癇癪を起すようなタイプではない。というよりも、ミヤビに言わせれば負けた後に癇癪を起すのは中途半端な負けず嫌いでしかない。蓮司のような本物――といって良いかどうかは不明だが――の負けず嫌いは、仮に目の前の試合で負けても敗北を認めない。
「今日は負けても、次は勝つ。そして更にもう一度勝てはオレの勝ちだ」
いつだったか、蓮司はライバル視していた相手に黒星をつけられた後でそう言った。内心は泣きたくなるほど悔しい気持ちで溢れかえっていただろうに、それでもぐっと涙を堪えてそう言った。負けは受け入れても敗北は認めない。最後に勝つのは自分だと言ってのけ、試合で見つけた課題に取り組み欠点を克服し、別の機会に見事リベンジを果たした。そうやって、敗北を糧にしてどんどん成長していく蓮司を見るのがミヤビは楽しかった。
まるで、
だがミヤビにとって意外だったことは他にもある。対戦相手である聖のプレーだ。それはミヤビの想定より蓮司が聖へのライバル心を抑えていたこと以上に、全く予想していない出来事だった。徹磨とあれだけの試合をしてみせた聖ならば、蓮司をあっさりと返り討ちにするとミヤビは踏んでいたからだ。
前回の聖の試合では、一見すると無謀のようにすら見える
それが、今日はライジングによる攻撃を殆どといって良いほど使っていない。要所でディフェンス的に処理するような使い方はするものの、積極的に攻撃する気配は無かった。そういえば、徹磨と戦った時も、終盤はライジング主体ではなく今日のような守り主体のプレースタイルに変わっていた。あの時はてっきり、徹磨が見せた怒涛の追い上げに対抗すべく方針転換したのだと思っていた。
のちに行われた歓迎会で、聖は「あの時はまぐれだった」と何度も言い訳するように語っていた。確かに、自分でも思いもよらず調子が良く実力以上のプレーが出来ることはテニス選手ならままある。相手が格上である時ほど、まるで相手に自分の力を引き出されるようにしてどんどん良くなっていく。そういえばミヤビも、素襖春菜と試合をするときはいつもそんな感じだった。だから聖のその説明に、そんなものかと納得も出来た。
であるならば、今日のプレーこそが聖の本来の実力ということなのかもしれない。そんな風に考え始めていた矢先、聖は目を見張るような
人が変わったようにプレーが変わる。
そういう選手は確かにいる。だが往々にしてそれは悪い方、つまり良いプレーが崩れて別人のように悪くなる、という意味で目にすることが多く、その逆は滅多にない。時折、プロで圧倒的に劣勢な状況から挽回するということもあるが、そういうのとも少々印象が異なった。
蓮司のスタイルが相手との間合いを的確に読みつつ隙を突く
緊張感を保ちながら、試合は続く。1ポイント毎にかかる時間が長い。だがお互いに守り合っているから長引いているのではなく、ハイレベルな攻防が続くが故の拮抗状態だ。ふと、ミヤビは蓮司の表情が思いのほか柔らかくなっているのに気付いた。聖に対する対抗心は影を潜め、今目の前のポイントに全ての集中力を注ぎ込んでいる。まるで一球一打ごとに成長しているかのように、蓮司のプレーは良くなっていく。
そんな蓮司の様子を見て、ミヤビは不意に妙な満足感を覚え自然と笑みが零れた。なんの根拠もないことだが、何故か、蓮司に必要だったものがようやく手に入った、そんな気がした。謙虚さであるとか、何かしらの技術であるとか、そういう言語化し易いものではない。なにかもっと別の、彼にとって必要な
本当はそれを、ミヤビ自身が蓮司に与えたいと思っていたことにもミヤビは気付く。そう自覚した途端、なんだか相手をしている聖に対して、幽かな嫉妬を覚えている自分に思わず苦笑いしてしまう。
そんなミヤビの胸中を余所に、決着の瞬間が訪れようとしていた。
★
一見、蓮司はバランスを崩してはいない。だが、聖はここまでの展開で蓮司の
聖の放った
6ゲームを先に奪った方が勝ちというルールでなければ、蓮司にはもう一度挽回のチャンスが与えられるはずだが、今回はそうではない。お互いに肩で息を切らし、無言のまま視線を交わしている。
蓮司は聖との視線を切り、転がったボールを一瞥する。何か言いたげに小首を傾げると、自嘲気味な笑みを浮かべてネットに向かって歩き出した。それにつられるように聖もネット前へ向かうと、お互いに向き合った。
顔は知っていたものの、いつも少し離れていたせいか、間近で見る蓮司は思っていた以上に小柄で、やや見下ろす形になる聖。この小さな身体で素の自分より遥かに高いレベルのテニスを身に付けていると思うと、尊敬の念を抱かずにはいられなかった。自分は嫌われているだろうが、これまで彼が培ってきた努力と研鑽に心から敬意を表したいと思えた。
「オイ、見下してんなよ」
言葉とは裏腹に、優し気な声色で蓮司が言って手を差し出す。
聖は慌てて手を拭って、蓮司と握手を交わす。彼の手は熱かった。
「序盤のなんだよ、最初からマジでやれよな。ったく」
握手をしながら、蓮司が不貞腐れながら言う。何か言い訳をしようかと思ったが、先に横 で見ていたミヤビが声をかけてきた。
「ナイスゲーム! 2人とも、お疲れ様!」
負けた蓮司に気を遣っているのか、やけに明るくいうミヤビ。笑顔満面ではあるが、どことなく2人に「さぁほら試合終わったし仲良くしようね〜」とでも言いたげな雰囲気が透けて見える。その様子には苦笑いの聖だが、蓮司は気付いているのかいないのか特段反応していない。割と天然なところがあるのだろうか。
「なぁ、お……若槻さ、この後メシ行かね? ミヤビも行くだろ?」
聖はその提案に驚いたが、それよりも絵に描いたように目を丸くしていたミヤビの顔を見たらその気持ちも吹き飛んだ。よっぽど意外なことなのだろう。
「え、え、蓮司? メシ? ご飯行こうって?」
さながら、ニートの息子に「オレ、真面目に働くよ」と告げられた母親のような様子で慌てふためくミヤビ。そんなミヤビの様子を見て何をそんな驚くんだとちょっと不満げな蓮司。仲の良い姉弟のような2人のやり取りは、実に微笑ましかった。
そしてふと、聖は時計に目をやって血の気が引く。
やばい。
「ご、ごめん! オレこの後ちょっと用事が、ホントごめん、また誘って! えぇっと、3日後ぐらいに! それじゃ、能条くん、今日はありがと! 雪咲先輩もお疲れ様でした!」
それだけ言うと、聖は大慌てで荷物をまとめ一目散にコートを後にした。
呆気に取られていた二人はコートに残され、何事かと顔を見合わせるのだった。
★
<はっしれ~はっしれ~セイタロウ~♪ 本命穴馬かきわけてェ~♪>
時刻は18時を回ろうとしていた。陽は沈み、辺りは夕闇に染まっている。
聖はあちこちチャックの開いたままのラケットバックを抱え、着替えもせずに大急ぎで駐輪場に向けて走っていた。冷えた汗の染み付いたウェアが肌に張りつき気持ち悪かったが、そんなことを構っている場合ではない。
蓮司との試合で、非撹拌事象における
アドに確認はしていないが、非撹拌事象から撹拌事象へ切り替わったのであれば、その時点で
ならば、
徹磨戦後、リピカの提案で非撹拌事象後に発生する
試合の最中、聖はこの事に気付いた。だが、聖に宿ったヒューイットの燃え盛る炎のような闘志にあてられたせいなのか、一言確認すれば済むことを聖はしなかった。目の前の試合に集中したい気持ち、異常なまでに昂る感情、そして何より、自らタイムカウントについて尋ねてしまうせいで気が散る事を嫌がった聖は、問題に気付きながらも手を打たずにいた。今さらながらそのことを後悔する。もっとも、打てる手など限られているのだが。
「リピカ、あとどれぐらい?!」
<残り、11分です>
飛ばせばなんとか家に到着できるギリギリの時間だ。駐輪場につくと、急いで自転車のカギを探す。最近では当たり前になった携帯型デバイスとの連動型ロックにしていないのが悔やまれる。
「あれ!? 無い!」
自転車のカギが見当たらない。いつも同じ場所に入れているはずが、入っていない。チャックは閉じてあったので落としたとは考えにくいが、万が一もある。更衣室に戻って探すか、それともこのまま走って帰るか。
<オイオイ~なにしてんだよ~。このままじゃ寒空の下でイモムシみてェにひっくり返って動けなくなるのがオチだぜ〜?>
冷やかすアドの言葉にイチイチ反応していられない。そもそもコイツが煽ったから、本当は使うつもりのなかった非撹拌事象での能力を発動させたというのに。とはいえ、自分の意志で使う事を決めたし、それについて後悔はない。試合後の蓮司の様子を見ても、自分の判断は間違っていなかったような気がしているからだ。
だが、今はそんなことを考えている時ではない。
「ない、ない、ない!」
<パニくってる時の青ダヌキみてェだなァ>
必死にカギを探す聖だが、一向に見つからない。早くしないとアドの言う通りになって、見つけた誰かが救急車を呼び、また家族に心配をかけるハメになる。どうにかしてそれは避けたい。
「あ~、お忙しいところすまんが、キミ」
ラケットバックに詰め込んでいた荷物の大半をその場でひっくり返していると、ふと声をかけられた。聖が顔を上げると、そこには妙な形をした眼鏡……というよりゴーグルのようなものをつけた、白髪で白衣を着た老人――顔は分からないが声の雰囲気からして――と、その横にはプラチナブロンドのまるで人形のように美しい外国人の少女が立っていた。
「総合受付とやらはどこかね。沙粧女史に面会したいのだが」
ゆっくり穏やかな口調で話すその老紳士風の男は、不思議な凄味を感じる。話し方こそ好々爺のようだが、背筋はしゃんとしているし居住まいもどこか力強い。思ったよりも若いのかもしれない。
「す、すいません、道案内したいのは山々なんですが、僕ちょっと急いでて……」
普段なら嫌がることもなく道案内を買って出る聖だが、今はさすがに間が悪い。これ以上時間がかかるようなら、家族に連絡して迎えに来てもらうより他ない。だが、そうなると恐らく迎えが来る前にタイムオーバーだ。救急車は避けられてもそのまま病院に直行される可能性が高い。
「ひょっとして、君が探しているのはコレかね」
すると、老人は見覚えのあるキーホルダーのついた鍵をつまんで見せた。
「あれ!?」
「先ほどすぐ傍で拾ったんだ。いやいや良いタイミングだったようだね」
老人は聖に鍵を渡すと、良かった良かったとしみじみ言っている。横に立つ少女は不自然なほど直立不動のまま、微動だにしない。その様子があまりに機械のようで、なんとなくリピカを彷彿とさせた。
鍵は見つかったが、こうなると老人を無視するのは難しくなってしまう。今いる場所からなら総合受付までは歩いて1,2分だが、今の聖にその時間は無い。鍵の礼だけ言って今すぐ立ち去りたい衝動と戦いながら、どうしたものかと説明しあぐねている。そもそも、横に若い子がいるならその人に任せれば良いのに何故わざわざ僕に尋ねるのか。あ、外国人だから字が読めないとか?などと焦っているせいで思考が横道に逸れる。そうじゃない、そんなことはどうでもいい。
「ありがとうございます、ただ、あの、申し訳ないんですが」
「君はここの選手かい? 今日はもう練習終わりかね?」
聖が急いでいるのを諦めさせようとしているのか、老人は関係ないおしゃべりを始める。聖の性格がもっと強引であれば、老人を無視して自転車にまたがり大急ぎで自宅へ向かう事も出来ただろう。しかし生憎とそれは叶わず、無情にもリピカがタイムオーバーを告げた。
<時間です。
急激に、地球の重力が十数倍になったかのような錯覚を覚えた。全身の感覚が消え失せ、そのままよろけて倒れ込んだにも関わらず痛みすら感じない。だが、身体の内側からは耐え難い苦痛が染み出すように表れ、全ての内臓をゆっくり握り潰されるような不快感が聖を襲った。以前は、発生と同時に意識がシャットダウンするように気を失ったが、徐々に堪えられるようになっているのが災いし、酷く苦しい時間が続く。
聖を支えているのは、どうやら少女の方だ。ほぼ身体の感覚が無い聖だが、随分と強い力で身体を支えられているような感じがする。虚ろな目をしたままの聖は、意識を失う直前、確かに聞いた。
「脈拍、血圧、呼吸、その他バイタル異常無し。簡易スキャンによる結果を見ても疾病の類ではなさそうですね。うちの薬を使っている兆候もなければ詐欺でも無さそうだ。それにも関わらず意識レベルが極めて低下。随分と苦しそうだ。ふむ、これは興味深い。先日といい今日の試合といい、この子は謎が多い。遺伝子データを採取するついでに色々調べてみるとしましょう。マリー、荷物と一緒にラボへ運んでおきなさい。目を覚ましそうなら拘束剤を投与して構わない。私が戻るまでに準備しておくように」
「畏まりまシタ。
「日頃の行いでしょうかね、
新星と呼ばれた男は、上機嫌そうに呟きながら携帯端末をオンにする。
「あぁ、私だ。近くに来ているのだがね。総合受付へはどう行けば良い?」
続く
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