第6話
足が震えている。
小さい頃に憧れた特撮のヒーローなら今すぐにでも扉の向こうに飛び込んでバッタバッタと敵を薙ぎ払って悪を成敗するのだろうがあいにく変身ベルトは持ち合わせていなかった。胸糞の悪い笑い声と磨りガラスに映る人影から中には3、4人の男子がいるようだ。土田1人が到底立ち向かえる相手ではない。先生に助けを仰ぎに行こうかとも考えたが自分の口からこの状況を伝えられる気がしなかったし、そもそも今この瞬間も目の前で水谷が危険に曝されているのに引き返すわけにはいかなかった。
ヒーローが実際には存在しないと気づき、助けを求めても裏切られていく日々に擦れていく中で嫌なことがあっても誰かに頼ることをやめることにした。母が亡くなった日も父は仕事から帰ってこなかった。いじめられて泣き伏した日も結局は自分の足で立ち上がるしかなかった。最初から最後まで自分でやれば誰かに期待し失望することもないし失敗も全て自分の至らなさに収束できる。そうやって今日まで生きてきたのだ。そうやって乗り越えてきたのだ。今この状況を打開できるのは自分しかいない。
土田は意を決した形相で足元に落ちていたコンクリート片を強く握りしめ、そのまま部室の扉に向かって投げつけた。
扉にぶつけて大きな音を出すつもりが力一杯投げたそれは扉のガラス部分目掛けて飛んでいった。スローモーションのようだった。ガコッと鈍い音がなったかと思うと蜘蛛の巣のような亀裂が走り、それぞれの破片がバラバラと崩れ落ちていった。その奥に目を丸くした男子生徒の顔が現れた。もっと悪人のような面相を思い浮かべていたのに拍子抜けするほど間の抜けた顔は土田にさらなる勇気を与えた。
「せ、先生。こ、こっちです」
咄嗟に嘘をついた。振り絞った声が予想以上に大きくて驚いた。だが土田以上に驚いたのは扉の向こうの男子生徒だった。部室には正面の扉とは別に窓があるらしくそこから次々と飛び出していくのが見えた。知らない顔ばかりだったが最後の1人が窓枠に足をかけて一瞬振り返ったその顔を、どこかで見たことがあるような気がした。
部屋の中が静かになったのを確認し恐る恐る扉に近づいた。割れた窓の隙間から床に白いもの伸びているのが見え、よく見るとそれは水谷の肌だとわかった。
レイプ。土田はその三文字を恥じらいと憎しみを込めて水谷の姉に伝えた。こんな下劣な言葉をまさか口にする日が来るなんて、想像もしていなかった。水谷の姉は一瞬驚いた素振りを見せたが長い瞬きをした後に「続けて」と言った。奥の歯に何かを噛み締めているような低い声だった。
水谷の目は赤く腫れ上がっていた。かける言葉が見当たらないまま自分の制服を彼女の白い体に被せた。
先生を呼んでくるね、と言うと水谷は消えそうな声で「誰にも言わないで」と頼み込んだ。それからさらに小さな声で「死にたい」と呟いた。
「そんなこと言わないでよ」と心の中でははっきりと言えるのに肝心の言葉が出てこなかった。ただなんとかしなければいけない気がして土田は水谷の左手を取った。女性の体をまともに触ったことなんてなかったが全てが無意識のうちで特別変な感情を抱くこともなく、ただ熱のない柔らかさが手のひらにあるばかりだった。
そうしているうちに段々と水谷の呼吸も落ち着きを取り戻していった。
「土田くん、ありがとう」右腕で顔を覆いながらぽつりと呟いた。土田も色々言葉を返そうと思ったが声にならず、結局一言だけ言うことにした。
「一緒に帰ろう」
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