過去へ馳せる想い

東雲紗凪

第1話 記憶

 何処からか哀しげな声が聞こえる。


『お前正気か……?どうしてそこまでするのだ、──!』


 荒れ狂う海に、容赦無く降りしきる雨。風に煽られた飛沫は海水か雨かわからない。ただ目の前の──顔に靄がかかって見えない男性が切羽詰まったようにの名を呼んでいる。

否。正確には音に掻き消されていて私の名か定かではないが、視線を向けて必死に手を伸ばしていることから、恐らく言っているのは私の名前なのだろう。耳に届く声に、切なくも甘い感情が胸の内に広がる。

絶望に満ちた男性の声。それを見ながら焦がれるような想いを秘めてはつげる。

 

 ──どうかお元気で


 声と共に一際大きな水飛沫が跳ね上がった。深く静かな──心地よい深淵へとゆっくり堕ちる感覚。あぶくの音が耳元で揺れる。目に映る蒼は空か海か。視界が暗くなる。闇が徐々に広がっていく最中、繊細な鈴の音が脳に──


********

 

「っ……!」

 意識が引き戻される感覚に目を開けると、静けさの中で鮮やかな彼岸花が泉の周りに咲き乱れていた。指先が僅かに熱を帯びていて、自分の手には巫女鈴がある。


「ここは……いつもの場所?」 


 濃霧のなかで、水中花のように揺れ動く紅い彼岸花は変わらず哀愁が漂っている。ここは木々に囲まれた彼岸へと繋がる神社で、認められた神しかいる事ができない場所だ。

私は未練を残したまま彷徨い続ける死者を導く送り巫女として、ここを任されている。と言うのも遥か昔、私はこの神社にのだ。古に己の命を代償にある者を救い、その業績が認められてこの泉界神社せんかいじんじゃに来たのだと、私の守護者である歩澄ほずみにきいた。

 歩澄が言うに、どうやら私はらしい。正確には神に''成った''というが、自分がなんの神なのかはまだわかっていない。


 この神社には、正確な時間は存在しない。ただ流れゆく刻に身を任せて人の未練と言う名の呪縛を解き、彼岸へと送る。そんな単調な日々が此処では繰り返されている。

 泉界神社の『泉』はここに在る泉を指しており、その水面は『鏡』の役割を持っていて、これからこの神社に来る者を映し出す。本殿から離れたこの泉は常に霧が充満していて景色が変わることはない。


「今日は……まだ来る気配がない」


 ほとりに座り、揺れる気配のない水面を見つめると、拍子に腰まである黒髪がさらりと動く。漂う霧。それに霞んだ蒼い月灯りが水面みなもに注いでいる。水を見ると心が穏やかになるのと同時に、切なさが込み上げてくるのが不思議だ。焦がれているような、何かを懸念しているような感覚が蘇っては、輪郭が掴めぬまま消えていく。それは幻影のように。


私が本来の自分を知る為に過去を探ろうとすると、何故か守護者の歩澄に止められてしまう。

 歩澄の書庫に行き、追い返された事は数しれず。思えばこの神社に来て何十年……或いは何百年か経つが、歩澄自身を何一つ知らないままだ。

「私は……」


 何をしたいのだろう。この神社で死者の未練を解いても、暖かい話を聞いても何がが満たされない。僅かな寂寥せきりょうが拭いきれないのだ。そんな思いを抱きながら、試しに鈴を一振した。

 途端に細かく柔らかな光が集い、空を揺蕩う。鈴を持ち直したその時、背後から茂みを掻き分ける音が聞こえた。


「ここにいましたか。音羽様」


 私が振り返ると、神社へ来た頃から共にいる歩澄が立っていた。髪を横に結い、着流しの上に青い羽織を肩にかけている。彼は物腰柔らかで気品ある性格をしているものの、偶に現れる神社を脅かすものには容赦しない一面を持っている。私を神社に送り込んだ主と関わりが深いらしく、神社の事情も知っているようだが、未だに詳細は教えて貰っていない。


「今日は誰も来ないの?泉が揺れる気配がなくて」

「確かに気配はありませんね。ですが最近は立て続けに来ていたので、音羽様は休息をお取りください……貴女は相変わらずご無理をなさるようなので」

「そんな事は……私はただ救いたいから彼岸へ送る役割を果たしてるだけで。未練って本当に苦痛だと思うの。だから少しでも解き放ってあげたくて」


 未練の形は人それぞれ異なる。ある者は貧しく妻子を残したまま逝き、何も与えられなかったことを悔やみ、ある者は戦で散華し、妻を残すと言う未練を持っていた。私の仕事はその者達の最後の望みをできる範囲で叶え、未練を軽くする事。力と精神を使う至難技で、望みが大きい程負荷がかかるので、歩澄は私を懸念しているのだろう。


「心配しなくても大丈夫。確かに疲れるけど、やり甲斐のある仕事だから」

 顔を綻ばせると、歩澄は気まずそうに視線を逸らした。

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