先輩との出会い

 

 塚原沙優子先輩は僕こと上原忠雄の通っている大学では有名人だった。


 有名とは言うが決して良い意味ではない。 むしろ女性としては不名誉というかむしろ悪名を轟かすが近い表現で、僕が入学してから一ヶ月でその存在を知った。


「おい、あれだろ塚原先輩って…」


「うん?誰だよ?」


 地方から上京してきた組の僕は同じく田舎から状況してきた小久保安雄に、先日覚え始めた煙草によるヤニクラで頭をふらつかせながら問いかけた。


「塚原沙優子先輩だよ。文学部の…」


「うん?だから誰だよ、それ…」

 

 ほんの数ミリくらいしか含まれていないニコチンによって急激に脳内血流が下がる。 その不快なようで心地良い頭を揺らしながら再度問いかける。


「俺も先輩から聞いたんだけどよ、初狩りの才女って呼ばれてる人」


 安雄はテレビやネットの有名人を見たようなテンションでそんなことを言う。


「なんだよ、そのネットで晒されてそうな各ゲーの悪質プレイヤーみたいな渾名の人は…」


 僕は安雄の話に集中するフリをしてまだ二口くらいしか吸ってない煙草を灰皿に投げ捨てる。


 駄目だ、せっかく大学生になったのだからと始めてみたが、良さがわからない。 

 

 中学の時も高校の時も隠れて吸っているクラスメイトや不良の同級生達を横目で見ながら、わざわざ校則違反をする度胸も無かった僕にとって煙草はまだ理解できるような代物ではないようだ。


 やがてその良さがわかるものなんだろうか?


「いや、だからさ、俺もゼミの先輩から聞いただけなんだけど、あの塚原先輩って人はたまにフラッとゼミやサークルの飲み会にやってきては新入生を持ち帰っていくんだってさ」


「持ち帰るって…なにを?…ってまさか…」


「ああ、お前が考えてる通りだよ、いいよな~、あの人美人だしな。はじめてはやっぱり美人がいいもんな」


 安雄はうっとりと先輩を見つめている。 


 その姿は中学生の時に女子達がアーティストやネットの歌い手達のことを語っている姿に似ていた。


 憧れと、そして少しの欲望が見え隠れするそれに僕は悪酔いして頭を振る。


「どうした?またヤニクラか?」


「いや、少し体調が悪いだけだよ」


 僕は嘘をついて煙草の箱を安雄に向ける。


 「やれやれ、まだガキだな」と笑いながら箱から煙草を一本取り出して火をつけ、そしてゆっくりと煙を吐き出す。


 中々に様になってるのが少し悔しい。 


 安雄は僕と一緒で大学に入るまでは煙草なんて一本ですら吸ったことなかったそうだ。


 それなのにもう既に一端の所作を身に着けている。


「まあ煙草なんて覚えなくてもいいかもな、金は掛かるし、ヤニ臭くなるし、あとは引っ越す時に敷金が返ってこないみたいだしさ~」


 煙草吸いの典型的な慰めの言葉をする安雄の瞳は優しい。 なんだかんだ言ってもこういうときにこちらのことを気にかけてくれる優しさが安雄にはあった。


 だからこそ友達付き合いをしているのだ。 僕にしては珍しく。


 僕は友達が少ない。 


 中学の時も高校の時も頻繁に遊ぶクラスメイトはいなかった。 ただまったく話さないわけではなくて、たまに集団でファーストフード店やゲームセンターに行くくらいの仲間はいた。


 だがそれを友達と呼ぶのには抵抗があった。


 そんなたまたま近くにいたから付き合ってるみたいなのは何か違うような気もする。 


 たださすがに我ながら青臭いかもしれないという気恥ずかしさがあるので、それは誰にも言ったことはない。


 僕しか知らない秘密なのだ。


 はじめての講義のときにたまたま隣に座ったのが安雄だった。 


 講義に必要なテキストと互いのことをチラホラ話していくうちに気づけばよく一緒に居るようになった。 なんともありふれた出会いだ。


 それでも安雄は気安くて、受動的な僕に対してあけすけに付き合ってくれて、そのスッキリとした関係性が心地よい。

 

 煙草を僕に教えてくれたのも安雄だった。

  

 せっかく大学生になったんだから吸えるようになっとこうぜ。


 そういって差しだした煙草のニコチンはかなり強く、二人で喫煙所で吸ってはみたけれど喘息患者のように咳き込んでしまった。 


 互いに変な意地を張ったことで気持ちが悪くなって二人で昼休みまでグロッキーになったこともある。


 それでも挑戦していくうちに安雄は煙草を吸えるようになって、僕は相変わらずニコチンで頭をグラグラとふらつかせている。


 思えば安雄も上京したばかりで心細かったのだろう。 でなければ僕と安雄のような人種が仲良くなることはなかったんじゃないだろうか?


 『同じ上京組同士、大都会に負けんなー!』


 互いに初めて飲んで、したたかに酔った安雄は路上で僕の肩に自身の腕を絡ませてそう叫んでいたからきっとそうなのだろう。


「今日のゼミの飲み会、行くのか?」


 午前の講義が終わるとすぐに安雄が話しかけてきた。


「ああ、行くつもりだよ、安雄は?」


「俺は今日、バイトあるから行けないんだ。可愛い子居たら教えてくれよ」


 そう言って安雄は明るく笑って僕の手を握ってくる。


「ああ、それと今日こそはボッチ卒業しろよ、あっ、でも童貞は俺より先に捨てるなよ」


「そんなうまくいくかよ」


 苦笑で答えながら僕は安雄の手を握り返す。 


 そして安雄はそのまま駆け出すように教室を出ていった。


 僕はというとその背中を見送りながら、ため息を一つだけはく。


「ボッチか~、いい加減どうにかしないとな~」


 その声は決意じみた強い思いではなく、我ながらなんとも情けない弱音のトーンだった。 




 ゼミの飲み会は今日で三回目だ。 初めてのときは気後れして隅で黙々と飲んでいて、そのうちに飲みすぎてあっさりと酔いつぶれてしまった。


 二回目は二日酔いの辛さを一回目で知ったので抑え気味に飲んでいた。 同じゼミ生たちが話しかけてくるがそれにぎこちなく返していくだけで終わってしまった。 

 その点、安雄は器用に乗り越えたようで、すでに何人かの先輩達とも親しく飲み明かして談笑していた。


 安雄からは『自分から打ち解けないと、このままボッチになるから俺はお前を助けん』とありがたいのか冷たいのかわからないアドバイスを受け、今日こそは生まれつきの人見知りをどうにかしようと意気込んではみたが…。


 すでに入学して一ヶ月も立ち、飲み会も三回目となればすでにいくつかのグループにわかれていて、それぞれに談笑をしているようになる。


 すでに隣に座っていたゼミ生も仲間達の元で元気に騒いでいて、僕の左は壁で右隣にはとうに冷め切った座布団が置かれているだけだ。


 そこで積極的に話しかければ仲間になれるのかもしれないが、そんなことができるのならばこんなことになっているわけなどない。


 もちろん、僕だってこのままが良いとは思っていない。 一人でいるときの孤独よりも集団でいるときの孤独の方が数倍辛いのだ。


 それはまるで自分だけが隔離された異世界にいるような心細さにも似ている。


 もう帰りたい。 だがここで一人だけ返るわけにもいかず、もはや溶けた氷で薄まったカシスオレンジをチビリチビリと飲んでいる。

 

「ねえ、誰よ?呼んだの」


「わかんねえけど…いいじゃん!ノリだよノリ!」


 そんな会話が耳に入ってきた。 ボンヤリとした酔いで声のした方を見ると、ちょうど今日見かけた人が居た。


 眼鏡をかけ、ほっそりとした肢体にピタリとはまるようなパンツスタイル。 背中までの髪をなびかせた彼女は大人と少女の間のような人懐っこい笑顔で僕達の中に入ってくる。


「よお塚原~!お前も参加するのか?」

 

 やや軽薄そうな先輩がそう声をかけると、件の先輩は、


「ええ、私もここのゼミ生ですもの」


 ニコリと返した。 瞬間、室内の温度が下がったような気がした。


「ハア…また男漁りよ」


「…ビッチが」


 それらの言葉は主に女性のゼミ生たちから漏れていた。 一部では男の先輩達の中にも軽蔑したような視線で見ている。


 けれど先輩はそれが聞こえないかのように、見えないかのようにそ知らぬ顔で靴を脱いで座敷へと上がってくる。


「ここ空いてるみたいだけど、いいかしら?」


 そう言って返事をする間もなく先輩は僕の空いた場所へと座った。 


 僕はというと、ちょうど昼間に噂をしていた先輩と実際に彼女に浴びせられた悪意のようなものに驚いて何も言えないでいた。


「それ、美味しそうね…カシス系?」


「えっ?ええ…カシスオレンジです」


 答えると、先輩はそのままグラスを取って飲み干してしまった。 僕の飲みかけのカシスオレンジを。


「うわっ、水っぽいわね…氷がほとんど溶けてるじゃない、すいませ~ん!カシスオレンジ二つください」


 呆気に取られている僕を尻目に先輩は店員さんにカシスオレンジを二つ頼んでしまった。


「は~い!喜んで~!」


 店員さんの明るい返事がその場ではひどく場違いに思える。 やがて店員が持ってきたカシスオレンジを二つ受け取って一つを僕の前に、そしてもう一つはすぐに飲み干してしまう。


「おい、塚原~、今日はそいつがターゲットか?」


 先程の軽薄そうな先輩がそう声をかけてくる。 瞬間、大多数の好奇の視線と少数の反発の視線が僕達に集中する。


「そんなんじゃないわよ」


 大勢の目に晒されても先輩は笑みを崩さずに何のことも無いように返した。 


 覚えているのはそこまでだ。

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