005

「平和だ……」


 イリアルの書斎で茶菓子を頬張りながら、ノーンはそうつぶやいた。というのも、ここ数日イリアルは多忙で殺しを全くしていない。

悪魔がそんなことで平和だなんてほざくのはどうかと思われるが、面倒なイリアルに振り回されるかよりは楽であった。


 とはいえ多忙を極めてから、明日で五日目である。流石の少食のノーンもそろそろ腹が減るというもの。今夜にでも誰かの魂を喰らわねばやっていけない。

イリアルにとってもノーンが飢えれば、デメリットであることをよく理解している。今朝、ノーンが朝食の際に話したのだが、果たしてイリアルは覚えているのか。

 最悪イリアルに頼んで大人を殺してもらわずとも、女子供老人くらいであれば、今のノーンでならたやすく殺せるだろう。小腹を満たす程度になるが、しばらく凌ぐにはそれしかない。

ノーンにはこの多忙がどれほど続くかわからなかった。だから最終手段として、そうして生き延びるしかない。


 バン! と荒々しい音を立てて、部屋の扉が開いた。雪崩込むように入ってきたのはイリアルであった。そのまま礼のごとく来客用の二人がけソファへ倒れ込んだ。


「今日はもう終わりか?」

「……うるさい……」


 触らぬ神に祟りなし。ものすごく疲れているようで、これ以上踏み込もうものならノーンただではすまないだろう。まぁ悪魔が人間に負けることはないのだが、色々と恐ろしいのでイリアルには逆らうべきではないのだ。

今晩はコースだな、とノーンはたかをくくった。


「ノーン、美女になってよ」

「…………」

「膝枕して」

「それ以上何もせぬか?」

「しないしない」


 イリアルでもこれだけグロッキーであればもないものだ。ノーンは仕方なく美女へと姿を変えて、イリアルの寝転がるソファへ腰掛けた。

多少は惹かれ合っているリリエッタという女がいるのだから、恋人同士ではないとはいえ、その娘に頼めばよいものを……とノーンは思った。

 イリアルはノーンの太ももに頭を預けると、深呼吸をする。ももを撫でながら瞳を閉じた。さながらおっさんである。

ノーンは手を置かれることすら不快だった。それ以上に及ぶなら攻撃しよう、そう思った。まだ許しているのは、彼女がノーンに新鮮な死体を与えてくれる、いわば腕利きの料理人だからである。


「ノーン、悪いが――」

「構わぬ。貴様に体調を崩されでもしたら、その方がよっぽど響くというもの。今晩は我自身でなんとかする」


 そう言ってノーンはイリアルの雑に束ねられた髪を撫でた。ボサボサになっているが指通りはいい。多分リリエッタが定期的に手入れをしてやっているのだろう。

それでなければあのイリアルの髪の毛が、これほどキレイなはずがない。切ってしまえばいいのに、とノーンは思った。それはそれでまた女性ファンを獲得しそうではあるが。


 それはさておき、現在のこの多忙は例の卒業生のせいであった。彼らが冒険者へとなったことにより、応募者が殺到。有名な学園だけあって、真似をしたがる輩が多いようだ。

登録者が増えるのはいいことだが、まともに戦いも出来ない人間がクエストを受ければどうなるかなど目に見えていた。

 今まで他人にやってもらっていた汚れ仕事の面倒さ、危険さを垣間見た馬鹿達は、こんな仕事が出来るわけがないとキャンセル続出。依頼主からは完遂されずに放置されたなどとクレームの嵐。

信用も落ちるわ忙しわで目が回る毎日だ。


「あやつらを殺すのか?」


 ヒョイ、とイリアルの眼鏡を取る。そこには整った顔があった。女性らしさこそ多少は残っているものの、女性に人気なだけあり男顔負けの綺麗さだった。

 実際このメガネは伊達メガネである。昔はしっかりと視力も悪かったのだが、ノーンと契約してから身体の全ての不調や病が癒えた。というか、ノーンが治した。

今もこうしてしているのは、イリアルの美貌に気付いた女性陣が殺到するからである。それでいてイリアル自身も、女好きなのだから手が付けられない。


「あの坊っちゃん達かぁ? 私じゃ勝てんだろ」


 気付けば足を触っていた指は、ノーンの綺麗で長い金髪に触れている。ノーンは十人いたら全員が振り向くような美女に化けている為、隅々まで美しい。髪の一本一本が細やかで輝いている。

指通りも申し分なく誰もが嫉妬する髪質だ。

くるくると毛先で楽しむイリアル。この程度で済んでいるのだからまだマシだろう。イリアルが本気を出したら今頃ベッドインだ。


「どうだか……」


 ノーンが嘆息すると、部屋の扉がノックされる。ノーンが透視で確認すれば、そこにいるのはナナであった。不安そうな面持ちから、仕事の確認に来たのだろう。

おおかた表の人間には忙しいから後にしてくれ、なんて突っぱねられたのだろう。貧民生まれにしては要領のいいリリエッタは今日のシフトに入っていない。

彼女の面倒を見てくれる人はいなかった。


 イリアルといえば、ノック音が確実に耳に届いていたはずなのに完全に無視を決め込んでいた。お節介悪魔のノーンがいたいけな少女を無視出来るわけもなく。


「入っていいよ」


 イリアルの声を真似て喋れば、扉の向こうの少女は笑顔でドアを開けた。イリアルはもちろん不機嫌になる。

誤魔化すようにイリアルの頭を撫でてやると、疲れているせいで妙に素直に喜んでいた。


「あ、ご、ごめんなさい……」


 一見いちゃついているように見える二人を見て、ナナは出て行こうとした。こちらが良いと招いたのだから出ていかないでほしい。せっかく声まで真似たのだから、と。


「用事あるんでしょ、何?」


 重い体を起こしてイリアルは聞いた。ちゃんと仕事はするらしい。

ノーンは足の重みが消えたため、立ち上がって例のごとくティーセットをいじりだした。


「その……、契約違反で退会させた方が、クレームを入れてきまして……」

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