【桃田 直美/『恋』・1】

 最終下校のチャイム。

 ハッとする。ペンキのシンナーのにおいで、頭がぼうっとしていた。

 なぜだろう。

 昨日までより、看板を進める手は動いていた。

 ……いや、理由は明らかだ。

 荊ちゃん。

 彼女の存在が、頭の大半を占めていた。

 看板の作業をしていると、以前は反射的に秋元メルのことばかりが浮かんでいた。

『なぜあたしばかりこんな目に』という恨みと『どうして、言いなりになってしまうのだろう』という自己嫌悪が渦巻いていた。

 でも今は割り切って、いい看板を作ってやろうという気持ちでいる。

 秋元メルから、きっとまた妨害やいじめがあるに違いない。

 でも、それに負けたくない。

 荊ちゃんは生まれて初めて、あたしを気にかけてくれた人。

 行動で、あたしを救おうとしてくれた人。

 親ですら世間体が怖くて、あたしを投げ出したというのに。

 この世界に味方がいることさえ、今まで知らなかった。

 かつてない勇気が漲っていた。

 ザッ、ザッと砂を踏む音が外から聞こえる。

 荊ちゃんだ。

 こんな時間まで何をしていたんだろう。

 服の背には土汚れがあり、枯れ葉のかけらがくっついていた。

 教室を出て行った荊ちゃんを、チャッスは追いかけていった。

 まさか、あの二人で闘った?

 どっちが……。

 愚問だ。

「荊ちゃん!」

 名前を呼ぶが、気づいた様子もなく寮の方へと向かっていく。

 あたしは教室を飛び出し、窓を乗り越え、もう一度声をかける。

「ねぇ、勝ったんだよね?」

 荊ちゃんはあたしに気づいたのか、立ち止まり、俯いたまま呟く。

「……黙れ」

 荊ちゃんはあたしの方を見ず、いってしまった。

 追いかけたい一心だったが、あたしはこの看板に向き合わないことには、荊ちゃんと話をする権利すらない気がした。

 ――自分に向き合おうともせんやつとは、口も利きたないわ。

 華奢な背中で、そう言ってる気がする。

 見ててね、荊ちゃん。

 あたしはひと息つき、最後の仕上げに取りかかった。

「ニヤついてんじゃねーよ、ブタ」

 尖った声がする。顔を上げると、秋元メルといつもの二人がいた。

「聞こえないの、ブタ」

 秋元メルは、かつてないくらい苛立った様子だった。いつもは、あたしを猫なで声で地獄に突き落とすのに、今日は悪意を包み隠そうともしない。

 あたしは顔を上げず、刷毛を振るった。

「ちょ、メルが話しかけてんだから無視してんじゃねーよ」

 秋元の友人が言う。腕を強引に掴まれ、立たされる。

 秋元メルと目が合う。

 怖い。

 ……怖い、けど。

「なに、その顔。睨んでるつもり?」

 あたしは、愛想笑いだけはしなかった。

 顔をしかめ、反射的に頬が上がりそうになるのを押さえ込んだ。

 荊ちゃん。

「おっとぉー」

 秋元メルがペンキを蹴飛ばし、看板にかかる。

 もはや見慣れた光景だ。

 ただ、いつもと少し違う。

 秋元メルはいつものおどけた調子を取り戻そうとしていたけど、目の奥は笑っていない。

「……ごっめーん、また描き直してくれる? うんうん、何度も書いた経験を生かして、今度はもっといいのができる気がするー」

 秋元メルは、あたしの背中を強く平手で叩いた。

「……」

 されるがままでいいのか?

 ここで拳を振り上げないと、一生後悔するんじゃないか?

 息が荒くなる。

 やれ。

 やるんだ。

「……え、何か産まれちゃうのぉ、ブタちゃーん?」

 ふざけんな。

 ふざけんなよ、あたしだってやるときはやる!

 ……ね、荊ちゃん。

「あぁぁ!」

 頭が真っ白になる。

 教室に溶け込んでしまいそうだ。

「なに、やんのブタ?」

 あたしの拳が秋元メルに届く前に、彼女の友人に強く突き飛ばされる。

「離して!」

 突き飛ばす。誰が誰かもわからない。

「……暴力はよくないよ、ビチョビチョダルマブタちゃん?」

 秋元メルは笑った。

 まるであたしのことが好きなような顔で。

 ――!

 頭に重い衝撃。

 あたしはよろめく。

 教科書の入った鞄で、後頭部を殴られたのだと気づく。

 床に倒れ込む。

 誰かが、あたしの頭を蹴り飛ばす。動けない。

 悔しい。

 悔しいよ。

 耳がキンと鳴り、音が遠く、涙で視界もぼやけていた。

 その潤んだ世界でも、秋元メルの笑顔だけははっきりと捉えられた。

 痛みさえも遠い。

 荊ちゃん。

 あたしは嵐が過ぎ去るのを、体を丸めて待つだけしかできなかった。

 ……やっぱりあたしじゃあ、何もできないのかな?

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