【桃田 直美/『震え』】


 顔を何度こすっても、ペンキ跡は少し残ってしまっていた。鼻の奥に、重い油とシンナーの臭いが居座っている。

 息を殺し、夕食を摂り、自室で時間を待つ。

 夜八時に、約束をしている。寮を出てすぐのところにある、植物園だ。

 問題は、同室の本橋さんの目をどうかいくぐるかだ。

 あたしが部屋を出ようとしたら、彼女はどう思うだろう。

 秋元メルに呼び出されたと思うはずだ。

 止めるだろうか?

 あたしのことなんか気にかけるだろうか?

 いや。この学校で過ごした二年間を鑑みると、誰かが手を差し伸べてくれることなどあり得ない。

 でも……今日の教室での様子を見ると、一概にそうとも言えなかった。

 あたしが秋元メルに仕打ちを受けていたとき、本橋さんが立ち上がるのを見た。怒りに震えているようにも見えた。

 ううん。

 そんな正義感、すぐになくなる。

 秋元メルは、おそらく本橋さんが立ち上がったことに気づいただろう。

 逆らえば、本橋さんだっていじめの対象になる。いくら彼女が毅然とした態度でいようが、揺らがない人間だろうが、秋元メルの前では無力だ。

「……」

 時間になった。

 あたしは静かに立ち上がる。二段ベッドの上から物音がする。本橋さんがあたしの気配に気づいたようだ。

 あたしは慌てて部屋を出ようとする。

「あんた、秋元に呼び出されてるんか?」

 本橋さんの声は静かだった。

 体のこわばりを感じる。

 わかってるよ。

 あたしは喜んでいる。気にかけてもらっていると、体が勝手に勘違いしてしまう。

 駄目だ。何度、偽物の同情に騙されてきたか。気を強く持つんだ。

 薄っぺらな同情はいらない。

「……ほっといて」

 本橋さんを振り切って部屋を出ようとする。が、彼女はあたしの腕をつかんだ。

 握る手は力強い。細い腕に、よくそんな力があるものだ。

「待て……。って」

 言い淀む。

 あたしの腕の痣に気づいたのだろう。

「秋元らにやられたんやな?」

「……違う」

「違わんやろ、ほかにない」

「ほっといてってば。本橋さんも、危ないんだよ。目、つけられてる」

「せやからなんや。あんな女が怖くて生きてけるか」

 何も知らないんだ。

 あたしたちはここにいる限り、ここが世界のすべて。

 この世界を統べるのは、秋元メル。

 大げさじゃない。

 彼女に逆らうことは、世界の法を犯すことと何ら変わりない。

 すべてを知ってからじゃ遅いんだよ、本橋さん。

 きっとすぐ、正義感も萎れて秋元メルに踏みにじられる。

「離して!」

 あたしは強引に本橋さんの腕を払い、部屋を飛び出す。

 寮長の巡回パターン、時間は既に頭に入っている。見つからないコースを選び、あたしは駆ける。

 後ろから、本橋さんが追ってくる音が聞こえた。おそらく、寮長に見つかってすぐに部屋に戻されるだろうが。

 階段を降りる。

 息が切れる。

 頭が真っ白だ。

 これからのことを思うと、ゾクゾクと震えた。

 あたしは走った勢いのまま寮の建物を出て、今度は枯れ葉一つ踏まぬよう、足音を潜めて歩いた。

 街灯に照らされ、ぼんやりと光るビニールハウス。

 元々は豊かな木々に満ちていた植物園だったらしいが、新しく増築した温室の施設に移行したらしく、手がつけられていない。

 白の、風化したビニール。

 植物園がきちんと管理されていたのは、あたしたちが入学する遥か前の話のようだ。

 薄く濁っていて、中は窺えない。

 息をつき、あたしは中に入る。

 むっとした植物の青い臭いがする。

 ――秋元メルに、呼び出されているんやろ?

 ごめん、本橋さん。

 追いかけてくれたのは、少し嬉しかった。

 けど。

 あたしには、関わらない方がいい。

「桃田さん。遅かったわね」

 そこにいたのは、秋元メルなんかじゃない。

 

 クラスとはまるで違う、妖しい憂いを湛え、うずくような快楽を噛みしめる表情だった。

 隣には、山田天使・畑百合、それにチャッスもいる。

 クラスでは交わることはないけれど、いつもの顔ぶれだ。

「それじゃあ、始めましょうか?」

 好戦的な態度を隠しもせず、委員長は私に笑いかけた。

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