梅と雨
朝凪千代
空
十八時五十六分。
僕は会社の自動ドアから一歩外へ踏み出し、伸びをした。
沈みかけた紅い太陽が僕を照らす。
仕事帰りは清々しい。今日の様に大切かつ大きな仕事を終えた日は特に。
鳥、蜘蛛の巣、道端の石ころ。何でもない物も、全身からエネルギーを発し、輝いている。
ポケットからスマホを取り出し歩き始める。ダメなことなんだろうけど、やめられないんだよな、コレが。
メールを開くと今日も良弥から「飲みに行こうぜ」と絵文字付きで誘いが来ていた。
「オッケー じゃ、いつもの店で」と返信し、スマホをポケットにしまう。
※
居酒屋浦島に入ると、もう良弥はカウンター席に座り、右手にはビールジョッキを持っていた。
「よ」
良弥が僕に気づく。
「早いね」
僕も隣の席に着き、生ビールと唐揚げを頼む。今日も店は満席で熱気がこもり、アルバイトの子が行ったり来たりしている。
「なんか、働き方改革的なやつで、『さっさと帰れー』みたいな風潮なんだよ。それもそれでどうなん? って感じだけど。それよりさぁ、課長が今日もキレて。俺にではないんだけど。隣の席の、俺と一緒に入社した子で、めっちゃ可愛い子なんだけど、ちょっと不器用なところがあってさぁ───」
ビールと唐揚げが運ばれてきた。良弥が少し顔を赤くしているのは酔っているからだろうか。
「へぇ。気があるの?良弥は」
「はぁ?そんなわけないじゃん」
良弥はケタケタと笑いながらも満更でもないようだった。僕は湯気が出ている唐揚げをつつきながら、「ふーん」と相槌をうつ。
「そっちはどう?」
良弥が顔を上げる。やっと聞いてくれた。
「今日はお昼食べるの忘れるぐらい忙しかったけど、よかった」
「というと?」
「下の世界では『ツユ』らしくて、いつもより多く『アメ』をふらした。湿度もあげた。この前は失敗して倒れる『ニンゲン』が続出したんだけど今日は成功」
「へー。『ツユ』ねぇ。どんなんだろ。漢字で書くと梅に雨って書くんだろ?」
相変わらず良弥は歩くウキペディアだ。
「コロコロしてそう」
僕が感想を言う。いつものパターンだ。
良弥がケラケラと笑う。僕もつられて笑う。これもいつものパターン。
鯖の塩焼きを注文する。
「梅といえば、良弥は? 食べ物系はそっちの仕事でしょ?」
「大変なんだよ。下の世界にウイルスがばら撒かれただろ?どっかの研究グループのミスで」
「あぁ、あったね。そのおかげでいつもと『ニンゲン』の行動が違うんでしょ?」
天気を操る身としてはあまり関係ない事で、ニュースで言っていても聞き流していた。
「そうそう。それで麺類とかホットケーキミックスとか小麦粉系がよく売れてんだよ。周期でこの二〜三年は小麦を不作にする予定だったらしくて今、急いで修正しているところ」
鯖の塩焼きが運ばれてきた。良弥は一気にビールを流し込み、「ビールおかわりで」と声をかける。店内はまだぎゅうぎゅうで、むわりとした空気が漂っている。
※
二十時五十二分。
「ありがとーございましたぁ」
店から出ると酔ったおじさんたちが意味不明な言葉を発しながら、千鳥足で歩いてぃた。
僕たちは駅に向かって歩き始める。なぜかいつも飲んだ後は無口になる。
空には宝石をばら撒いた様に天の川がかかっていた。
「たまに思うんだけど、」
良弥が沈黙を破った。
「うん」
「俺らは、『ニンゲン』に迷惑かけてるんじゃないかって。俺らが何もしなければ、飢饉も洪水も今回だったらウイルスだって流行らなっかた訳で。この前、下の世界を雲の隙間から見たんだけど、みんな口を何かで覆ってた。後で調べたら、『マスク』って言うんだって。ウイルスが流行らないようにしてるらしい。少し怖っかた。新人だし、よくわからないんだけど、たまに思う」
繁華街をぬけ、あたりが急に静かになった。良弥がセンチメンタルになるとは珍しい。
「確かにね。それは思う。僕は、明日から『タイフウ』を起こすための会議がはじまるんだけど、その台風は結構強くするらしくて……。その、ね、被害もそれなりになるだろうって」
僕は苦笑いをする。
「でも、『ニンゲン』はそのぶんの罪を犯してるでしょう? それに、喜ばれることもあるよ。『久しぶりに晴れた』とか、『雨が降った』とか。そんなに悪い仕事ではないと思う」
良弥がふっと笑う。
「そうだな。気が楽になったわ。サンキュ。さて、明日の仕事も頑張りますか」
良弥が伸びをして、夜空を見上げる。
「そうだね」
僕もつられて見上げると、輝く星たちが僕らをつつんでいた。
月はまだ、でていない。
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