第7話 見事にフラられました ACT 7
一応念入りに……体を洗い、熱いお湯を全身に浴びる。
夏なのに、熱いお湯は体が温まるような感じがする。気持ち的にほっとする。
「ぷはぁ―」今日僕は振られた。
叶う訳がないと思っていた恋はその通り叶うことなく、しかもあっけなく何もなかったように終わった。
「私、好きな人がいます」
彼女はそういっていた。もう売約済。付き合っている人がいたなんて聞いていなかった。
もしかして、今まで彼女はそう言ってずっと言い寄る男どもを振ってきたのか。
そうなれば三浦恵美はもうすでに男がいるという、噂が立ってもいいはずなんだが……。
そんな話なんか巷では聞くことはなかった。
中には、あの美貌を鼻にかけて、言い寄る男どもを振るのが趣味の悪徳令嬢気取りなんだと言うやつもいないわけじゃない。
彼女に関する噂はいろんなところから聞こえてくるが、付き合っている人がいるなんて一つも聞こえてこなかった。と……いうことは、あの言葉は断るための嘘。なのか?
確かに「好きな人がいます」て言われちゃうともう、次に出てくる言葉がない。
僕はどっかの誰かみたいなリア充じゃないし。
「そんな今付き合っている奴より俺の方が何倍も楽しいぜ」なんて臭いことも言えない。
最もそんな馬鹿じみたことなんか言う気もねぇんだけど。
シャワーのコックを閉め「はぁ―」とため息をつく。
ガシガシとタオルで髪から滴る水滴をふき取り、部屋着に着替えて、律ねぇの待つリビングへと向かった。
「ごめん遅くなった」とリビングで多分退屈そうにしているはずの律ねぇに向かって声を出した。だが、リビングには誰もいなかった。
ダイニングテーブルに一枚のメモだけが置かれていた。
「ごめん、結城。事務所から呼び出されちゃった。帰るね。結城の料理はまた今度、ごちそうになるから」
メモの下の方に。
「今日は出来なくてごめんね」と書かれていた。
一人、この家の中に取り残された。
「律ねぇにも振られたか」
何か全てを諦めたかのように出てくる思想感。
もういいか。そのまま部屋に行きベッドにもぐりこんだ。
あれ変だな……。
なんで涙が出てくるんだろう。
なんでだ。……変だ。
◇
カランカラン、分厚いウッドドアに付けられたカウベルが高らかになる。
「よっ政樹」
「おお、太芽。いつ日本に帰ってきたんだ」
「つい今しがただよ。まっすぐここによらせてもらったんだ」
「こんばんは正樹さん」
「恵梨香さん。ようこそ、来ていただいて光栄です」
「なぁにぃ、いつもはそんなこと言わないのに、この人がいるからって、そんなにかしこまらなくたっていいのよ」
「別に太芽が居ようが居まいが、此奴はついでだからな。本命は、俺の師匠の恵梨香さんなんだから」
「あら、あなたの師匠はイレールじゃなくて」
恵梨香はにっこりと笑った。相変わらずこの笑顔を見ると俺の心は少し痛む気がする。
「親父(イレール)は俺の人生の師匠だ。実の親以上に、俺の本当の意味での親父だからな。でも恵梨香さんはうちの『カヌレ』の師匠だ」
「もう、いい加減その師匠ていうの辞めにしませんか。あなたはあんなにも素敵な作品を世に生み出させているんですもの」
「いいやいいんです。僕にとってあなたは永遠の師匠ですから」
「おいおい、正樹。今更、恵梨香を口説いてどうすんだよ」
「うっせいぞ! 太芽。でもまぁ、元気そうで何よりだ」
いつもながら俺は思う。此奴、太芽のこの元気そうな顔を見ると本当にほっとする。昔の面影そのままだ。
日本に帰ってからはそんなに離れたところにいるわけでもないが、会う機会はフランスにいた時よりもはるかに少ない。
近くにいて最も遠くにいる俺の親友だ。
その時だ、奥にいたミリッツアが太芽の姿を見つけて駆け寄ってきた。
「太芽、いつ日本に帰ってきたの」
言葉が先か、それともミリッツアが太芽に抱きつくのが先かわからないが、俺の妻は今でも太芽にぞっこんのようだ。
もう、そんなことは今更なんだが、少し妬ける。
ま、恵梨香さんがいてもお構いなし。でも彼女はもう彼奴のことは俺と同じ親友という意味での付き合いだと割り切っているのがわかっているから。いいんだ。
「ミリッツア、苦しいよ。そんなに強く抱きしめられたら、俺倒れちまうよ」
「あら、そぉ? いつもと同じだと思うんだけど、ねぇ、太芽。少しやせた?」
「いやいたって健康そのもの。商売もこの上なく順調。こうしてみんなが元気でいる姿を見られて僕はとても幸せだよ」
「そっかぁ。それはよかったね。あ、そうだ届いたわよ。あなたからの贈り物」
「喜んでもらえたかな?」
「うん、ありがとう……わざわざ私の実家まで行ってくれて」
「大したことないよ。ちょうど途中だったからね」
「すまんな、太芽。もう何年もミリッツアを実家に行かせていないからな。本当に喜んでいたよ」
「ならいいんだ。ところで恵美ちゃんは?」
「ああ、恵美なら今日は帰ってくるなり部屋に閉じこもっているみたいだ」
「そうか、まだ、時間はかかりそうだね」
「……ああそうだな」
「それはそうと定例の試食。恵梨香さんお願い出来ますか」
「ええ、もちろん」
いつもながら、彼女に『カヌレ』を試食してもらう時が一番緊張する。
白いプレートに乗せて、二人の前にカヌレを静かに置いた。
「どうぞ……」
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