第85話 雨の日の頭痛

 雨の日は頭が痛い。

 母親譲りのせいか気圧が低いとこめかみの辺りがつきつきと痛むからだ。


 雨の日が頭が痛い。

 まだ夏休みの初めだってのに、むりやり宿題をやる羽目になるからだ。


「ほらほら、ぼんやりしない」


 頭上からの声に僕はたまらず口を尖らせる。


「……ちょっと休憩」

「まだ十分しかたってないよ。ほら、頑張ろう」


 が手元を覗きこみながらにこやかに言う。


「雨降ってるから遊びにも行けないんだし、せっかくだから宿題進めちゃおうよ」

「先生がいるときはいっつも雨じゃん」

「あら、そうだっけ? あたし雨女だからなぁ」


 たはは、と先生が鼻先をかく。


「コホン。それはともかく。今のうちに宿題をすませちゃったら、残りの夏休みはなんでもやり放題だよ? 夜更かししても、お昼寝たくさんしても、全然平気。お友達や彼女さんと毎日遊びまわっても問題なし。だって宿題終ってるから! お母さんが言うでしょ『ちょっとー宿題はー?』終わってます! バッサリ一刀両断、これ以上文句を言われない! あっは~。でもでも、こういうのって最初に一気にやっちゃうタイプと計画的にコツコツやるタイプがあるよね。私はだんぜん一気派かな。キミはどっち?」


 面倒なことは後回し派……とはさすがに言えない。


「別に彼女なんていないし」


 あ、しまった。

 言ってから失言に気づくが後の祭り。


「んん~、ほんとにぃ?」


 後頭部にとてもニマニマとした視線を感じる。

 やっべぇ、面倒くさい方の地雷踏んだ。


「そんなこと言って、つきあってる子はいなくても気になってる子くらいはいるんじゃないの~?」


 少しだけ首を曲げて振り返ると案の定、興味津々の様子の先生。

 どうして女子ってこういう話が好きなんだろうか。


「お、なになにその目は。あたしの方こそ彼氏いないのかって?」


 まったく違う。

 先生が首を傾げると全身が揺れ、その拍子にあわい石鹸の香りが鼻先をかすめてドキリとする。

 そんな僕の動揺には気づかないまま、先生は余裕の笑みを浮かべて高らかに答えた。


「いないね! 独身貴族サイコー! いやー、部屋に男なんてうかつに入れたくないよね。ていうか入れるなら丸一日くらい時間が欲しいかな。ハハッ!」


 スウェットに少々くたびれた感のあるジーンズ姿を見れば、さもありなんとは思う。


「まあ、ホントを言えば、もてたことないんだよ。ほら、見てのとおりファッションに疎いし、もいっぱいだから山奥から上京してきた田舎娘っぽいって言われるんだよねぇ」


 少し目を伏せて苦笑する先生を僕は見つめる。

 長い睫毛に整った目鼻立ち。それだけをとればむしろ先生は美人だ。(僕はそんなことは思っていないが)『田舎娘』と評されたのは多分、ほんのりと丸みを帯びた輪郭と両頬にかけて鼻を横断するそばかすのことなのだろう。けれど、むしろそれが整っているせいでキツくなりそうな印象をマイルドにしていて、逆に親しみやすなっている。と思う。


 言ってあげれば先生も喜ぶのかもしれないけれど、どうにも照れくさい。

 だから僕の口から出たのは、再度話題を変える一言だった。


「勉強って必要?」


 すると先生は間髪入れず「必要」と頷いた。


「大人になればいっぱいあるよ~、もっと勉強しとけばよかったって思うこと。しっかり身に着けておけば、あんなこともできた。こんなことにも挑戦できた。もっと楽な位置から再スタートできた。けれど今さら時間がなくて勉強なんてできない。だからこっちの進路みちは諦めるしかない、って後悔したりさぁ。あ~……でも困ったことに、学生やってるうちは先のことなんて言われてもピンとこないのよねぇ」


 それでも、と先生は勉強をする意味とか意義とか必要性をあげていく。

 これまたしまったと、僕は右から左に聞き流していたのだが…………。


「…………でも、望んだところに就職できたからって幸せとは限らないんだよね」


 先生の声音ががらりと変わった。

 その瞬間、僕は正真正銘の大失敗をやらかしたと気づいた。

 の地雷を踏んでしまった。


「憧れてたんだよ。教師やるの。

 あたしが教わった先生は優しくてキラキラしてて。とても毎日が充実してそうで。

 テレビのドキュメンタリーでベテランの教師が特集されてたときも『大変だけど生徒たちが卒業して活躍していくのを見送ると得も言われぬ充足感がある』って本当に幸せそうに笑ってて……。

 でも、そんなの全部ぜんぶ“そういう風に見せてくれてた”だけなんだ。

 ううん、嘘ついてたんじゃない。ただただ本当に大変な部分を見せてなかっただけ。

 そしてそれをあたしが理解してなかっただけ。

 本当に憧れだけでやるもんじゃないわ。

 やってらんないやってらんないやってらんない。

 同僚が嫌い。あいつらどうにか波風たたないように自分の所だけしか見てなくて、問題を解決しようとか状況を良くしようって気が全然ない。

 生徒の親が嫌い。自分たちのしつけを棚上げにして、責任を押しつけてブゥブゥと鳴くばっかり。

 生徒が嫌い。自分の主張ばっかりでこっちの言うことに耳をかそうともしない。勝手にカーストつくっていじめして、それをやってる自覚が全くない。

 知ってる? 先生はまず初めに自分が上だぞって示さなきゃいけないの。

 仲良くしてもいいけど、舐められたら終わりなの。学級崩壊待たなし。

『初日に生徒に対して序列を教え込めなかったんだからもう手遅れですね』

 これ、あたしが先輩の教師に言われた言葉。

 なんだよ、動物園かよ。きゃんきゃんきゃんきゃん、クソうるせぇ。

 言葉が通じなくって行動が単純な分、動物の方が百倍マシだわ。

 自分が嫌い。こんなことを言われても愛想笑いですましちゃう自分が嫌い。

 好き勝手やる生徒たちを前に何にもできないで泣くのを我慢するだけのあたしが嫌い。

 すみませんすみませんすみません、謝ってばっかりでもう頭が地面につきそう。

 その場限りの対応だけで建設的なことが全くできないあたしが嫌い。

 嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌いきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらいきらい死ね死ね死ね死ね死ねしねしねしねしねしねしね…………」


 恐る恐る視線をあげた先には、先生が天井からぶら下がっていた。

 首に巻きついた荒縄がギリギリと皮膚に食い込んでいる。

 それでも先生は呪詛の言葉を吐き続け、全身がみるみるうちに土気色へと変貌していく。

 スン、と息を吸うと喉の奥が詰まるようなすえた臭いにむせそうになった。

 先生の言葉は止まらない。

 苦悶の嗚咽とともに呪いを口から溢れさせる。

 細い身体がゆらゆらと揺れ、一つ振れるたびに粘土のように首が伸びていく。

 椅子の高さまで浮いていた足先はもうじき床につきそうだ。


 僕は奥歯を噛みしめ、しかし先生の変貌に全く気づいていないふりをして机に向かう。

 強くなっていく死臭に嫌悪感と吐き気がこみ上げてきて、それを必死に押しとどめる。

 恐ろしくて悲しくて、それでも冷静に、平常に見えるように宿題を進めていく。

 黙々と、粛々と、ペンを走らせる音は大きめに。


 すると呪詛の声がピタリと止み、死臭が少しずつ薄くなり始めた。

 じっと手元を見つめる視線を感じる。


 僕は少し肩の力を抜く。

 どうにか治まってくれたようだ。


 先生はすでに死んでいる。

 僕との面識はもとよりない。


 先生は僕たちが引っ越してくる前のこのマンションに住んでいて。

 そして雨の日に、僕の部屋となったこの場所で首を吊ったのだ。


 だからだろうか。

 先生は雨が降ると現れる。

 死んだときの記憶や感情はないらしい。

 それどころか自分がどんな状況にあるのかもわかっていない。

 どうも僕や僕の部屋を見て、学生時代の家庭教師のバイトの記憶と混同しているふしがある。


 先生は首を吊ったまま会話する。

 僕との視線の違いや、その場から動けない事に対して不便さも疑問も抱いていない。


 勉強やとりとめのない話をしている時はぶら下がっている以外は普通の人と変わらない。

 けれど『仕事』に話題が触れた瞬間、今のように豹変してしまう。


 そんな時、僕は勉強に集中しているをする。

 すると教師としての責任感なのか、邪魔をしてはいけないと思ってくれるようで、次第に落ち着いて元に戻るのだ。


「………………」

「………………」

「………………」

「………………」

「……………………ところで、本当に好きな子っていないの?」


 まあ、勉強の邪魔をしちゃいけないとは思っても黙っていてくれるわけではないのだけれど。

 僕はじっとりと先生へ視線を送る。


「や、や、違うの。邪魔をするつもりじゃないの。気晴らしっていうか、ちょっと雑音があるくらいが逆に集中できるじゃない? BGM代わりにでも聞き流してよ。でも無反応だと無視されてる感じがしてちょっとつらいかも」


 寂しがり屋かよ。

 そう突っ込もうとしたが、先生から漂ってきた石鹸の香りにどぎまぎして口を噤んでしまう。


「で? いま、キミには好きな人がいない。うん。じゃあ、それはそういうことにしておいて――」


 独り言や一人語りならともかく、こっちに話しかけてる時点でBGMにはできないのだが。

 僕は胸の中でため息を吐く。

 とうぜん先生は気づかない。


「なら好きな人ができたらどうしてあげたい?」

「……………………相談にのったり支えてあげた………………いやない。特にないし、いないし、ありません」

「なんで何回も言い直したん? しかも敬語で」


 状況をやり過ごせた安心感からか、つい本音が出かかってしまった。

 ねぇねぇなんでよ~、としつこくウザがらみをしてくる先生を流しつつ、僕は卓上の時計を指す。

 すると先生はきょとんとした表情でそれを一瞬だけ見つめると、すぐににっこりとした笑顔で、


「あら、もう時間。それじゃあ、またね」


 空気に溶けるようにして消えていったのだった。


「はぁ――あ」


 僕は長いため息をついて机に突っ伏した。


「…………当たり前だけど、今のままじゃダメなんだよなぁ」


 この関係は先生が気づいていないから、僕が目をそらしているから成り立っている。

 いや、目を背けているのは先生もだ。

 もしも本当のことを教えたとしたら。

 もしも先生の呪詛ふまんを聞いてしっかり受け止めたとしたら。


 はたしてどうなるのだろう。


 どうにもならずにすべてを呪ったまま首を無惨に伸ばして床へ崩れ落ちるのだろうか。

 それとももっと違う形で、例えばあの縄がほどけて、きれいなまま床に足をつけることができるのだろうか。


 僕は霊媒師でも何でもない。どうなるかをいくら考えたところでそれはただの妄想だ。


 けれど、きっと成仏するのが先生にとっては一番いいことで…………。


「でもそうなるとなぁ……」


 僕は深々とため息をつく。

 腕の下敷きになっている宿題はもう三分の二が完了している。


「……………………宿題終わんねぇ……」


 大きく大きく心の底からぼやくようにして吐き出した言葉が虚しく響く。


――好きな人、いるの?


「………………………………ふん」


 ああ、雨の日は頭が痛い。

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