第30話 濡れた屋根
屋根が濡れている。
それに気づいたのは、私用のために仕事を午前中で切り上げて帰宅した時のことだった。
私が住んでいる二階建てのアパート。
その屋根に、つい今しがたまで雨でも降っていたかのような染みができている。
だが今日は朝から快晴で、今も雲一つない空模様。通り雨なども考えにくい。
また不思議なことに、濡れているのは一部分だけだった。道路から一階と二階、それぞれに五つずつ各部屋の扉が見えるが、二階右端の扉のちょうど真上だけが濡れていた。
さて、誰かが屋根に水でもまいたのだろうか。
しかし近づいてみれば地面にも壁にも滴はおろか湿った様子もない。
私は首をかしげつつも外階段から二階へ上がり、件の部屋の前を通り過ぎて、廊下つきあたりの自室へと入った。
次の日、家を出る際にひょいと屋根を見上げてみれば、やはり一部分だけ濡れている。
ただ、位置が変わっていた。
昨日は二〇一号室だったが、今朝はその隣、二〇二号室の扉の上だ。
気にはなったが、そのまま仕事へ向かう。
さらに次の日、染みは二〇三号室へ移動していた。
どうにも日ごとに順繰り場所が移っているらしい。
このアパートに越して一年になるが、これが最近になって起こっている現象なのか、前からあったことなのかどうにもわからない。
建物の構造的な問題なら不動産屋なり、アパートのオーナーなりに連絡すべきだろうが、その判断もつかなかった。
夜、深夜二時。
仕事後に友人たちと集まって飲んだのだが、週末だからと長居して終電をすっかり逃してしまった。
やむを得ず呼んだタクシーから降りてアパートの前へ立つ。
アルコールと眠気でぼんやりとした頭のまま、何とはなしに屋根を見る。
女がいた。
全身から水を滴らせ、長い黒髪の女が屋根にへばりついていた。
二〇四号室の上、今朝から一つとなりの位置に、四つん這いで屋根の縁から顔を出すようにして、じっと扉を見つめている。
酔いも眠気も消し飛んで、私はただただ立ち竦むしかなかった。
あの濡れ染みは、アイツが
二〇一号室から始まり、夜ごと二〇二、二〇三と移動していくアレの痕跡を、私は見ていたのだ。
すぐにでも部屋に逃げ込みたかったが、そのためにはあの女の目の前を通らなければならない。
近くの二四時間営業のファミレスででも夜を明かそうかとも考えたが、それでどうする?
明日になればあの女はきっと私の部屋の上に移動するだろう。それがどんな意味を持つのか、どんなことが起こるのかわからず、私は両肩を抱いた。
アレはただ見ているだけかもしれない。今までも気づかなかっただけであそこにいて、扉をただ眺めていただけなのかも。
どうにか気持ちを落ち着かせようと楽観的な考え方をしてみるが、あの女が屋根の縁から顔をだして自分を覗き見ている様子を想像して、全身が総毛だつ。
ああ、そういえば、ここ一年のうちに私と二〇四号室以外の住人が入れ替わっていたっけな。
普段ならただの偶然だと気にもならないはずのことを思い出し、心の奥が凍えそうなほど冷えていく。
女は動かない。
濡れた衣服が屋根にぺたりと貼りついて、じわじわと染みを広げている。
階段に人影が現れた。
遠目からだが、なんとなく見覚えがある。
おそらくは二〇四号室に住んでいる男性だ。
彼は二階へ上がると、女に気づく様子もなく廊下を進み、自室である二〇四号室の前に立った。
ポケットから鍵を取り出し、差す。
女はその様子をじっと見ている。
私も瞬きを惜しんで見守る。
アレがどう動くのか。何もせず見送るだけで消えてしまうのか、それとも――
扉が開く。
男性が中へ入る。
その背中が、ゆっくりと閉まる扉に隠されていく。
そして――
ずるり、と女が閉まりかけたドアの隙間から中へ、蛇のように体を滑り込ませていった。
ガチリ、と鍵の閉まる音が妙にはっきりと響いた。
私はしばらく茫然と佇んでいたが、我に返ると全速力で自分の部屋へ逃げ込んだ。
頭から布団をかぶり、すぐに眠気がくることを祈って目をつぶる。
隣の部屋に人がいるはずにもかかわらず、一切の音が聞こえない。
それがただただ恐ろしかった。
翌朝、屋根の染みは消えていた。
その日を境に、今までかすかに聞こえていた隣室からの生活音は、ピタリと止んだ。
さらに数日後、二〇四号室の扉が真新しい鍵穴に交換されていた。
引っ越すべきかどうすべきか、判断のつかないまま今日も私は屋根を見上げている。
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