第8話、憧れ

 間断なく震え続ける機械音に縛られて、作業員たちは言葉もなく動き続けている。

 青白い蛍光灯が高い天井にはりつき、無機質な光を一面に投げかける。

 太い配管が鈍い光を放って、ベルトコンベアーの間をぬうように所狭しと這う。

 何の表情も無い人々は皆、同じ服装同じ髪型そして同じ顔である。

 製品のように工場内を動くことも工場内から出ることもなく、ただ手足を動かし続ける。

 工場の隅にある大きな鉄製扉の傍らで「34」は働いていた。扉は固く閉ざされている。以前と寸分も変わらぬ調子で、おびただしい量の段ボールをコンテナ内に詰めていく。が、表面こそ何の変化もないものの、この五日間頭の中は嵐であった。 ――三十四、もう二度とここへは来ないで欲しいんだ――

 その言葉が幾度脳裏を駆けたことか。

 そしてそのたびに彼は思った。自分の名について。

 あの夜「34」はヒカルが工場から着て戻ってきた三十七番の服を着ていた。それにも関わらず「三十四」と呼ばれたとき自分は、反射的にヒカルの方へ顔を向けていた。だが三十四の布を下げていない限り、自分は三十四ではあり得ないのだ。三十七にでも四十二にでもなれる。もし実際に彼が四十二番の者と入れ替わったとしても、あやしむ者はいないだろう。事実、ヒカルは三十四にも三十七にもなってみせた。

(だが奴は『ヒカル』なんだ。おれにはなぜだかそう思える)

 「34」は胸の内でそう呟いて、際限なく積まれていく段ボールのひとつに手を掛けた。

(だがそれにしてもおかしなものだ)

 「名」を常に身につけている者の名が不確かなもので、反対にその名を持つ証拠など全く無い者の名が確固たるものなのだ。重要なのは「名」を身につけていることではなく、ひとりの人間として存在するために最も肝要な何かを持っているか否か。そしてヒカルは確実にそれを手にしていると「34」には思えた。それが具体的に何であるのか、彼には未だ答えられぬままであったが。

(ヒカルにはこのように自分の存在が揺らいで思えることなど無いのだろうか)

 この五日間「34」は、足元の地面が音もなく崩れ、誰にも気付かれぬうちにその暗く深い穴に吸い込まれていくような感覚に、幾度も襲われた。そしてまた、この幻想が現実になったとしても、その日も工場はいつもと変わりなく動き続けるだろうことが、彼には分かっていた。ベルトコンベアーは自分の消滅などとは関係なく廻り続けるだろう。自分は歯車の一部という小さなつまらぬものですらなく、世界は自分とは全く関係の無いところで廻っている。

 そんなことはずっと前から分かっているはずだった。当然の事実として自覚すら無いままに受容していたはずだった。そんなことを今更自分に気付かせ、そして苦しませる結果を生んだヒカルを「34」は少々憎らしく思った。だが自分のすぐ隣で動いている、一週間前の自分と同じ、何も映っていない虚ろな目をした少年を見ると、「34」は無知ということの恐ろしさをうっすらと背に感じ、自分を幸いと思うのだった。

 ヒカルには、このように自身の存在が希薄になり、ともすれば消失するように思われることなど無いに違いないと「34」は独断し、そしてその理由について考え始めた。それは先程考えていた、ヒカルはきっと持っているであろう、ひとりの人間として成立するために不可欠な何かに通ずるように思われた。支離滅裂に近い論理を組み立てながら「34」には、ふとひらめくものがあった。

(そうだ、おれだってあいつと同じ環境に育っていれば……)

 こんな狭い工場に押し込まれていなかったら。

 ベルトコンベアーに乗せられ運ばれてゆく部品だけでなく、人間までもが画一化されているような世界に、分別のつく前から詰め込まれていなかったら。

 生きていることがただ繰り返すだけの日々でなかったら。

 興奮した頭で彼は思った。

(今からでも遅くはないはずだ)

 研究室でのあの空虚な一日を、実験、人との会話と、様々な事柄における自分とヒカルとの力量差を思い知らさせられた日を、完全に忘れ去ることなど出来るわけはなかった。あの日の記憶は、大きな能力の差異という鋭い現実として、彼の心に克明に刻まれているはずだった。だが彼は無意識のうちに、その自覚を心の奥深くに沈め、封じ込めていた。油断すれば、視界の隅から「自分には無理だ」というその思いが、霞のようにふっとわき立つのであったが。

 「俺にはとても無理だ」という声をねじ伏せ、自分もヒカルのようになりえ、彼のような生活を楽しめるはずだという予測を信じ込もうとしたために、その予測は予測の域を越え、信念というよりは半ば彼にとっての事実となっていた。

 身体は機械的な作業に従事しながら「34」は思案し続けた。作業の方は全くと言っていい程、頭を必要としなかった。習慣のみであった。

(こんなことを続けていたら馬鹿になるばかりだ)

 そう思うと一刻も早く工場を抜け出したい衝動にかられた。

(こうやって思考することもなく、与えられた単調な仕事をただ繰り返すことが、おれたちのような自我の無い人間を造りあげるんだ……)

 朱を失った唇からもれるものは言葉でも歌でもなく溜め息ばかり。

 だが自分もここを抜け出して七日もすれば、他人の指図など受けずに動けるようになり、機知に富んだ会話も出来るようになると彼は信じていた。

 ヒカルに渡されたメモを片手に頭を垂れたり、他人に話し掛けられ息をつまらせたことなどは思い出したくなかった。自分の姿を覆い隠したくなるような、あの不快な気分を起こさせぬために。あの日研究室で演じたように、彼はまた自分をヒカルだと思い込むことにした。

 それはヒカルの生活に憧れるあまり生じた哀しい矛盾――自己否定であったかもしれない。だが彼はそのことに気付かぬふりをした。そしてヒカルならきっとそうすると予想されるように、信じることにした。新しい生活の習慣が、そう多くの時間をかけずとも、自分からあの恥辱的な不器用さを取り払ってくれるだろうと。

 あの初めて町に出た夜、窓の外から見た研究室の情景が忘れられなかった。楽しげに言葉を交わす人々、色鮮やかなポスターやカレンダー、様々な形をした実験器具。それらは輝いて見えた。だが翌日、自分が研究室に足を踏み入れた途端その輝きは消失した。――あいつの周りにあれば輝くものが、と彼は思った。

 意志ある生活を望むことは、人間として至極当然のことだったかもしれない。

 彼は作業の手を止め、すうっと目を細めた。その瞳に映っていたのは無機質な工場の風景ではなかった。

「今夜……」

 その唇からもれた低い呟きは、たちまち退屈な機械音にかき消された。

 彼は、左手でゆっくりと髪をかきあげてみた。

「おれがヒカルになってやる……」

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