キスと瘢痕

ES

第1話 親友のこと

 北野きたの沙紀さきが待つ人はまだ来ていない。待ち合わせた喫茶店は首都高の高架の下にあり、真横には大きなスーパーもある。車も人も激しく行き交っていた。近くには大学病院もあって午前中は病院に御見舞に行く人などで店内は相当混雑するのだが、午後の昼下がりはそうでもない。店内はかろやかにバイオリンのソナタが流れていた。



 この喫茶店は沙紀が通っている音大の隣の駅にある。その立地とクラシック好きのオーナーがいつもお気に入りのレコードを流していて、楽器を持った音大生達がよく利用していた。沙紀はケースに入ったバイオリンを大事に壁に立てかけるとゆっくりと椅子に座った。ほっとするのと同時ににわかに緊張してきた。たかが古い親友に会うだけのに何故に硬くならなければならないのだろう。これもあの子の為せる技か沙紀は自分自身に苦笑する。しばらく音楽を聞いているとベートーヴェンの協奏曲を指揮しているのはフルトヴェングラーだとすぐに分かった。彼の指揮には荘厳な音の間に、何にも屈しない力強い優しさのようなものを感じて沙紀は好きだ。まるで大きな波にゆられているような、それでいて鋭く心の核を突いてくるような弾んだメロディー。ここは強く。ここはテンポよく。しばらく聞いていると沙紀の手指は、いつの間にかバイオリンを奏でる動きになっていた。


 北野沙紀はバイオリン奏者として業界ではかなりの知られた存在だった。沙紀は両親の仕事の都合で7歳から17歳まで10年間をドイツのベルリンで過ごした。弦楽器を扱っていた両親の影響で一流の楽器と演奏者による重厚なヨーロッパのオーケストラを聴いて沙紀は育った。バイオリンを習い始めた沙紀の才能は早々に開花した。中学生ながらヨーロッパのバイオリンコンクールで優勝して若き天才少女として音楽雑誌に掲載されたことも何度かあった。しかし沙紀が注目されたのはバイオリンの腕だけではなかった。


 北野沙紀は誰もがうらやむほどの美少女だ。目鼻立ちがすっと整っている上に黒髪からのぞく白い肌が為す色の対比があまりに対象的ではっとなるぐらいだった。くりっとした瞳ははにかんだような愛嬌のある笑顔をいとも簡単に作り上げた。しかし沙紀を印象付けたのはその美しさだけではない。それは顔の作りというよりもその表情で-苦しそうなつらそうな表情をしても美しさは全く損なわれないのだ。むしろ普通の表情をしているより顔をくしゃくしゃに歯を食いしばっている時のほうが何か禁欲を破って、人を誘うような魅力、独特の嗜虐感をかきたてるような官能的な顔をしていた。


 「北野先輩ですか?」

 

 やってきたのは高校時代からの後輩で、沙紀が待っている人ではなかった。

 

 「ちょうど良かったです。お願いというかお話がありまして」

 

 「大学のオーケストラの話だったらもう何回も聞いてるけど」

 

 沙紀は自分の通う大学からオーケストラへの参加を何回も打診されている。

 

 「そこを何とかなりませんか」

 

 彼女は沙紀がいかに優れたバイオリン奏者かということと、沙紀のバイオリンを聞いて感動したことを真剣に説明してくれた。沙紀は少々大げさだと思ったが言っている本人にとってはきっと何の誇張も嘘もないのだろう。

 

 「私達のオーケストラを優勝に導けるのは北野先輩しかいないんです」

 

 彼女のまっすぐな視線が沙紀には痛い。大学に入ってからこのお願いをされるのはもう何回目だろう。沙紀はすでに社会人オーケストラに参加していて、大学のオケに参加している余裕はなかった。彼女は国内のバイオリンコンクールで常連の上位入賞者だ。彼女だけでなく沙紀に頼んでくるのは決まって音大でも成績優秀なエリートばかりなのだ。だからごめんなさいを言うのは何だか申し訳ない気持ちになる。


 「今回の定期演奏会だけでいいんです」

 

 どこかで聞いたフレーズに沙紀は3年前にも件の親友に高校のオーケストラへの参加をお願いされたことを思い出した。沙紀は考え込んだ。そして何かを思いついたように彼女を見た。


「私は参加できないけど私よりもすごいバイオリン奏者なら紹介できるよ」


「北野先輩よりすごいバイオリニストなんて国内にいるんですか?」

 彼女は真剣な表情を沙紀に投げかけた。


「その子は私の親友なんだけど知ってる?」


 沙紀は言った。


 「え?」


 突然沙紀はこの後輩に少しだけ意地悪したいような、そして私の親友について話してみたい不思議な気持ちになった。


 「ねえ、私の親友についてどう思う?」


 口に出してみて初めて沙紀はこの質問がもつ何か危険な匂いに改めて気づかされた。沙紀は、ただ純粋にこの質問の答えを求めていた。沙紀にとってこの質問の答えを聞くことは何かすごく胸騒ぎがするほど魅惑的なことなのだ。


 「北野先輩の親友って広瀬さんですか?」


 「違うよ。ヒロとは仲いいけどヒロじゃない」


 「じゃあ……柳沢先輩?」


 「違う、みどりじゃない」


  彼女は完全に沙紀のペースに引きずり込まれたようだった。


 「じゃあ…誰なんですか」


 「そっか。分からない」


 沙紀は少し得意げになって言った。実際沙紀にとって彼女が親友のことをどの程度知っているかなんてあまり気にならなかった。むしろ沙紀は内心では満足さえしていた。自分をここまで認めてくれている人間からも私の親友が分からない。その名前が出てこない。そんな秘密めいた関係こそきっと私達にふさわしいのだ。


「あと誰がいましたか?」


 半分降参したように彼女は言った。散々じらせてから沙紀は力強く言った。


 「円城寺音巴」


 「え、円城寺さん?」


 彼女はものすごく驚いた顔をした。これも沙紀の予想通りだった。彼女も同じ高校出身だから音巴のこともきっと知っているのだ。


 「え、だって円城寺さんと北野先輩って」


 絶句するように彼女は言った。

 気まずい沈黙が広がった。この張り詰めた空気は、きっと音巴のせいだと沙紀は思った。名前を出しただけでその存在感で場の空気を支配してしまう。きっとそれは音巴という天使とも悪魔ともとれる強烈なキャラクターによるのだ。


 「北野先輩は円城寺さんに高校のときすごく嫌がらせをされてたと聞きました」


 「へぇ。そんな噂があるんだ」


 沙紀は軽く笑みを浮かべながらまるで知らないとでも言う様に身を乗り出した。


 「北野先輩が転校してくるまでは、円城寺さんが高校一の美人だったしバイオリンもすべて一番でした?それが北野先輩が転校してきたおかげで」


 「おかげで全部あたしに一番とられちゃった?」


 沙紀はそう言ってにこやかに笑った。


 「確かに喧嘩したこともあったな」


 「そんなんじゃなくてバイオリンの演奏邪魔されたり、ひどい意地悪されてたって」


 「うーん。だけじゃないね」


 沙紀は彼女の言葉をさえぎって言った。


 「あと、制服破かれたりとか、洋館に連れ込まれて監禁されたり、とか?」


 沙紀は笑顔のまま言った。彼女の表情がみるみる青ざめていく。


 「それににねえ」


 沙紀はわざと自分の胸元のボタンを外して下にめくった。


 「あなたには見せてあげるよ」


 そう言って沙紀はおもむろに下着を引っ張って胸元の白い肌をはだけさせた。


 「ちょっと何するんですか?」

 彼女は驚いて周囲を見回した。


 沙紀は構わず突き出すように彼女に胸元を見せた。するとちょうど乳房の上あたりに2センチぐらいの白く交差した十字架のような形の跡が見えた。


 「やけどの跡。音巴にやられたんだ。他にもあるけどね」


 「これ、大丈夫なんですか?」


 彼女は唖然として言った。


 「大丈夫。音巴は目立つ場所にはしてこなかったから。服着てれば平気」

 その時カランと音が鳴って小さな子どもとお母さんらしき人が入ってきた。子どもは飛び跳ねるように店内を闊沙紀している。沙紀達が座っているテーブルにも近づきつつあった。


 「そういう問題じゃないし。ひょっとして今でもこういうことされてるんですか?」

 彼女が声を潜めて言った。


 「まさか、お互いもう大学生だよ。でも音巴の家は私がプロ契約してるプロダクションのオーナーだからね。そうそう迂闊なことはできないけど」


 沙紀はへらへらと笑った。


 「何でそんな危ない人の会社と契約したんですか。北野先輩だったらヨーロッパでの実績もあるし、契約してくれるプロダクションなんていくつもあると思います」


 彼女は沙紀のために涙ぐんでまるで抗議するようにそう言った。


 「さあ……。それは…音巴がいる限り無理なんじゃないかな」

 沙紀は動揺する彼女の顔をゆっくりと見据えた。しかしその視線は、どこか遠くを見ていた。

 その時、突然彼女があっと言って驚愕した表情となった。その時沙紀の後ろでゴトリと音がしてバイオリンケースが床に倒れた。先程店内に入ってきた女の子がそこに佇んでいる。きっといろんなものを触って沙紀いているうちにバイオリンケースを倒してしまったのだろう。


 「ごめんなさいっ」


 お母さんの激しい語気に、大丈夫ですよと沙紀はにこやかに笑った。

 「大切な楽器を。中身大丈夫でしょうか」

 恐縮する母親に沙紀は大丈夫と繰り返す。

 「怪我はない?」

 沙紀が女の子の頭を優しく撫でると、これ何と聞いた。


 「これはバイオリンという楽器だよ」

 

 楽器という言葉がもしかしたら分からなかったかもしれない。沙紀は徐にバッグからたまたま持っていたバイオリンを形どったキーホルダーを探し出すと女の子に渡した。

 「これ、あげる」

 

 「ありがとう」

 その子は受け取ると嬉しそうにお母さんに見せている。


 自分がバイオリンと出会ったのも今の女の子と同じぐらいの年齢だった。だから無意識にそんな出会いを演出してしまったのかもしれない。沙紀は女の子の後ろ姿を見ながら自分の過去を思い返した。ちょうど三年前、日本に戻ってきた北野沙紀は音大の付属高校に転入した。

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