#12 天空のひととき
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パーティ会場から抜けだしてザ・シャードの展望室にのぼったふたり。きらめく天空のような空間に心を委ねる。だが会場に戻ってくると、そこに待っていたのは……。
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アデルは誘われるまま、ライアンについて展望室にのぼるエレベーターに乗った。
エレベーターの扉が開くと、まばゆいばかりの景色が目に飛びこんできた。先日見たライアンのオフィスからの夜景と真反対だが、はるかに高い位置からロンドン全体を一望し、見渡す限り街の灯がきらめいている。眼下のテムズ川だけが黒くなって、そこにイルミネーションで飾られた橋がかかり、まるでディズニーのピーターパンの映画のようだ。
ピーターパンならぬライアンに連れられて、一緒に空を飛んでいるかのような錯覚にとらわれた。アデルは窓際に近寄り、幻想的な夜景をうっとり眺めた。
「このビルが完成して以来、なにかに行き詰まった時は必ずここに来る」ライアンが淡々とした口調で言った。「心が洗われるような気がするんだ。こんな美しい街で仕事をしていると思うと、またやる気が出る」
その言葉がアデルの心に染み入った。
「本当にそうね。なんて美しいんでしょう。わたしも、悩んでいる場合じゃないわ。がんばらなければ」
「悩んでいるってなんのことだ? なにをがんばる?」
アデルは思わず本音を漏らしたことに動揺した。
「なんでもないの。いろいろあるのよ」
ライアンは口をつぐんだ。こんなに美しい女性だから、秘密があっても不思議ではない。そもそもオークションに出たのも、なにか理由があったはずだ。守ってやりたいという湧きあがるような気持ちを抑え、ライアンは問いかけの言葉を呑みこんだ。ふたりは黙ったまま、しばし光がちりばめられた夜景を眺めた。ふたりだけが魔法にかかって、光のなかに浮かんでいるかのようだ。
このままずっと、ふたりだけでここにいたい。
ライアンの心にふっとそんな思いが浮かぶ。あえて、その思いを深く追求せずに、ライアンは心地よいひとときに心をゆだねた。
「そろそろ行こうか」
どのくらい経っただろうか。永遠とも一瞬とも思える時間が過ぎ、ライアンはぽつりと言った。そのとたんに魔法が解けた。
「ええ」
アデルが夢から覚めたような表情でうなずいた。
輝きに満ちた空間をあとにし、ふたりはエレベーターに乗ると、並んで扉のほうを向いて立った。高速エレベーターがおりるあいだ、どちらもなにも言わなかった。ライアンは隣りに立つアデルをそっと見て、なにを考えているのだろうと思った。横顔のラインもすっきりしてとても美しい。ふと静謐という言葉が頭に浮かんだ。穏やかで凛としている。動じることなく、それでいて優しい。天空からおりてきた天女のようだ。
アデルは天空から下界におりていくような気持ちだった。聞こえないようにため息をつく。光と輝きに満ちた空間でふたりだけで過ごした夢のようなひとときから、エレベーターに乗って現実に戻る。エレベーターの扉が開き、アデルは黙ったまま、ライアンのエスコートでまた会場に向かって歩いた。途中でライアンを呼ぶ声がして、ふたりとも振り返った。
廊下の真ん中に冷たい雰囲気の女性が顔をこわばらせて立っている。背後に男性がふたり控えていて、ほかにはだれもいない。とても美しい女性だとアデルは思った。怒ったような表情だが、どこか馴染みのある顔立ちだ。
「やあ、ミランダ、久しぶりだな。このパーティに出ていたのか?」
ライアンが言った。
「なにとぼけたことを言ってるのよ。いい加減にしなさいよ」
ミランダと呼ばれた女性が、なんの前置きもなく喧嘩腰で突っかかってきた。
またか。ライアンは諦めて姉のほうに向き直った。面倒見がよくて、いざとなれば頼りになるが、気分屋で、子どもの頃から、嫌なことがあった時などは、こうして弟を怒りのはけ口にする。弟としては耐えるしかない。
「なんの話だ?」
「あなたの素行の話よ。まったく、よりにもよって商売女にまで手を出すとはね。恥を知りなさい、恥を。その美しい顔と大きなおっぱいに、いったいいくら払ったの? どうせ全部整形でしょうに。ほんと、ばかね」
紹介すらしていないのに、突然アデルを整形した高級娼婦と決めつけた姉に、さすがのライアンもかっとなった。なにに腹を立てているのかわからないが、言いすぎだ。思わず手をこぶしに握りしめた。だがその瞬間、先に手を出してミランダの頬を引っぱたいたのは、アデルだった。
「失礼なことを言わないでください。侮辱されるのは慣れているわ。でも、間違いには我慢ならない」
ミランダがはたかれた頬を片手で押さえた。恐ろしい形相になっている。
「なにするのよ! 痛いわね。親にも叩かれたことがないのに!」
「いい加減な憶測でわたしに喧嘩を売ったのはあなたでしょう? 謝ってください」
アデルが一歩も引かず、強い口調できっぱりと言った。先ほどの静謐な印象がまた覆される。
「冗談じゃないわよ。娼婦のくせに。美人で胸が大きいからってうぬぼれるんじゃないわよ」
ミランダがあざける。
アデルはかっとなった。いくらなんでもひどすぎる。ミランダにつかみかかろうとしたが、ライアンに引きとめられた。かかってこようとしたミランダも、背後の取り巻きらしき男性たちに止められ、向こうに連れていかれた。
「アデル、落ち着いてくれ」
なだめようと言ったが、アデルはライアンの手をふりほどき、両手をこぶしに握って、立ち去るミランダのほうをにらみつけた。
「いくらなんでもひどすぎるわ。生まれてこのかた、メスなんて一度も入れたことがないのに! 自分がこの容姿を望んだわけじゃないのに、こんな扱いはまっぴらよ!」
大きい瞳を怒りにきらめかせ、頬を真っ赤にして怒っているアデルは、信じられないほど美しかった。ライアンは思わずアデルを抱き寄せ、その赤い唇にキスをした。一瞬、静寂に包まれる。だが、その次の瞬間、返ってきたのは平手打ちだった。
「もうやめて! 恋人役はするけど、心はあげないわ!」
アデルの下唇が震えている。その姿はあまりに無防備ではかなく見えた。
気が強い一面と、か弱い繊細な一面、昨日の素朴で清楚な姿と、ドレスで着飾った時の色っぽくて華やかな姿。アデルの複雑な魅力を目の当たりにして、ライアンは、どんなことをしてでもこの女性を守りたいと思った。
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