第12話 じゃあ、どうしたいの?
「おはよう、穂花さん」
目を開けると、あの人がいた。ぼんやりとした頭で、私は記憶を反芻する。昨日、あの絵を描き上げて、それからあたしは……。
「疲れて寝ちゃったの、おぼえてない?」
長い髪に、片方だけあるえくぼと、優しい声。
「……先生?」
「もう、あなたの先生じゃないよ」
そうだった、先生はもう先生ではないんだった。あの秋の日にも同じことを言われた。
「そうそう、さっきまで美術の先生が来てたよ」
「石崎先生?」
「明日、会ったら私のことを訊かれるかも」
「美咲さんのことを……?」
急に頭がはっきりして、あたしは目の前のその人を見つめたまま固まってしまった。
「どうしたの、そんなに驚いて」
あの日、あたしが保身に走って逃げたせいで、目の前から永久に姿を消してしまったはずのその人が、目の前にいる。
「どうしてここにいるんですか」
「穂花さんが、私に会いたいだろうなって思ったから」
答えになっていない答えをその人は呟いて、にっこり笑った。片えくぼが見えた。それはずっと焦がれていた表情そのものだった。途端に、自分の涙で、その人の姿がぼやけていく。
「泣いてるの?穂花さん」
「石崎先生が、あなたは死んだって」
ほとんど無意識に、あたしは手を伸ばしていた。その人の感触を、温度を、確かめるように。彼女は伸ばしたあたしの手を掴んだ。
「それって、重要なこと?」
手を握りながら彼女が言った。柔らかな手のひらだった。石崎先生は、取り憑かれたように絵を描き続けるあたしが気味悪くて嘘をついたのだろうか?
「どうでもいいって、穂花さん、そう言ってたでしょ」
そうだった、石崎先生に、その人はもうこの世にいないと聞かされた時、心の底からどうでもいいと思って、それで──。
「どうしてあなたがそれを知っているんですか?」
彼女の手のひらは柔らかくてひんやりしていて、だけどずっと触れていると僅かに体温が伝わってくる。これは生きている人間の温かさだと思う。
「だって、聞こえてたから」
当然のように、彼女は答えた。
「聞こえてた?」
「そう、あの時私はどこにいたんだっけ、忘れたけど、聞こえてたから」
そんなはずはない。だってあたしはあの時、どうでもいいと言わなかった。心の中で、そう思っただけだったはずだ。
「……そう、ですか」
おかしいと思うのに、目の前のその人を見ていると、何も言えなくなってしまう。髪もまつ毛も瞳もえくぼも、あの時のままだ。あたしは夢を見ているんだろうか?仮にそうだったとして、いつから?もう何度目かわからない問いを、また頭の中で転がす。
「出てきたんですか?あそこから」
あたしは自分の部屋のドアの方を指さした。昨日描いた背景は、たしかこの部屋の中だ。ドアのある壁は、まるで大きな鏡で、この部屋を映しているみたいに見えるけれど、そこには誰もいない。
「そうだね。繋がったから、出てこれたんだよ、きっと」
「出てきてよかったんですか?」
「出てきて欲しかったんじゃないの?穂花さん」
その人はキョトンとした顔でそう言った。あたしは中学三年生の頃に見た先生の顔を思い出していた。無理して笑う顔、やつれた顔、目の前にいるこの人とはまるで別人だったあの時の表情。
「誰かがまたあなたを傷つけるかもしれない」
今度こそ、あたしはこの人を守れるんだろうか。先生のことを苦しめた人間たちから。彼女の手を握り返しながらあたしは言った。
「またあなたがいなくなってしまったら、今度こそあたしは……」
今度こそ、なんだろう。おかしくなってしまう?もう十分おかしいのに?
彼女はあたしの瞳を覗き込んで、にっこり笑った。
「じゃあ、どうしたいの?」
背骨、と思った。またこの人に背骨を掴まれている。あたしがそうしたいのか、この人があたしにそうさせるのか、わからなくなっている。この人に会って、あたしはどうするつもりだったんだろう。この人が呪いを解いてくれることを、あたしは本当に期待していたんだろうか?だとしたら今のあたしは、一体何をやっているんだろう。
「連れてって」
喉が、勝手にそう鳴ったと思う。掠れた、絞り出すような声だった。守りたいなんて、本当に思っていたんだろうか。あたしはただ、この人があたし以外のことで傷つくのが嫌なだけじゃないだろうか。あるいはあたしが傷つきたくないだけじゃないかな。いろんな想いが頭を掠めていったけれど、口から出た言葉はその人の鼓膜に届いてしまっている。
「いいよ。おいで。穂花さんの望むことは、なんでも叶えてあげる」
その人はあたしの手を取って、あたしの部屋のドアを開ける。廊下だったはずのドアの向こうには、あたしの部屋が広がっている。
狂ってる、何もかもおかしい。あたしは一体どこにいて、この人は何なんだろう。だけどその人が懐かしい声で、表情で笑うから、あたしは何も考えられなくなってしまう。このドアの向こうへ行ったら、あたしは死ぬのかもしれない。でも構わないと思う。先生がいなくなったあの日から、あたしは生きている理由がないんだから。
「どうしたの?怖い?」
あたしはかぶりを振った。石崎先生はきっとあたしを叱るだろうけど、別にどうだっていいと思った。あたしは正しくも賢くもないただの女子高生だから、これより他にどんな選択肢があるのか知らないし、知りたくもない。
「先生がいなくなること以上に、怖いことなんてないです」
あたしはその人の手を取ったまま、部屋の中へと足を踏み入れた。
そこはなんら代わり映えのしない、あたしの部屋だった。
「だから、私は先生じゃないんだよ、穂花さん」
背後からその人の優しい声が聞こえて、その少し後にガチャリとドアが閉まる音がした。
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