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 地域猫、というとどうしても野良猫を管理するという意味合いばかり気にしてしまい、あまり好感を持てない。あたしは野良猫が一番好きだ。厳しい環境で自由に生きているかれらが好き。自由に生きられる強さがあれば、あたしも税金に縛られずに生きていけただろうか、と考えると少しやるせない。

 左耳の一部が切り取られた猫をもふもふと触りながらそんなことを考えていた。土曜日の夜、今は午後七時くらいだろう。

 地域猫活動をしている団体はかなり閉鎖的で、ぶっちゃけて言えば知り合いのママさん同士が猫に餌をあげたり手術を受けさせたりしているだけの馴れ合いだ。役所の人間だということがわかると、あとあと面倒なことになるのがこういった地域活動で、進んで任されたいという崇高な理念を持った人間でなければ、自治会のご隠居だの団体の声がでかいおばさんだのにこき使われて、「税金を払ってやってるんだから」という言葉ひとつで、一銭も出ない仕事を押しつけられまくるに決まっている。

 あたしの同期が、それが嫌になって鬱を発症し退職しているから、虚言でもなんでもなく事実に基づいた推論だ。

「虚言って言われる筋合いねえわ。お前にだけはねえわ」

 猫の額をなでながら、あたしは虚空のザリガニに言葉を放った。

 ザリガニこと熊川砂里奈は、思ったことを言わない、ということができない。脳がそういう仕組みなのだろうと思う。古田さんも虚言癖あるじゃないですかじゃねえよ。お前はそもそも虚言すらできない脳じゃねえか。どうしてそのばかげた話を上から目線で言えるのか、頭をかっ開いて調べてみたい。失言をした瞬間にぶん殴る親とか、上司とかに恵まれなかったんだな、と頭で理解はできるが、感情はそれほどお利口じゃないわけで。

 だからあたしはそういう恨みめいたものを、すべて酒か猫に変換している。

 にゃあ、と鳴き声が響く。時計を見ると七時二十分を回ったところ。

「そっか、もうすぐうるさいクソババアがくるもんね。ありがとうね教えてくれて」

 彼女たちは知らない人間が猫を触っていると虐待をしているのだと勘違いする癖があって、一度退散し損ねたときに無駄に大目玉を食らったことがある。団体に入らない、もとい入れない理由はそれもある。

 ぬるい夜風は、この近辺にいると、どこでもべたべたとした潮が混ざっていて不快だが、そもそも生きていることで不快でないことの方が少ないので、これくらいならまだマシだな、と思うくらいには慣れてしまった。

 息をゆっくりと吸って、吐いて、歩いてを繰り返しながら、あたしは海岸へと向かう。遊歩道は途中でぶつりと途切れ、海浜公園の入り口はコンクリートで固められている。海から離れた一部だけが緑化されていて、潮風が吹きすさぶ護岸は当然のように何もないコンクリートの上にできた空間だけが延々と広がっている。どこまでも見渡せる殺風景さが好きで、あたしはよくここに来ている。

 隠し持っていた煙草を取り出して、火をつけた。服の臭いでバレるので、軽いニコチンのものしか吸えないし、それだって風向きやいいわけを考えないと難しい。きょうび煙草を吸うだけでもこれだけいろいろなことを考えないといけないなんて、文明はどれだけ衰退してしまったのだろう。とても残念だ。

 役所で嫌なことがあって、バーで飲んでいた時に隣の男が吸っていたのを物欲しげに眺めていたら、一本くれた。その時が最初だったはずだ。吸っただけで酒とは異なる酩酊感があって、あたしはそれから好きになった。「クレセント」の前の店だから、だいぶ前の話である。若手と言われはするが、働き始めてからそれなりの年月が経っていて、それもそうか、もうアラサーって言われても反論の根拠も意志もなくなるような年齢だもんな、とひとりで納得している間に、煙草はどんどん短くなった。

 下腹部に違和感を覚える。生理が近い。毎月のように出血するという仕組みは未だにわけが分からない。そんなアホな仕組みにした創造主とやらがいたら一発ぶん殴ってやりたい。男も男で毎月どこかから出血しろよ、鼻とか。今度優を殴ってみようかな。いきなり顔を殴った時の表情をちょっと見たい。


「いてっ、いてえな」

 予想以上に表情に変化がなくて、あたしはむしろ困惑した。

「急に殴るなよ、しかもグーで」

「どんな顔するか見たかったの」

 正直に言ってみる。

「あはは、また始まった」

 良子ちゃんそういうとこあるよねえ、と麻紀さんはウィスキーのロックを揺らしてからからと笑う。

「いやもう、それさ、無差別殺人犯みたいな動機だからね」

 予想通りではあったが、いきなり怒るということはなかった。そして、おそらくあたしが髪を黒染めして伸ばし始めたことに気がついていない。本当のいたずらはここからだ。あたしはスマホにダウンロードした画像を見て思う。悪趣味をなめるな。

「ほんといやな女だなあ」

「でも嫌いじゃないでしょ?」

「よくご存じで」

 優は白州のハイボールを飲み干した。

「麻紀さん、すぐるスペシャル」

「えっ、ちょっといきなり? どうしよっかなあ」

 麻紀さんはなんだか照れたような、少女みたいな顔をした。白州のすぐとなりにあった角の白ラベルを、氷を入れたフルートグラスに半分くらいまで注ぐと、ウィルキンソンのジンジャーを注いで、ライムを絞って数回ステアする。

「はい」

 素朴なジンジャーハイなのが、優らしくてなるほどなあと思った。

「いつも思うけど、てきぱきしてて早いなあ」

「そりゃそうよ、それが仕事だし取り柄だもん」

 麻紀さんは煙草に火をつけた。

 あたしと優しかいない時は、この場で吸い始めるようになった。

「そういえば、小説は進んでるの?」

 麻紀さんが優に衝撃的なことを聞いた。

「は、あんた小説なんか書いてんの?」

「あ、言ってなかったっけ? 純文学の賞、面白そうだから応募しようと思って」

「純文学か」

 つまんなそう。しかもド真面目で純粋な優が純文学を書くという事実そのもの以上に面白くはなさそう。

 率直に思ったことを言ってしまうとザリガニになってしまうので口を噤む。切れないはさみをふり上げたくはない。

「猫にコンドーム」

「は?」

「タイトル」

「なにそれ。変なの」

「雄猫のペニスには、棘があるんだ。だからコンドームをつけても破れるし、そもそも猫は自分で避妊なんかしない。つまりね、意味がない、という意味」

「そう解説されると、へえ、ってなるけど面白くはないね」

「面白くないよ。純文学だもん、そんな簡単に面白がれるものじゃないよ」

 優の顔が真面目で、案外本気なんだということに気づいた。

「へえ、できたら読ませて」

「読むの? 君が?」

「失礼な。小説くらい読むわ」

 意外そうな顔にちょっとだけ傷ついたので、あたしはおもむろに、ピアノに向かってショパンの「革命」を投げやりに弾いた。

 階段を駆け上がったり駆け下りたりしているみたいでばらばらに音が弾け飛んで踊っているけれど誰も気にしちゃいない。ピアノも好きにしろ、と言わんばかりに抵抗をやめていた。

 弾き終わって案の定、麻紀さんはぱちぱちといい加減に拍手している。

「怒った?」

 本当にピアノの音には繊細なんだな。もっと気づくところあるだろ。

「やっぱわかる? ちょっとだけ」

 もちろん黙っているけれど。

「あと酔っぱらってる」

「知ってる」

 ふふふ、と麻紀さんの忍び笑いが聞こえる。

「すぐるくんと良子ちゃんの会話ってほんと面白いよね」

「そう?」

「うん、君たちお似合いだわ」

 お似合いかどうかはともかく、面白い会話をしているという自覚はない。強いて言えば、この佐々木優という男が面白いとは思うけれど。

「お似合いかあ」

 すっとぼけた声色からは本音が見えない。

「ここではそうかもしれないけど、別の場所でファスナーを下ろして、皮を脱いだら違うだろうしなあ」

「ミスチルの『ファスナー』じゃん」

「きっとウルトラマンのソレのように、僕の背中にもファスナーがついていて」

 優は「ファスナー」のサビを口ずさむ。

「ふたりともミスチル好きだね」

「好きというか、周りがね。そういう世代だし」

 なら、読めるかもしれないなあ、と優はひとりつぶやいた。

「いつか、ここに持ってくるよ」

「へえ、マジで」

「うん、忘れてなきゃ」

「あんた平気で忘れそう。てか、忘れたふりしそう」

「バレた?」

「会うたびに進捗聞いてやるからな」

「うわ、めんどくさ」

「めんどくさいよあたしは。いやな女だし」

「知ってる」

 優スペシャルの色が薄くなって、炭酸もまばらになっていた。

 麻紀さんの煙草は新しくなった。

「まあまだ、ぜんぜん書けてないからそんなに急かさないでよ」

「はいはい」

 あたしも煙草に火をつける。優はなぜあたしが髪を黒く染めたのか知らないふりをしているし、聞かないことにしたようだ。あたしの思うつぼだ。せいぜい驚くがいい。

 スマホに写った峰岸紗英の写真をみて、ひっそりとほくそ笑んだ。

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