十三

 地球がオーブンレンジにぶち込まれているような暑さもその頂を遂に超え、後は右肩下がりに気温が低くなっていく。ただ、それは間違いなく夏が終わることを意味していた。この夏、俺たちはこれといった野外活動には興じなかった。元々、俺たちはそういったことが性に合うわけではない。だからといって、外に出て太陽の真下で体を動かした思い出がないというのはなんだか物寂しい。そこで俺たちは考えた。


 山というのは四季の内のいつに行っても多種多様に最大限楽しめる。アミューズメント施設もまた然りだ。しかし、海はやはり夏に行くのがベストだろう。そのため、俺たちは海じまいギリギリになって海水浴場に出かけることにした。まぁ、俺たちと言っても、それは二人ではなく五人だがな。


 海水浴場は以前行った夏祭りの会場とは別の所にある。中央駅から電車で三、四十分程かかり、またその駅からも十五分ほど歩く必要がある。そうまでして行く価値があるのかと聞かれれば、こと風景に至ってはその価値はない。なんなら、ネットで中米、南米、地中海沿岸でも検索した方がまだ胸が躍る。だから、要は彼女と泳ぎに行くというのが最大の目的であって、それができるなら正直プールだろうと、川だろうと、どこでもよかった。しかし、あえてここを選んだのは、単に近くに旧日本軍の回天の実物大模型があるからだ。回天は海底での特攻兵器だ。恐らく、見には行かない。古川によれば、自らを殺す者も殺人者だよ、とのことで、その手の話になるときっと俺と古川の間で大論争が始まるからだ。


 そういった経緯で、俺、北条さん、楓、詫摩、古川の五人でゆらゆらと電車に揺られ、ギラギラと照り光る太陽の下を、汗をダラダラと流しつつ海水浴場に向かった。そして、その中で詫摩が政治家になることを決意した。なんでも駅と海水浴場の間にバスを運行させるかららしい。支持層は……、ここの四人だけか?


 ところで、俺の体力は平均に勝るとも劣らず、一応は周期的に運動もしている。しかし、今日はどうも不調子で異常なまでに気が重い。炎天下とはいえ、たかだか十五分歩くことが自分の想像以上に苦しいものだったのだ。海水浴が楽しみであるあまりによく寝れなかった、というわけではなく、一体何が原因なのかは分からない。蝉の声が耳の奥で騒がしく鳴り響き、水を取って体を冷やしても頭の痛みは消えない。そして、特に彼女と喋る気になれない。

 それでも泳ぎ出せばまた違うだろうと思って俺は歩いた。


 目的地に着くと、やはり風景は無難だった。広い浜辺ではあるが所々にゴミが打ち上げられており、清掃作業はあまりされていないようだ。海では青が必要以上に濃く、唯一の見どころと言えば奥の方に見える小島が丁度おにぎりの形をしているということくらいで、来客の数も即座に見て取れる程度だ。しかし、こんなひねくれた世捨て人のような感想とは打って変わって、四人は楽しそうに談笑している。それがとても異質に見えた。そのため、詫摩が、道路から浜辺までどっちが早く駆け下りれるか勝負しよう、と俺に持ち掛け、俺はそれに賛成しつつ結局動かなかった。ただ眺めるままでいた。そして、彼女が珍しく眼鏡を外していた。この時はまだそんなことを嫌だなと考える余裕があった。


 浜辺に踏み入ると、足が軽く沈み、砂がサンダルの上に乗ってくる。その一粒一粒がとても熱い。灼熱のミームを脈々と受け継いだ太陽の子供たちだ。しかし、振り払うも浜辺に足をついている限りは延々とそれを繰り返すだけなので、仕方なく我慢して歩く。ほどなく海の家の前までに来た。とりあえず一旦は男女で別れ、水着に着替えてから再集合しようということで俺たちはそれぞれの更衣室へと別れた。

 俺は帰りたくなってきた。人に肌を見せるのが気持ち悪いだとかそんな初々しくも可愛らしい感情のためではない。このままでは何か悍(おぞ)ましいものに出くわしてしまうような気がするのだ。

 だが、肩を並べる詫摩と古川に二、三歩遅れて浜辺に建てられた木製の更衣室に入る。案内地図を確認しておかなければ、粗末な海小屋にしか見えなかった。いや実際は更衣室であるが、依然として粗末ではある。ところどころ白塗りのペンキが剝げ落ちており、柱は危なくささくれ立っている。電気はない。明かりは木の割れ目から差す日光だけだ。よく見ると、フナムシも数匹走り回っている。


 二人が着替える横で俺はロッカーを前にしてただ立ちつくした。それを裸の二人が不思議そうに見る。だから手を振って問題はないと伝える。すると、二人は頭を抱えながらもさっさと準備を終えて更衣室を後にした。

俺は床の軋む音が消えると力が抜けきったようになり、くるりと振り返ってから背中をロッカーにつけ、なすがままに腰を下ろした。顔だけには力がこもっている。少し恐ろしい。胃の奥底に火種を置かれている。懸命に灰を被せるがそれでも着実に煙が湧き上がりつつある。頭が回らなくなるかもしれない。

 そして、そのまま横に倒れた。木の匂いが鼻腔に伝わり、宙に舞う埃が日光に露わにされている。海水浴に行くことを決めてからずっと嫌な予感がしていた。しかし、それの実体を捉えることはできない。恐らく、俺の力だけでは見ることすら叶わないのだろう。もう疲れた。俺は目をつむり、波の音に耳を傾ける。しばらくそのままでいようと思った。彼女を忘れようと思った。目を開いていなければ、何事も起きないかもしれない――、


「――遅いよ凛堂!」


 俺は激しく起き上がる。古川の声だ。そして、しぶしぶ立ち上がり、水着に着替えた。

 更衣室を出ると古川がむすっとした顔つきで立っていた。そして、お似合いの二人だねと言って踵を返した。その先に、海の家の前で詫摩と楓がいるのが見える。彼女は来ていなかった。俺は少し負い目を感じたため、走って古川の後を追った。

「いいですか、楓さん。私の親父はベンツを二台、ポルシェを三台持っていましてね」

「ブルジョア階級ですか⁈ 羨ましいです!」

 そこでは詫摩が楓を口説き落そうとしていた。

「これでわかるでしょ? 詫摩の思想はただの反抗期が理由だってことがさ」

 そっと古川が俺に耳打ちした。続けて、

「それにしても、二人は本当に姉妹なのかい? 性格は全然違うし、その……、ほら、身体的にも」

 顔を赤らめながら言った。詫摩が楓を口説こうとする所以もそこにあった。水着であるために美しい曲線美がより強調されており、ボディランゲージを上手く使い、ウィットに富んだ会話を展開する、それが北条楓という女性だった。異性を惑わすKiller Queenだ。しかし、今日はいつも以上にそれがどうでもいい。とにかく気分が悪くて仕方ない。


「あっ、お姉! やっと来ましたか!」


  俺はそれを聞き、反射的に楓の方を向く。フリルの付いた水着に薄いカーディガン、そして縁の広い麦わら帽子、紛れもなく彼女だった。たちどころに俺の中で火種がぱっと火花をまき散らす。どろりと体から黒い液状のものが溢れ出て俺の足元に音もなく落ちる。現実にはそんなものはないのだろう。だが感じる。感覚的にはそのようであると感じる。次第に彼女が俺に近づいてくる。口元を小さな手で隠すも恥じらっているのが見える。俺は左足を一歩下げた。そして、右足を一歩進めた。悍ましい何かがそこにいる。胃の奥底で火を起こそうとほくそ笑んでいる。

「……何かおかしい?」

 俺は真一文字の口で首を横に振る。そして、絞り出すように、

「いや、綺麗だよ……」

 しかし、そう言った自分には違和感があった。その先に続くより深い言葉がある気がする。ある気というだけで終わってほしい。実際には違っていてほしい。

自身の内々に潜む悍ましい何かに俺は混乱している。腕を振りかざし、燦々と照る太陽を手の甲で遮って、逃げるように海岸線へ向かう。四人が俺の行動に驚いた。そして、直後に喜びに満ちた声で俺の後を追う。それが苦しかった。自分が作家の気質を十分に持っていることがよく分かった。

 そして、俺は海に入るすんでのところでぴたりと止まる。同じように止まったのは彼女だけだった。後の三人は競うように海に入り、優雅に泳ぎ出した。それを眺めつつ、俺は糸が切れたように座り込んだ。足の先だけが海水につかる。とてもぬるい。

 

 横に彼女も座る。俺は一人分横にずれる。彼女がそれを詰める。俺はまた横にずれる。目線を小島のさらに先の水平線に向け、彼女から目を背ける。なぜ三人と一緒に海に入らなかったのかが少し気になる。しかし、話せる状態にない。

「……体調が悪い?」

 彼女がどう言ったのかは分からない。三度目だ。今日だけが本当にその通りだ。薪が火種の上にくべられてゆく。心臓が今までにない高鳴りを見せる。

「少し話しても良い?」

 そう断りをいれるのは珍しいことだった。彼女が俺の後を追ったのはあの三人とは違う理由があるからなのか。俺は試しに頷く。ただ、やはり彼女の方を見るのは無理があった。

「今日はあまり楽しくない。海水浴を純粋に楽しいとは思えない。あなたと一緒にいるだけでも良いのだけど、不思議と今まではそれに付随して行うことも楽しかった」

 俺はびっくりした。彼女がそう思っていることに、そしてそれを言ったことに。しかし、なぜだか安心した。俺は何度か迷うも彼女に目を向ける。海の家にいる時よりはっきりと彼女が分かる。白い肌と華奢な体で三角に座り、憂いを秘めた顔を膝にうずめていた。庇護したいと心から思えた。

「……海水浴は私たちには適していない。きっと、この海は私たちとそれ以外の人々では違うように見えている」

 彼女は海を見つめながら言った。

「最初、これを話すつもりはなかった」

 そして、俺の方をおもむろに向き、

「でも、あなたもそう思っているように思えたから」

 それはまさしくその通りだ。気分の悪さとは別の所で俺は確かにそう考えていた。やがて、彼女が海の方に指を向ける。その先には楓がビーチボールを持って手を振っている。彼女は俺にこくりと頷き、立ち上がった。

 俺はその彼女の後ろ姿を見る。火の勢いが増していく。段々と分かってきた。身体に微細で許し難い変化が走る。その時に燃え上がった。俺はけたたましく立ち上がって、砂を蹴って走り出し、海に飛び込む。体がぐにゃぐにゃになり、口や鼻に海水が染み込む。そして、少し考えた。

 俺は息が絶え絶えになるころになって顔を海から解放し、楓を見て、水面を見る。何も無い。次に彼女を見て、水面を見る。醜悪なものがそこにある。悍ましい何かも俺の中にはっきりと現れている。そうか、理解した。噓ではなく事実として存在している。これは人間の弱さであると思うが、隠すことはできない。詫摩の言葉、楓の話が思い出される。愛の根源的な理由には足り得ない。しかし、それに従ずる形で確実に存在している。なんと醜い。その存在を認めないといけないのがあまりにも辛い。今日が海で良かった。何の楽しさもない場所でよかった。これに今までのような場所で出会っていたらどうなっていただろうか。想像したくはない。ちょっと我慢できないかもしれない。彼女に嫌悪感を持たれるだろう。だが、愛の一つであることに間違いないはずだ。楓の問いの答えに近づいている。受け入れよう。道徳をわきまえ、良心に基づいて動けば、これも悪徳にはならない。自然の摂理だ。

 気分の悪さもなくなってきた。だいぶ納得できる。目を背けずにしっかりと向き合い、折り合いをつけることができればかなり楽だ。もっと早くにやっておけば良かった。さぁ、あと少しで愛を知り得る。まだ、時間は残されているだろうか。

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