音楽を楽しく正しく聞くことに慣れている私たちにとって、不愉快で非合理なものこそが必要だ。そうして私は、この雑音の反復さえ、意味があるのだと言ってしまう。

『音楽を楽しく正しく聞くことに慣れている私たちにとって、不愉快で非合理なものこそが必要だ。そうして私は、この雑音の反復さえ、意味があるのだと言ってしまう。』

楽曲リンク:https://nico.ms/sm39224978


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2021年7月7日


研究報告を終え、思考停止しきった自分の頭を、身体が引きずって家に帰った。パソコンを開いて、何も考えない。自由連想のように、今こうして文章を作っている。今何かを入力しようとしていたのだが、すっかり消えてしまう。今、何を考えていたんだろう。私はよく自分が数秒前まで考えていたことをすっかり忘れてしまい、その数秒前を思い出すために数分間をかけてしまうことがある。こうして書いている今この瞬間も、私はスマートフォンに到着する就活サイトからのメールによって、思考を中断させられてしまう。そうした忘れ去られた私の断片は雑音となって、この音楽のように消え去ってしまう。


最終的な結果が重視される今の世の中において、その過程でどのようなものがつくられ、そしてそれらがどのようにして消えていったかは問題ではない。結果だけが残された世界で、ノイズリダクションのように拒否された微細な雑音たちはもはや価値すら見いだされない。綺麗に整備された音たちはあらゆる処理をかけられ、私たちに美しい世界を提供してくれる。それらは人間の耳に快適さを提供するよう編集され、私たちの欲望を埋めてくれるように計算された結果が現れている。だからこそ、私たちはきっと見捨てられた雑音たちと、そこにいたはずの幽霊に目を向けなければならない。


私は雑音にならなかった残骸を拾い上げて、この雑音を作っている。だがこの時間の背景には、私が拾いきれなかった無数もの残骸たちが足元に転がっている。彼らはもう私によって拾い上げられることも無いまま、雑音の彼方へと消えていく。


なんでもすぐに思い出すことが可能な拡張記憶が人間に実装されないだろうかと、常に思っている。それはまるで、パソコンの外部ストレージのように。私たちは自分の都合のいいように物事を記憶し、自分の都合のいいように物事を忘却してしまう。そうして私たちは人間らしく、独善的に生きていくのだ。私が機会になれたら、こうした独善的な方法を取らずともいい方法がきっとあるのだろうが、どれだけ人間と機械が接近しようとも、人間は機械になれない。機械が人間になろうとしているのにもかかわらず、この仕打ちは一体何だろうか。そうしてなお、私はかろうじて人間を続けているのだ。


2021年7月9日


連日の苦労のせいか、全身に蕁麻疹が出てしまい一日休んでしまった。いろいろな意味で疲れ切ってしまいながらも、意外なほどに元気だった私はベッドの上で文章を書き始めている。骨折はそこそこあったがあまり病気をしてこなかった自分にとっては、こういう機会はなかなか珍しかった。思えば、予防接種などもこれまであまり受けてきた記憶がない。だからこそ、私は注射には慣れていないし、まるで身体改造をなされているような気になり、あまり好きではなかった。


幼いころ、私は一度入院し、死にかけたことがあった、骨折程度なら何度も経験したが、入院もそのときだけで、そのほかに大きな入院は無かったと思う。そうした私だからこそ、病院にはあまりなじみも無ければ、手術にもなじみが無ければ、注射にもなじみがなかった。私の中では手術を施すことと注射をすること、そして耳にピアスを開けることと刺青を入れることは、等しく自身の身体に意図的な改造を加えている点でともに身体改造をいうに値するものだった。それらはみな、自分を否定し、拡張することによって自身を改造している。


だが、そうした身体改造は別に、身体改造を施す人に限定された問題でもなかったようにも思える。私たちは電話の登場とともに、何時でもどこでも誰とでも会話ができる技術を獲得した。そうした技術の獲得は、身体そのものとは直接的に関係しないものの、私たちの感覚意識をことごとく変えてきただろう。それらはまるでブラウザに拡張機能をインストールするように、私たちの感覚を変えてきた。こうして文章をどこでも打てるようになったことも、私が思いついたことをすぐに記録することを可能にした点で、大きな変化であるだろう。


私たちはこれからも数多くの拡張機能をインストールしながら、感覚をアップデートさせていくだろう。そうして、私たちは少しずつ新しくなっていく。その速度は指数関数的に上昇し、ほんの半年前の出来事を昔のことにしてしまう。そんな変化のスピードに、これから先の私たちはどれだけついていけるのだろうか。


2021年7月12日


SNS上で人を声で会話する。生まれつき、パソコンが回りにあってもスマートフォンはなかった自分にとって、自分自身の声を躊躇なく他人に公開することは、恐怖を覚えることだった。だからこうして、私は自分ではない声によって、自分自身を拡散させている。


私は、自分自身の声がとても苦手だった。自分の声をそのまま録音してしまうことに、抵抗があった。自分はどうして、こうなっているのだろう。そういえば昔、自分自身の作った音楽を自分自身で歌って、それをネットに挙げたこともあった。そして、それを笑われたこともあった。だから、私は一人で、こうして音楽をつくる選択をしたのかもしれない。


2021年の今、あらゆるサイトで自分の声をそのまま載せてしまうことがあらゆる場所で行われている。私はそれが怖かった。というのも、声は文字とは一線を画すほどの大きな影響力を持った、特別な存在だったからだ。私たちの声は皮膚や血液と同じように、私たちが自身を意図的に改造しない限り、決して変えることのできないものだ。それは、私たちが何者であるかを決定する不可欠な要素である。そして、それを映像や音声で残してしまうことは、私たちにとって変えられることのできない変換不可能な自分自身を拡散することにあたるだろう。


そうした声たちは、私たちの存在を証明するためだけに、今ここにあるのかもしれない。しかし、そうした私たちの声もまた、複製される大多数の音声のなかに紛れ込み、インターネットによる「すべてをアルゴリズムに回収する」論理によって、無に帰すこととなるのだろう。私たちの声はすべて数値に変換され、数値に変換不可能なものは無かったことにされる。そうして、私たちの価値は雑音の彼方に消えていく。


2021年7月16日


SNSを開くと「サマーウォーズ」という言葉がトレンドに乗っている。今日は地上波での放送日らしい。「よろしくおねがいします」の言葉とともにエンターキーへと指が振り落とされる様子は、もう何度も見てきた。テレビが自室にないために同時視聴することができないのがなんとも残念だったが、こうした夏のアニメ映画の放送とともに、私は強制的に夏の到来を感じさせられた。


この映画は私にとって、失われた2000年代の残像のように見える。だが、私はそれを語る資格も、さして持ち合わせていないかもしれない。幼いころ、私は海外で生活していた。そんな私にとって、日本はある意味、貴重な場所だった。3歳から海外の幼稚園に通っていた私にとって、日本は年に1回くらいしか訪れることができず、そういう意味でも日本はどこか海外だったし、2000年代初頭のインターネットに対していろいろな人がいろいろな希望と絶望を込めていた光景を、私はぼんやりとしか認識していない。かつて幼稚園から小学生のときに流行していた「デジモン」も、私はほんの少ししか知らなかった。


そんな私が、かつてのインターネットについて本当に語ることができるのだろうか。私の知っている世界は少なくとも、インターネットのアルゴリズム的な論理が少しずつ崩壊していった過程だけだ。それ以前のことを全く知らないわけではないが、すべてを知っているとは到底言えない。私は過去に知っているが知らない記憶に対し、当時書かれたものからその状況を推察し、そして今こうして文章を打っているに過ぎない。だがそれは、かつて本当に時代を経験した人に対し、どのように見えているのだろう。


私がすでに書かれたものから再度作り出している私の2000年代は、もはや現実社会に起きた2000年代とは程遠いかもしれない。私たちは過去にあった出来事を今この世界で、あるがまま再現することはどうしてもできない。それはもはや別個の事象となってしまうだろう。過去は消えず、事実は永遠に雑音の中へと閉じ込められていく。そうして、今年も夏が始まっていく。


2021年7月18日


就職活動のなか、いろいろな方面にメールを打ち続けている。ここ最近で2社にエントリーシートを出したものの、一社は面接で不採用となり、もう一社は書類選考の時点で落とされたようだ。書類選考にすら至れない場合、もはやエントリーシートが先方に到着したのかどうかも分からないまま、何の連絡もなく落とされてしまう。そうして、私は私自身の社会的意義を考え始める。


大学にいる間、自身の研究の社会的意義についてよく問われることがあった。芸術や創作が好きな私の研究は、その社会的意義がなんであるかを明示化することは難しかった。それ以上に、芸術そのものが社会的にどう意義を持っているかを考えることも、また難しいことだろう。それらはもともと、人間が思考を巡らせていたる領域の外側にいたはずだった。芸術は思考の外側にいるからこそ、芸術だと思ってきた。そうした私の考えは、もう通じなくなっているのだろうか。


面接以前のエントリーシートの段階ですら、自己アピールという名前の元で自分の社会的意義を唱えなければいけない箇所が設定されている。私は外面上だけでも自分自身のアピールポイントを用意し、それをつらつらと書きだしていくが、自分のアピールポイントを自分が分かっていることさえ、どこか不思議な感覚に襲われてしまう。自分自身のことをどうして、自分自身が分かっているのだろうか。そもそも、自分自身のことを自分自身が知っている必要は、本当にあるのだろうか。人間は、すべてが正しくわかりやすいものではなかったはずだったのに、自分自身のアピールポイントを主張することに、どういう意図があるのだろう。


私たちは私たちを数値化し、そして数値化できない私たちの余剰をどうしたらいいのかについての方法を知らない。すべてを数値化できないことを知りながらも、数学的世界の到来を前に、なす術もないのだろうか。そうして、私たちの余剰は雑音の中に埋もれていくことになる。


2021年7月20日


特に何かを書こうにも何も思いつかないまま、今日もパソコンの画面の前でこうして文章を自動筆記している。私は何かを書こうと思ったときに何かを書いているというよりも、適当に何かを考えていたら勝手に文章が始まることが多かった。それだけ、私の中には伝えなきゃいけないことがまだまだあって、それが喉元まで出かかっては消えていくことをこれまで何度も経験してきた。


文章を書くということはいつも、何かを捨て去ることだった。大学では何かを勉強することは何かをあきらめることと同義であると耳にする。私は文章を今こうして書きながら、何か一つの論理を作り上げていくさなかで、その背景にあったであろう無数もの雑音を拒否している。そうして作り上げられた私の文章は、果たしてその背景にある無数もの雑音よりも価値のある言葉を形成しているのだろうか。


そうした苦悩を伴いながら、私たちは死ぬまで文章を作り続けるのだろう。これから先、たとえあらゆる事象・現象を記録することが可能になろうとも、記録スイッチを握るのが私たちであるのなら、私たちが私たちの記録を管理することができるはずだ。それはこうして私が文章を書き連ねているときに何を選択するかという意志と、あるいはどんな映像を録画するかを選択する私の意志に関係に関係している。どれだけ技術が私たちの想像力を超えようと、その技術を使用するか否かを判断するのが私たちなのであれば、何一つ進化はしていない。


だとすれば、私たちは進化すべきなのだろうか。もしそうなのだとしたら、こうして私が自由連想的に書き連ねているすべては無用な存在となるのかもしれないだろう。しかし、私たちはそれがすべてではなかったはずだ。私たちの本質は言語化できないものであり、言語化できない迷いとコンプレックスこそが、私たち人間の人間性と称することのできる存在だったのではないだろうか。そうした、私たちの雑音は今、どこにあるのだろう。全自動二伴う最適化された未来で、雑音はきっと完全に消し去られてしまう。


2021年7月23日


実感すらわかないまま、東京オリンピックの開会式が今日された。実家で23時まで見続けたは果てに、今こうして文章を書いている。よくわからない演出もいくつかあったように思えるが、ここ数日の開会式をめぐるトラベルの連発にも関わらず、本当に今日開会式を迎えることができたことには驚きを隠せない。きっと、名前も表に出てこない数多くの現場の声が背景にはあったのだろう。彼らに私は心の底から尊敬の念を覚えた。


思えばここ数か月、まるでネット炎上を見ているかのように飽きることのない数日間を過ごしてきた。ネット上では件の感染症とオリンピックとのどっちが勝つかを巡っていろいろな人がいろいろな小競り合いを繰り広げ、私はそれを見ているだけだった。結局、感染症は根本的な解決もしないまま開催もされたわけだが、いずれにせよ東京から遠く離れたこの京都からすれば、それほど実感もなかった。無観客開催で外出も自粛され、そして一人暮らしの自室にはテレビもないとなれば、もはやオリンピックが日本で開催されようが国外で開催されようが、大きな変化もない。開会式がなされたところで、特に京都市内に観光客が増えることもないのだろう。


京都はこの数年で劇的な変化を遂げてきた。昔から京都に暮らしてきたわけではないのだが、一家は代々京都に住んでいたこともあり、京都には縁があった。今では京都で暮らしているわけだが、数年前までは日本語以外の言語も数多く聞こえていたはずなのに、今ではもはや標準語と関西弁以外の日本語ですら、耳にする機会も無くなった。よく使用していたバスは4月から運休になってしまい、別ルートで大学に向かうことも増えた。2年くらい前までの京都における尋常じゃないまでの観光客の多さもそれはそれで異常だったのだろうが、それがまるで一人もいなくなってしまった今の京都も、私には異常な光景に見えていた。


開会式が終わり、これから先に京都は以前の光景を取り戻すのだろうか。だとすればいいと思うが、その反面で、私は日常に回帰するさなかで今この異常事態がどのように残されていくかを考える必要があると思った。バスが運休されたこと、人がいなくなったこと。それらは残っていくのだろうか。それはまるで、開会式の前後に起きた様々なことがこれから先に雑音とみなされ、少しずつ歴史から消え去っていくかのように、なかったことになるのだろうか。


2021年7月26日


高校生のとき、数学が嫌いだった。高校の先生の話はまるで聞いていなかったし、そんな私が高校の定期テストで点数を取れるはずがなかった。2年生だったか、シグマを覚えられずに断念し、とうとう国公立大学に行くのもあきらめた。それからもう何年も経ったが、今では都合上、相対性理論や非ユークリッド幾何学をかじるときに、たまに目を通すようになった。


数学はわかりやすくて素敵だと思う。すべてを数値に解明してしまえば、私たちはきっとすべての事象について勝手に悩む必要もなくなるのかもしれない。全人類を数学的に考えてしまい、感情の一切を排除し効率的に駆動させるだけで、世界のどれだけの問題が解決するだろう。そういったことは、昔からよく考えてきた。そういった感心が私を心理学へと突き動かしたと思うが、しかし大学で心理学や芸術を勉強しながら得てきた自身の知見は、決して数学的なものではなかったと思う。


世界そのものは偶然的な存在と、数学で成立している。そうした世界を、私たちは私たち自身という色眼鏡をかけながら見つめている。それによって、あまりにも合理的に動いているはずの世界そのものを、私たちは直視することすらできないままでいる。その色眼鏡を果たして私たちの感情と呼ぶべきものなのかはわからないが、少なくともそれに準じるものなのだろう。

この世界は数学で、ゆがめているのは私たち自身である。その歪みの集合体がきっと宗教であり、政治であり、今の世界そのものの成立に大きく関与しているのだろう。出来上がった想像の共同体は私たちを大きく成長もさせてきたし、今ではそれらは小さく分裂しながら、小規模に私たちを支えている。だが、それが分裂しかけているのも事実だろう。私たちの分裂した想像で、これから何が生き残っていくのだろう。生き残れなかった想像は、或いは雑音の彼方に消えてしまうのだろうか。


2021年7月29日


2年ほど前に執筆した論文の原稿についてのリアクションを始めていただいた。恐れ多くも存じ上げなかった方から連絡を頂き、とても嬉しいかぎりだ。ネット上であったこともない人とメッセージとやり取りしたり、会話をしたりはこれまで何度もあったが、封筒という形で連絡をもらったことは初めてだった。事務局宛てにお送りされたメッセージをもらいに行くために、私は自転車で京都の坂道を駆け上がる。


今どき封筒にメッセージをつけて送信することなどあるのだろうかとも思いながら、事務室から郵便物が来ているというメールを受け取ったときの私は半信半疑だった。もしや、人違いでないのか、とさえ思っていた。論文はもう2年も昔であり、それほど読まれることもないのではないだろうと、私の中で勝手に判断していたからであった。そうした私の予感とは裏腹に、私宛てであることを確認し、家に持ち帰った。


電子メールの発達したこの時代で、文章を郵便物で送るなどということを、私はこれからの人生でどれだけするのだろう。あらゆるものがデータとなり、記号として変換されていく中、封筒に書かれた差出人の手書きの筆跡は、私にそんな思いを突き付けてきた。今私がこうして入力している文章は手書きではなく、ワードファイルにキーボードで打ち付けている。そしてその文章を、私は人工音声の読み上げソフトに代弁させている。こうして作り上げられているこの音楽は、いたって記号的だろう。そんな状況を前に、私に宛てられた手書きの筆跡は、記号以上に大きな意味を持っている。あらゆる筆跡が失われつつあるこの時代の中で、それらはやがて雑音として処理されていくのだろうか。そうしたとき、この文章は一体何を伝えることができるのだろうか。だからこそ、私は今こうして、これから雑音とみなされていくだろう残骸たちを前に、それを一つずつ拾い上げていく。私たちの筆跡の持つ意味が行き先を失って、瓦礫に埋もれてしまわないように。


2021年7月31日


今月二回目の研究報告を終え、夜22時の電車に乗って京都を出る。以前と比べ明らかなほどに人がいなくなった電車の最後尾の一番後ろの椅子に座って、向こうに止まっている各駅停車の発車を見送った。京都を出る電車はゆっくりと出発し、私を載せて地下のトンネルを走り出した。


報告はオンラインで行われたが、そのさなかでいくつものトラブルに見舞われていた。リハーサルではしっかりできたのに、本番となるとマイクのミュートをつい忘れてしまったり、映像がうまく再生されなかったりした。有線に繋いだはずの自室のパソコンでは、オンラインミーティングに映像を載せることも難しかったのだろうか。そう思いながら、私は今こうして話しているこの映像すら、正確に視聴者に受容されていくのだろうかと、ふと不安に思うのだった。


オンラインで流れるこの映像はアルゴリズムに翻訳可能な要素しか伝達しないが、いざそのアルゴリズムそのものさえも伝達してくれないのであれば、もはや何も信じるに値するものは存在しないだろう。私のこうした文章の吐き出しも、延々と録音し続けた約30分間の雑音も、そのすべては受容者に正確に伝達するために存在している。アルゴリズムそれ自体のバクによって私の文字が伝達できないのは何とも悲しい事実であるが、一方でそうした変化は決して、全面的に悲観的なものでもないだろう。アルゴリズムのバグは私たちに違和感を与え、不快感を生み、そして隠れた人間性を出現させてくれる。そうした隠れた人間性こそ、私が求めているものだ。


人間は全くもって論理的ではない。私たちは感情に突き動かされ、ときに哀れなほど同じことを繰り返す。だからと言って、私たちは完全な論理の世界に閉じこもることもできない。そんな私たちのバグを模倣する様に、オンラインミーティングは失敗し続ける。私が流すことに失敗した雑音交じりの映像は、それ自体はアルゴリズム的世界における失敗作であるものの、一方でアルゴリズム的世界から逸脱した新しい存在だ。だからこそ、私はこの雑音を愛してゆくべきだ。




SNS上でのやりとりや上司とのメール、飲み会での友人との会話や両親との他愛ない話、そのすべては平等である。なぜなら、私たちは数学だからだ。そうしたなか、私たちの身から剥がれ落とされる微細な雑音は、どこを彷徨っているのだろうか。私の生活は終わることもないまま、意味のない雑音は延々と生産され続ける。今日も、明日も、明後日も。


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 私は昔からインターネットが好きだった。幼少期にデジモンが流行し、そして2ちゃんねると秋葉原がまるで社会現象のように注目を集めている世の中を見て、とても期待に胸を膨らませていた少年時代を過ごした。それからもう何年たっただろうか、私たちは繋がり過ぎることをあきらめる一方、どこか自分自身を記号的存在のように扱うような世界が到来してしまった。そうした時代感覚は、一方で自分の唯一無二たる声を発することで創作を続けるような歌い手の活動として、他方ではそんな私たちが皆一様に同じ通販サイトや動画投稿サイトを使用する状況として見ることができる。そんな矛盾しながらも表出している人間性を、かつてデジモンと2ちゃんねるに憧れていた自分は見てきた。


 あらゆるものがただのデータとしてインターネット上に流出する中、そんな社会に沿うように教育されて生まれてきた私のような人間は、人間はみな等しく記号として扱い、数学的に処理されるべき存在と思って生きてきた。その一方で、インターネットのアルゴリズムは完全でもなく、完全な世界をどれだけ機械が描こうとも、それを支配するのが人間である以上、私たちはそこから先に進むことすら、できなかった。


 だからこそ、私は機械を通して出現した記号的、数学的な私たちが抱え込む人間性を考える必要があると思った。そしてその結果は、あるがまま展開される私の文章に隠された違和感のなかにあると思った。「言語交錯」の10曲を破壊し、作成された雑音(この楽曲の背景に流れている楽曲は「言語交錯」の楽曲を利用して作成されている)たちは、この私のただの日記と同様に不快なものであり、必要ではないからこそ削除されるべき「雑音」だ。だがしかし、いやだからこそ、私はこの雑音こそが「人間性」と称する必要があるように思う。


 そこに見られる新しいものこそ、デジタル化されないような私自身を表現できる余白があるのではないだろうかと考えている。私は昔から「新しいもの」を求めて、いろいろな創意工夫を凝らしてきた。そうした私の試みは、これまで公開してきた楽曲のすべてに反映されているだろう。人間は決して情報の集合体ではなく、必ず漏れ落ちてしまう「人間性」がどこかにあるはずだ。情報処理の中、本当は漏れ落ちてしまうはずの数多くの雑音たちと、社会的に意味はないはずの、私の7月中の日記たち。10曲を混ぜ合わせつぶした雑音は決して他の音楽とも異なった唯一無二性を帯びているだろうし、それは決して他人で代入することのできない、私自身の2021年7月中の生活の記録も同様のはずだ。これから先、あらゆるものがデータとして管理されていく中で、こうした雑音の集合体——他者にとっては不快とさえ思われるもの——は、きっと無駄な存在として切り捨てられる運命なのかもしれない。そうしたなかだからこそ、私は無駄を垂れ流すのだ。切り捨てられる私の生活こそ、私の無視できない要素であるはずだから。

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