番外編 記憶喪失の彼と暮らすこと6

「兄さん、火をくれ。俺も吸う」

そうやって、タバコを吸っていると、右から手が伸びてきた。見ると、忠助がタバコを咥えて薄く笑っている。

「なんでタバコは持っているのにライターは持ってないんだよ」

「兄さんだってそうだろ。タバコを持ってないくせにライターは持ってる」

「それもそうか。しかし珍しいな、君が吸うのは」

「人間、逃げ場所は多いほうがいいから」

 つまり、彼にとってもあまり気の進まない話題には違いない。忠助は口に含むだけの煙を軽く吐き出し、「やっぱ甘いほうがいいな」と苦笑した。

「景清君との生活が順調そうで良かったよ」やっと、切り出す。

「俺はもっと早くに音をあげると思ってたから、正直意外だった。頑張ってるな、兄さん」

「私だってその気になればやれるさ」

「その割にはこの間、『曽根崎さんが触った後の電子レンジが動かなくなった』って景清君からヘルプが来たけど」

「あれしきで壊れる電子レンジ側にも問題があると思わないか」

「兄さんなんだよ、問題があるのは」

 都合が悪いので黙る。忠助もいよいよ本題に入ることに決めたらしい。「なあ」深呼吸をすると、まだ長さの残るタバコを吸殻入れに押し込んだ。

「もし、怪異に関する景清君の記憶が戻らなければ、兄さんはこのままずっと〝何も知らない曽根崎慎司〟と〝怪異の掃除人〟の二重生活を続けるつもりか?」

 肯定で返そうとした。しかし何かが喉に引っかかったようになって、結局唸り声を漏らすだけに終わる。そしてそれは弟には曖昧な態度として伝わり、呆れたようなため息をつかれた。

「なんだ、迷ってんのかよ」

「違う。声が出てこなかった」

「薬飲んでるか?」

「一昨日は飲んだ」

「決められた期間は毎日飲めって佐倉先生に言われてたろ」

「景清君が管理してくれていないのがいけない」

「だからお前が管理しなきゃいけねぇんだってば。電子レンジにしろ薬にしろ、なんで秒で他のやつのせいにするんだよ」

 忠助は正論しか言わないので嫌だ。返事をしたくなくて、またわざと肺に煙を溜めて吐き出す。それでどうも若干弱気がにじみ出てきたらしい。砂利混じりの地面を眺めて、我ながら女々しい感情の混じった言葉を吐いた。

「……恐れ多くも待ち望んだ無知なる穏やかな日々だ。そうであればいいと描いた世界に、今の私はいる」

「うん」

「だから、もっと満たされるもんだと思ってたんだがなぁ」

 忠助は何も言わない。そこで私も続けたのである。

「彼と過ごすのは楽しいよ。トラブルといえば私の起こすボヤ未満ぐらいで、未知なる脅威に怯えることもない。今では景清君もだいぶ記憶が戻り、生活に支障のない程度にまで回復した。恐らく私は幸福なのだと思う」

「じゃあいいじゃねぇか」

「しかし、だ。どうも違和感がある」

 忠助がこちらに体を向けた。しかめっ面をしているだろうことは、見なくても予想できた。

「当たり前だろ。お前あの子の記憶消してんだぞ。前と同じなわけあるか」

「だが竹田景清であることに変わりはない。そして私は、それで十分だと思っていた」

「おう」

「なのになんか足りない」

「何お前。何様なの」

 この話題を出したのを後悔し始めていた。しかし今更引っ込めることもできない。私は大きくのけぞると、街灯に向けて煙を吐いた。

「……彼を彼たらしめているものとは、一体何なんだろうな」

 遠くで車の走行音がする。パトカーの音も聞こえてきた。それ以外はまったくの静寂の中、私達二人はくゆるタバコの煙に包まれていた。

「逆だろ」

 腕を組み、私によく似ていると言われる鋭い目で前を睨んで彼は言う。

「むしろ兄さんのほうに、景清君に対して求めてるもんがあるんじゃねぇのか」

「私のほうに?」

「多分だけど、お前も知らねぇ間に景清君の何かが必要になってたんだよ。何かはわかんねぇけどさ」

「何って何だよ」

「知るわけねぇ。そこは流石にお前が自分で気づけよ」

「ここまで意味深なことを言ったんだ。もう一声頼む」

「そこまで俺面倒見ねぇといけねぇの? 人間だろ、しっかりしろ」

 しかし、確かに忠助の解釈は妙に自分の中でしっくりきた。以前の竹田景清にはあって、今の彼にはないもの。顎に手を当てて考えて、一つ思い浮かんだ情景があった。

 切羽詰まった彼の表情と、その肩越しに見える夜明けの東雲色。川の水に濡れた髪は明るい茶色に透けており、直視し難い神々しさをたたえていた。

 それは、自分が彼に救われた時の記憶だった。お人好しや自己犠牲などというシンプルな理由だけでは到底説明できない、私の理解の範疇を超えた彼の行動。それらが一心に自分に向けられているのだと知った時、押し潰されそうなほどの衝撃を受けたのだ。

 ――あれか?

 顎に手を当てたまま首を捻る。

 ――だがもしもあれを欲してるとしたら、自分はよっぽど欲深くなったものだが。

「ま、概ね楽しくやっているようなら何よりだ。計画的にも破綻はないだろ」

 忠助が立ち上がる。夜も更けてきたのにあまり長居するわけにはいかない。これで話は終わりなのだ。

「あとは兄さんが記憶を消すのを見守って終わりだな」

「うわ、忘れてた。そうか、その作業が残ってたな」

「頑張れよ。もし発狂して、兄さんみてぇにでけぇ人間を気絶させるのは結構骨なんだ」

「気絶させられる自信があるのは流石だな。ちなみに私が失敗してまた入院した場合、景清君はどうなる?」

「俺が引き取るしかねぇんじゃないか」

「まあそうなるか」

「藤田も『立派なママになる』って張り切ってたぞ」

「教育に悪そうなママだ」

「柊は『弟が欲しかったからちょうどよかった』っつってた」

「君達既に一つの家族か?」

 あの狭い部屋に四人が押し合いへし合い暮らすのは大変そうである。やはり、彼はうちで引き取っておくべきだろう。

 忠助にタバコを渡す。意識を集中させる。脈拍が速くなっていくのを感じる。大きく息を吸い、曇らせる記憶を明確に脳に描きこんだ。

「……そうだな。休暇の延長だと思ってりゃいいよ」

 忠助の声が聞こえる。別の男の声のようにも聞こえた。

「兄さんだって、永遠に続くとは思ってないだろ」

 彼の言葉は聞かなかったことにして、私は邪悪極まる言葉が紡ぎ始めた。




「おはようございます、曽根崎さん」

「ああ、おはよう」

 翌日、ソファで新聞を読む私のもとに起きた景清君がやってきた。まだ眠いのか、私の隣に座ってぼーっと天井を眺めている。別に咎めるべきことでもないので、黙って新聞を読み続けていた。

「……変な夢、見ました」

「ほう、どんな?」

 悪い夢じゃないといいんだが、と頭の片隅で考える。だが彼の口調からそんな様子は感じられなかった。

「えっと、藤田さんの夢です。僕のオリジナルソングを歌ってくれてたんですけど、ちょっと嫌だったんで目覚まし時計を止めるみたいに頭を叩いたら静かになりました」

「それは愉快だな」

 そして半分事実だな。昨夜息抜きの散歩から帰ったら、おもりを任せていた藤田君が頭を押さえて涙目で出てきたから。

「あと、曽根崎さんの夢も見たんです」

「私の?」

「はい」

「内容は? また怖い夢か?」

「いえ」

 体を向ける私に、景清君は慌てて首を横に振る。それから少し笑って言ったのだ。

「綺麗な夢でした。曽根崎さんと一緒に、朝焼けの空を飛ぶ夢。僕は曽根崎さんを捕まえて、鳥みたいに背中の羽を広げて空を自由に飛ぶんです」

 その一言に、フラッシュバックのごとくリアルな映像が脳裏によぎったのである。何かを思い出しそうになる。だが強い忌避感で反射的に押し込めた。悟られないよう、彼から目を逸らした。

「……そうか」

 知らぬ間に新聞を強く掴んでいたが、無視して穏やかな声を貫く。

「また、見られるといいな」

「はい」

 無邪気に頷き、景清君は立ち上がる。忠助から教えてもらったトースターを使い、朝食用のパンを焼いてくれるつもりなのだ。その後姿を見ながら、私は原因不明の冷や汗が背中を伝うのを感じていた。そして、テーブルの上に置いていた薬の袋を掴んだのである。



番外編 記憶喪失の彼と暮らすこと 完

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