魔の再来
望月 栞
第1話
長谷川瑞希様
突然のお手紙、失礼します。稲荷神社・宮司の田畑雄二です。
先日はあなたのおかげで無事、犯人が見つかりました。今回のことで、他の神社に被害が及ぶことも無くなったでしょう。
ですが、現在あなたはいかがお過ごしでしょうか? 以前、自分が偶々気付いたから良かったですが、それでもあなたはとても怖い思いをされたのではないかと危惧しております。
ピピピッと目覚まし時計が鳴った。瑞希はもう少し寝ていたくて、しばらく無視していたが、結局は寝返りを打って目覚まし時計に手を伸ばした。ゆっくり体を起こし、しばらくボーっとして布団から這い出る。
のそのそとキッチンへ向かって、食器棚からマグカップを取る。冷蔵庫からミネラルウォーターを出し、マグカップへ注いで飲み干す。そのままそれを流しへ置き、リビングのテレビを点けた。
「昨日、〇〇市の〇〇神社で境内の賽銭箱に油を掛けられる被害がありました。神社仏閣への油被害は先週から続き、今回で三件目です」
「またか」
瑞希は自然と呟いた。最近はこの話題をよく耳にする。政治に興味がない瑞希の印象に残っているのは、このニュースくらいだった。
瑞希はその後の天気予報と占いを見ながら、ご飯とみそ汁を食べた。食器を洗い、洗面所へ行って歯を磨き、洗顔をする。めんどくさいと感じながらその他の身支度を整えて、足取り重く職場へ向かった。
最近、瑞希は仕事で残業することが多かった。上司は断らない瑞希に当然のように書類の山をわたし、瑞希よりも先に会社を出る。それはそれでどうなのかと思わなくもなかったが、上司よりも先に終わっても帰りづらく、瑞希は他の同僚に協力してもらうこともなかった。話さないわけではないが、同僚と仕事以外の話をほとんどしない。職場に親しいと言える人物がいなかった。その方が一人の時間が多くて気楽だし、一緒に休憩を摂るとなったら気を遣わなくてはならなくなるためだ。
しかし、厄介な先輩がいた。
「もう少しで終わりそうね。じゃ、これもね」
山本幸代は自分の向かいの席に座る女性社員に自分の仕事を押し付けた。上司がいなくなった後、その場にいる誰かに仕事を振って自分は帰るということを繰り返しており、瑞希も仕事を押し付けられたことがある。瑞希に限らず、職場にいるほとんどが彼女を嫌っていたが、誰も何も言えない。いわゆるお局様だ。
瑞希が社会人になったばかりの頃は付き合いで同僚と飲みに行き、先輩や上司、仕事の愚痴をこぼすこともあったが、今では会社とアパートを往復するだけの生活を送っている。今日も瑞希は予定より二時間残業して退社した。最近は帰り道で転職しようかと考えがよぎることもしょっちゅうだった。それでも動かないのは、学生時代に就職活動が上手くいかず、やっと手にしたのが今の派遣の仕事だからだ。
瑞希は電車に乗って最寄り駅に到着すると、コンビニに足を運ぶ。今日の晩御飯の買い出しのためだった。一から作るのが煩わしく感じ、売り場に残っていた値引きされている弁当を一つ選んでレジに並んだ。会計が済むと、コンビニを出てアパートへ向かう。少し空気が冷たく感じ、空を見上げると雲の合間から三日月が見え隠れしていた。
いつも通る帰り道の途中には、稲荷神社がある。人通りの少ない道でアパートに向かって歩くと左手にその神社の鳥居が見える。その入り口に人が立っていた。瑞希はなんとなくその人物を見ながらだんだん神社に近づいていくと、その人物は頭から足先まで全身黒づくめなのに気付いた。
なんか怪しい……。
瑞希は距離を保ちながら様子を伺うと、その人物は持っていた黒い鞄から瓶を取り出した。その中身を鳥居の柱付近にこぼす。液体のようだ。
あれって……
黒づくめの人物はこぼし終わると、瑞希の方へ振り返った。目が合い、瑞希は一瞬固まってしまった。その人物の鋭い眼光に瑞希はひるんでしまっていた。
「何をしているんですか?」
神社の奥から声が聞こえて、瑞希は金縛りから解かれた。鳥居の奥から声をかけていたのは神社の宮司だった。瑞希が黒づくめの人物へ振り向くと、もうすでにその場から走り去っていく後ろ姿しか見えない。宮司は鳥居の傍へ来ると、その柱を凝視した。油の匂いが漂っている。瑞希は宮司に言った。
「今、走っていった人がそこに何かかけていったんです。それ、たぶん……」
「油ですね。うちもやられたか」
悔しそうに言って、宮司は瑞希を見ると驚いたように目を見開いた。まるで今そこに瑞希がいることに気付いたように。
「あの……?」
「あっ、すみません。……今の人の行ない、見ていたんですか?」
瑞希は頷き、スマートフォンをバッグから取り出した。
「これって、今話題の油被害ですよね? 警察に連絡します」
「ありがとうございます。あなたは何もされてないですか?」
「はい。大丈夫です」
瑞希は一一〇番連絡した。数分後、警察官が二名やってきた。
「ご連絡してきた長谷川瑞希さんですか?」
「はい。油が掛けられたのはここです」
瑞希は鳥居の根元を指し示した。警察官ふたりはそれを確認し、背の高い方が宮司に目を向けた。
「あなたはここの神社の宮司ですか?」
「そうです。田畑雄二といいます」
「では、おふたりにお聞きしたいのですが、誰かがここに油を掛けていたのを目撃しましたか?」
「私、見ました」
瑞希は声を上げた。
「マスクをしていたので顔は半分隠れていましたけど、髪が肩くらいまでの全身黒い服の人がやっていました。油を掛けていた後に目が合ったんですけど、すぐ宮司さんが来たのでその人は走って逃げていきました」
「なるほど」
背の低い警察官が宮司に訊いた。
「では、あなたは見てはいないんですね?」
「やっていたところは見ていませんが、鳥居のそばに黒い服を着た人が立っているのに気付いて声を掛けました」
「それで逃げていったと」
宮司は頷いた。
「それで、ええと……こちらの長谷川さんが油のことを教えて下さり、110番して下さったんです」
瑞希は通りかかった時の状況をより詳しく警察官に説明し、ようやく解放された。いつもより一時間ほど遅い帰宅だった。リビングで買った弁当を食べながら、黒づくめの人物の睨んできた目を思い出して、身震いした。
「早く捕まってくれるといいな……」
今話題の事件が近所で起こったことに不安と驚きを感じずにはいられなかった。
次の日、瑞希は定時で仕事を終え、山本がトイレに立った隙に抜け出した。明日、母方の祖母の一周忌のために早めに帰って準備をする必要があった。
コンビニに寄ってATMでお金を下ろす。そこを出て家に向かうなか、風がしだいに強くなり、路上に咲く花がさわさわと揺れる。
その道すがら、瑞希は奇妙な違和感を覚えた。立ち止まり、振り返る。
「気のせい……?」
後ろには誰も歩いてはいなかった。瑞希はなんとなく気味が悪くなり、足早に家を目指す。
その途中、神社の前に昨日の宮司がいた。瑞希に気付いて軽く会釈をしてきた。
「昨日はありがとうございました」
「いえ……。犯人、見つかるといいですね」
「はい。……お急ぎの用事ですか?」
瑞希の様子に首を傾げながら宮司は訊いた。
「用事は特にないんですけど……明日、朝早いので色々準備があるんです」
「そうですか。引き留めてしまってすみません。気をつけてお帰り下さい」
瑞希は宮司に見送られて帰路についた。一息つき、明日に備えてクローゼットから喪服を引っ張り出し、アイロンをかける。いつの間にか、宮司に会ってから不安は消えていた。
雨の音が聞こえ始め、窓を開けると雨足が強くなっていた。瑞希は喪服を着て、一時間半かけて実家に帰省した。家の庭には青い紫陽花が満開に咲いていた。
「ただいまー」
「おかえり」
リビングから父親である敏夫の声が聞こえた。瑞希が覗くと、敏夫はテレビをつけたままソファに座って新聞を読んでいる。ニュースでは今日も油被害の事件を取り上げていた。
洗面所へ行くと髪を梳かし、真珠のネックレスをつけている母親の季実子がいた。
「今日、昼から法要だよね?」
「うん、そう。もうすぐお寺に行くよ」
季実子の支度が済むのを待って、家族三人そろって家を出た。敏夫が運転する車に乗って寺に向かう。
「そういえばニュースでやっていたけど、この間の油の事件、瑞希のアパートの近くじゃない?」
「うん。目撃したの私だし」
季実子はひどく驚いて言った。
「大丈夫だったの?」
瑞希は頷いた。
「宮司さんもいたし。犯人は全身黒い服装で見るからに怪しかったよ」
「顔は見たの?」
「一応。でも、マスクしていて男か女かわからなかったけど。すぐ逃げていったし」
「おかしなことする人、多いから気をつけろよ」
運転しながら敏夫が言った。
最近の時事問題やワイドショーから、各々の健康に関する話などをしているうちに、寺に着く。車を停め、祖父母の墓へ足を運ぶと親戚がすでに掃除を済ませた後で綺麗な状態だった。瑞希らはお寺の中へ上がって親戚である伯父の家族と叔母夫婦に合流し、伯父の孝雄にお仏前を渡す。待機場所で座布団に座ってお茶を飲み、談笑しながら法要の時間になるのを待っていると住職がやってきた。
「準備が整いましたので、御宝前へお願い致します」
その場にいた全員が腰を上げた。御宝前の右側に男、左側に女と別れて向かい合う形で座る。少しの間待っていると住職が参り、法要が始まった。住職が木魚を叩きながら経を唱え、瑞希達はそれを聞きながら順番に回ってきた香炉を受け取り、焼香を済ませる。御宝前に置かれた写真の中の祖母は目を細めて笑っていた。
やがて経が唱え終わり、法要が終わると墓に線香をあげるために外に出た。雨足は少し弱まっている。線香に火をつけてくりぬき香炉に置き、手を合わせた。
「おばあちゃん、おじいちゃんとあの世でも仲良くやっているかしらね」
先に線香をあげた季実子が言った。瑞希は首を傾げ、あの世の祖父と祖母を想像した。
「どうだろうね。でも、おじいちゃんは寂しくなくなったでしょ」
「そうね。まだ生きていたときに実家に帰ると、おじいちゃんがここ痛いだの体調が悪いだのよく言っていたけど、あれってかまってほしかったからなのよね」
「そうなの?」
季実子は頷いた。
「私達がいないときはケロッとしていて全然平気なんだっておばあちゃんが呆れていたよ」
生前の祖父や祖母の話を聞きながら、昼食を食べに孝雄が予約していた和食料理屋を目指そうと車へ歩を進めると、瑞希は誰かとぶつかった。
「あ、すみません」
瑞希はとっさに謝ったが、相手は軽く頭を下げただけでそのまま墓地の方へ行ってしまった。
「大丈夫か?」
敏夫が心配して瑞希に声を掛けた。
「うん。平気」
瑞希らは車に乗り込み、伯父の車の後を追って料理屋に移動した。
到着すると予約席に通された。テーブルの上にはすでに料理が用意されており、ノンアルコールビールと烏龍茶、オレンジジュースの瓶が置いてある。瑞希はその中から烏龍茶を選んで栓を抜き、自分のグラスに注ぐ。
全員が揃うと孝雄がノンアルコールビールの入ったグラスを片手に話し始めた。
「本日は天気の悪いなか、母の一周忌にお集まりいただき、ありがとうございます。母もみんながこうして揃ってくれて大変喜んでいるんじゃないかなと思います。それではみなさん、グラスをお持ちいただいて……献杯!」
全員でグラスを持ち、献杯と一言口にしてからそれぞれが手にしている飲み物を飲んだ。
コース料理を堪能するなか、向かいに座る季実子とその右隣に座る叔母の会話が瑞希の耳に入る。
「そういえば、火傷の痕が他に広がって残っていなくて良かったわよね」
「そうね。手にはかかったみたいだけど、それも少量だったからね」
「何の話?」
瑞希は気になって思わず季実子に訊いた。
「おばあちゃんの手の火傷よ」
瑞希は祖母の手の火傷の痕を見たことはあったが、それ以上のことは何も知らなかった。
「昔ね、女性の訪問着に硫酸をかけてくる輩がいたのよ。硫酸魔って呼ばれていたんだけどね。おばあちゃんが友人の披露宴に出席した帰りに、その被害に遭ったことがあって」
「えっ!?」
「でも、ほとんど着物にかかったの。他の被害者の中には顔や首に浴びてしまった人がいたらしくて。おばあちゃんは幸いにも火傷の痕は少ない方なのよ」
「今でも変な人いるからね。瑞希ちゃんは今、一人暮らしでしょう? 用心してね」
叔母に心配され、瑞希は頷いた。
その後も談笑しながら最後のデザートまで食べた。食事を済ませると解散になり、親戚に挨拶をして車に乗る。そのまま実家の最寄り駅まで連れて行ってもらった。駅前のロータリーに到着すると、瑞希は荷物を持って車の扉を開ける。
「気をつけてな」
「たまには連絡しなさいよ」
「うん。送ってくれてありがとう。じゃあ、また近いうちにね」
車を降りて、駅の中に向かう。空はすっかり曇ってしまっていた。
改札を抜けようとした時、瑞希は後ろから誰かに肩を叩かれた。振り返ると、眼鏡を掛けた黒髪の女性がいた。
「あの、これ」
女性が差し出してきた手には瑞希のハンカチが載っていた。
「あ、すみません……! ありがとうございます」
女性は瑞希がハンカチを受け取ると、改札を通ってホームへ下りていった。
定期を取り出した際にハンカチを落としたのだと気付き、瑞希は改札を抜けてトイレに向かいながら定期とは別のバッグの外ポケットにハンカチをしまう。
「あれ?」
ポケットの中に見覚えのない小さなメモが入っていた。四つ折りにされた手のひらサイズの紙を広げる。
警察に話したな。これ以上、誰かに話したらただじゃおかない。おとなしくしていろ
瑞希は驚きのあまり、しばらくそれから目を離せなかった。瑞希を睨む黒づくめの人物の瞳が脳裏にちらつき、しだいに震えていた。
「どうして、こんなものが……」
瑞希は今日一日のことを思い出す。知らない間に遭遇してバッグに入れられていたのかと考え、先程の女性が思い浮かんだ。思わずトイレの入り口に設置されていたゴミ箱に捨て、瑞希はホームへ階段を駆け下り、電車に飛び乗った。
アパートへ向かう際、神社の前の通りを歩く。ここを通らなければ瑞希は帰宅できない。不安に駆られ、一刻も早く帰りつきたい思いで通り過ぎようとしたとき、聞き覚えのある声が瑞希を呼んだ。
「長谷川さん?」
振り向くと、鳥居のそばで箒を持っている宮司がいた。
「あ、どうも……」
「こんにちは。法事ですか?」
瑞希の服装を見て田畑は訊いた。瑞希は頷く。
「そうでしたか……。あの、もしかして具合でも悪いですか?」
「え?」
「あ、すみません、急に。歩いてくるのが見えたんですけど、顔色があまり良くなさそうだったんで、つい声を掛けてしまったんです。大丈夫ですか?」
「……はい」
「そうですか。気のせいならいいんです」
瑞希は自分の変化に気付いた宮司に不安を打ち明けたくなった。しかし、メモに書かれていた内容が頭をよぎり、ぐっと抑え込んで開きかけた口を閉ざした。そんな瑞希に対し、宮司は尋ねてきた。
「あの、もしかして長谷川さんってとなり駅の近くの高校に通っていませんでしたか?」
思ってもみない質問に瑞希は戸惑った。
「はい、そうですけど」
瑞希の答えに宮司の声のトーンが上がった。
「あ、やっぱり! もし、人違いだったら申し訳ないなと思ったんだけど、自分もその高校に行っていて……。二年生から三年生まで同じクラスになったことあるんだけど、覚えてない? 田畑です」
宮司に言われて瑞希は記憶を遡った。そして一人の少年を思い出した。
「あ、田畑君!」
田畑雄二は瑞希の高校時代のとき、友達というほどではなかったが、二年間同じクラスで仲良く話をしたことのある唯一の男子だった。当時、実家が神社だということも聞いたことがあった。
「そう! 思い出した? やっぱり勘違いじゃなかったんだな」
瑞希は全く田畑に気付いておらず、そもそも忘れていた。
「あの田畑君だったんだ……。わからなかったよ。それじゃ、ここが実家の神社なんだね」
田畑は頷いた。
「卒業したあと、ここを継ぐために神道系の大学に行ったんだ。まだ父さんは現役だけど、俺も宮司になったんだ」
「すごいね。こんなに近くだったなんて思わなかった」
「本当だな。今度また、ゆっくり話そう。法事の後なのに引き留めてごめん」
田畑と別れて瑞希はアパートへ帰りついた。思ってもみない人物との再会で、誰かと親しく話したのは久しぶりだったのだと気付いた。
翌日、瑞希はいつも通り支度を整えて、出勤するために駅を目指していた。その途中、階段を降りようとすると背中を強い力で押された感触がした。
「えっ」
不意を突かれ、目の前の景色が一変した。瑞希は踏ん張れずに階段から落ちる。
「うっ……」
瑞希は首を回して階段の上を見上げた。だが、そこには誰もおらず、足音もしなかった。
「大丈夫ですか……!?」
ゴミ出しに近所の家から出て来た主婦らしき女性が駆け寄ってきた。起き上がりたかったが、節々が痛んだ。
「すみません、階段から落ちてしまって……」
「あ、無理しないでください!」
瑞希は主婦が呼んだ救急車に担ぎ込まれることとなった。当然のごとく、仕事を休んだ。幸いなことに検査で大きな異常は見られず、捻挫だけですんだ。体を打った痛みはあったため、一日だけ入院することになった。
病室で窓の外の今にも雨が降りそうな曇り空を眺めていたが、やがて不安が去来し、瑞希は怖くなった。
「やっぱりあのメモ……?」
瑞希は掛け布団を深く被った。
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