第7話【帰ろう】

「腹が減ったぞ、鬼灯」



 鬼灯が旧校舎に行くことはなくなった。


 理由は単純だ。

 旧校舎に出現する幽霊が、半ば強制的に理科準備室へ引っ張り込むのだ。



「腹が減ったぞ、鬼灯」



 基本的に鬼灯は親友の永遠子に会えればいいだけで、別に銀髪赤眼の男子生徒の方には興味がない。



「腹が減ったと言っているだろう、鬼灯!!」


「おじいちゃんご飯はさっき食べたでしょ」


「オレをおじいちゃん扱いするな!!」



 骨格標本を腹いせに殴りつける銀髪赤眼の男子生徒――ユーイル・エネン。


 鬼灯も毎日のように幽霊を引き寄せる訳ではない。

 そもそも彼は校内に彷徨さまよう幽霊を片っ端から食べているので、これ以上は太りそうだ。――いやまあ、幽霊は太らなさそうだが。


 ユーイルは「腹が減ったぁ!!」と叫び、



「オレが餓死してもいいのか!!」


「幽霊が二度も死ぬとは考えられないけど」


「薄情者!!」


「幽霊が何を言ってるの」


「可愛げのない奴め」


「貴方に可愛げなんて見せて私の利益に繋がるかしら」



 鬼灯はツーンと素っ気ない態度でユーイルに応じ、ユーイルはぐぬぬと悔しがっている様子だった。本当に幽霊らしくない幽霊だ。


 鬼灯とユーイルのやり取りが面白かったのか、コーヒーを啜る黒海音弥くろうみおとやは声を押し殺して笑う。

 まあ、彼の変人ぶりも慣れたものだ。ビーカーでコーヒーを飲む理科教師を初めて見たかもしれない。漫画や小説の中だけの存在だと思っていた。



「最初に見た時も言い争っていたけど、面白いなぁ」


「どこが面白いのだ、こんな馬鹿みたいなやり取りが。こっちは真剣だと言うのに」


「そんなに腹が減ったんなら茶碗に白飯をよそって、箸でも突き立てればいいんじゃないか?」


「供養飯にするな!!」



 旧友にもおちょくられたユーイルは「むきーッ!!」と憤慨していた。


 標的が黒海音弥くろうみおとやに移行し、ユーイルはそちらに飛びかかっていく。

 コーヒーがどうの、というやりとりを横目に見ながら鬼灯が息を吐くと、やりとりを傍観していた永遠子が「お疲れ様」と労ってくる。



「あの自分勝手な幽霊には参っちゃうよね」


「まあ……でも、彼なりに助けてくれるのは事実だから」



 鬼灯が認識できる幽霊が格段に減ってきている。


 それは、ユーイルが片っ端から幽霊を食べているからだ。

 彼の胃袋は底なしなのか、目についた幽霊をおやつ代わりに食べてしまうのだ。おかげで見える幽霊もユーイルと永遠子とわこぐらいになり、ちょっと助かっている。


 このやりとりも、彼にとっては遊びの一種なのだろう。本気で腹が減れば、自分で校外に出て幽霊を食べてきそうだ。



「ふーん、そうなんだ」


「うん」


「ところで鬼灯ちゃんさ」


「どうしたの、永遠子とわこ


「痩せた?」



 鬼灯は口を閉ざす。



「幽霊になったあたしが言うのもあれなんだけど、ちゃんと食べなきゃダメだよ? だって鬼灯ちゃんは生きてるんだもの」


「ちゃんと食べてるよ」



 心配する永遠子とわこに、鬼灯は笑いかける。


 無理やり笑っているようには見えないように、自然体を心掛ける。

 痩せたということは認識していないが、彼女が言うのだからそうなのだろう。無理をしていることに気づかれないようにしなければ。


 すると、下校時刻を促すかのように校舎内へチャイムが鳴り響く。



「……そろそろ帰るね。家のこともしなきゃいけないし」


「うん。また明日ね」


「うん」



 永遠子とわこは特に何も言わず、鬼灯をそのまま送り出してくれる。


 学生鞄を肩からかけた鬼灯は、この部屋の主である黒海音弥くろうみおとやに会釈する。コーヒーを啜る音弥は「気をつけて」と当たり障りのない言葉をかけてくれた。

 いざ教室から去ろうとすると、先程まで腹ペコ怪獣と化していたユーイルが何かに気づいたように言う。



「鬼灯よ。オマエ、ご家族はいるのか?」


「…………」



 見透かすような赤い瞳を向けてくる男子生徒に、鬼灯は答える。





 ☆



 幽ヶ谷鬼灯かすがだにほおずきに家族はいない。


 全員死んだとされている。

 交通事故だと聞かされている。



「…………」



 帰路を辿りながら、鬼灯は鉛のように重たい足を懸命に動かしていた。



「…………」



 本当は家に帰りたくない。


 あんな場所に、鬼灯の心が休まる空間などないのだ。

 隅から隅まで鬼灯の嫌な空気が漂い、今にも逃げ出したくなる恐怖が充満している。


 頼れる親戚などなく、帰りたいと思える理由もない。

 それでも帰らなければならないのだ。


 あの家は、鬼灯の家なのだから。



「…………」



 台風が直撃すれば吹き飛びそうなボロボロのアパート。

 そこの空間だけ異様に静かな雰囲気があり、鬼灯自身の呼吸の音がやたら大きく聞こえるほどだ。ひっくり返った植木鉢に色褪せた三輪車などがアパートの表に放置され、得体の知れない恐怖を覚える。


 アパート一階の一号室、そこが鬼灯の自宅だった。



「ただいま」



 鍵の施錠を解いて、薄い扉を開く。



 ぎぃー。



 蝶番が軋む音が耳朶に触れる。


 入ってすぐに見えてくるのは台所。汚れた皿が積み重ねられ、そこで頭を項垂れさせた男がまな板に向かっている。

 錆びた包丁を何も載せられていないまな板に叩きつけ、嫌な音が部屋中に響く。



 だぁん、だぁん、だぁん!


 だぁん、だぁん、だぁん!



 一心不乱に、何の目的も意味もなく。


 鬼灯は靴を脱いで部屋の中に足を踏み入れ、部屋の奥を目指す。

 と言っても、歩いてすぐだ。居間となる部屋には三面鏡が置いてあり、そこに女が腰掛けている。



 じぃー。



 顔のない女だ。


 目と鼻、口さえもないのっぺらぼう。髪の毛はボサボサで着ている洋服もボロボロの状態である。

 三面鏡に向かう女は、微動だにせず鏡を見つめている。何をする訳でもなく、ただじっと。



 じぃー。



 鏡越しに目が合った気がして、鬼灯は視線を逸らした。


 自分の領域として確保した部屋に飛び込み、学生鞄をベッドに叩きつける。

 扉を閉めて背中を預け、鬼灯は耳を塞いでずるずると座り込んだ。



「もう嫌……」



 幽ヶ谷鬼灯かすがだにほおずきに家族はいない。


 だけどあれは家族だ。

 幼い頃、死んだはずの家族だ。


 鬼灯の家族は、

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