絶望と白馬
*
*
昼間から、何台もの豪奢な馬車を見送った。
どれも『白鷺城』と呼ばれる皇城ロスフォールに向かって行くもので、普段のレティアならそれらの美しさに羨望の溜息の一つでもついていたはずだ。
帝国の皇太子が婚約者を皇城に迎え入れてから、夜会が増えたと言う者もいる。
レティアが……先日の大規模な帝都の火災で焼け出された町の者たちがどんな状況にあっても、貴族の夜会や宴の
宮廷という場所は、民衆にとっていつだって『別世界』だ。
城下町の薄暗い路地を、レティアは重い足を引きずりながら歩いていた。
いつものように——白いブラウスにグレーのハーフパンツをサスペンダーで吊るし、美しい面輪と艶やかな長い髪を帽子の下に隠して。
夕刻まで続いていた貴族の馬車の往路は既に閑散としていて、仕事を終えた荷車や疲れた顔つきの男たちが家路に就くのを時々見送るのみだ。
(……今日もダメだった。うちにはもう、お母様と育ち盛りのルカに食べさせるひとかけらのパンもない。日雇いでもいい、とにかく仕事を……。仕事を探さなくちゃ。そして少しでも、お金を稼がなくては)
父親が亡くなってから、病に倒れた母と幼い弟を支え続けてきた。
レティアの父は帝国内でも広く名を知られた行商人だったが、友人に騙され、多額の借金を背負った挙句、二年前に病で亡くなった。
レティアが行き着く想いはいつも同じ——どうして私は『女』なんだろう。
女だから、出来ないことがたくさんあり過ぎた。
男なら、出来ることがたくさんあるというのに。
町中を一日中ひた歩き、ひどい空腹と疲労感にさいなまれながら何気に鞄の膨らみに手をやれば、指先に小さな包みが触れる。その包みを、鞄の布ごしにぎゅっと強く握りしめた。
『それをお売りなさい』
耳元によぎる母の言葉。
娘ひとりに苦労をかけていることを案じて、父親の唯一の形見であるオルゴールをレティアに託したのだ。
(一体、いくらになるんだろう……?)
すっかり空洞になってしまった心に一縷の迷いが生じたけれど、すぐに首を振ってそれを打ち消す。
(ダメ……。これだけは何があっても、絶対に売れない!)
この数日というもの、新しい仕事を探すために訪れた先々でひどい罵声を浴びせられ……レティアの胸は張り裂けんばかりに傷つき、壊れかけていた。
朝から何も口にしていないせいで目はかすみ、棒のようになってしまった足は既に感覚を失っている。気付けば、町外れの教会にまで来てしまったようだ。
(ここを過ぎると働き口がありそうな所は無くなる。それに日が落ちてから随分時間が経ってしまった。今からじゃ、まともな仕事なんて見つかりそうもない……)
教会の石柱に寄り掛かろうとしたとき、隣の酒場から出てきた男とぶつかった。
「おい、どこ見てんだよ!」
突然ドン! と鈍い音がして、身体がぐらりと揺らぐ。その衝撃で帽子が落ち、レティアの長い髪が夜風に流れあらわになった。
「なんだ、女か……ウン?」
口は悪いが身なりの整った中年の男だ。酷い酒臭さに、空腹のレティアは胃の中の液体が迫り上がり、何度かむせた。
「良く見りゃ、綺麗な子じゃないか」
男はじとりとした視線でレティアを舐めまわし、口元を下品にほころばせながらにじり寄ってくる。
「若い女がこんな所で何してんだ? 青っちろい顔をして、どうせろくなもの食ってないんだろう?!」
「………」
「どうだ。今夜一晩、俺の相手をしないか?」
唐突に手首を掴まれ、驚いて腕を強く引く。けれど男はレティアを離さない。
レティアの背筋にゾクリと冷たいものが流れ落ちた。身体がガクガク震えている。思い出したくもない、忌まわしい記憶が脳裏を掠める——。
酷い嫌悪感と恐ろしさが吐き気とともに迫り上がり、レティアは口元を両手で覆った。
「ぃゃ……」
「なに……怖がることはない。代金は高くはずむぞ?」
「やめて……っ!」
ようやく放った言葉とともに男の手を振り払い、残された力を振り絞って夢中で路地を走り逃げた。
走って、走って……感覚のない足は、他人のもののように身体についてくる。それらが二本の柔らかなゴムのように、ぐにゃりと絡まって。
何かにつまづいたのか、湿った石畳に前のめりになって勢いよく倒れ込んだ。
長い髪が風を孕み、地面に落ちる。
「はあ、はあ……んっ、はあ…………」
衝撃ですりむいたのか、手のひらが脈打つようにじんじん痛んだ。突然脇腹に鈍い痛みを感じて息を呑む。
「邪魔なんだよ!」
チッ、と憎々しげに舌を鳴らし、レティアを足蹴にした男が背を向けた。
冷たい風が、追い討ちをかけるように頬をかき殴る。
孤独と痛みと、失望の中で、彼女の頭にはある言葉がぐるぐる廻っていた。
『代金は高くはずむ』
(この体を、一晩……。一晩だけ、お金持ちの男に売りさえすれば)
たった一晩の身売り。
それだけでレティアが置かれている状況が良くなるとは思えない。けれど彼女の傷んだ心にはもう、まともに考える力が残っていなかった。
孤独感と絶望感だけが澱のように降り積り、レティアをいっぱいにしてゆく。
——その時だった。
ダダッ、ダダダッ。
地鳴りのような
灰色にぼやけた視界の奥に、大きな白い影が
地鳴りは次第におだやかになり、ゆっくりになり……白い影が立派な白馬だと気付いた時、それは少し離れた所で静止した。
馬から飛び降りた一人の青年がローブを
「…——大丈夫か?」
低く艶やかな声が、頭の上から落ちてくる。
青年を取り巻く風にまみれて、爽やかな良い香りがレティアをふわりと包んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます