前回の聖女クリスティーナ・ルルシエ2
三年が過ぎ、このまま穏やかな生活が続くのだと思い始めた頃、またしてもクリスティーナに理不尽な現実が降ってきた。
ある日の夕刻、一人の女の子の戻りが遅く、皆で心配していると、突然、孤児院の入り口が騒がしくなった。
クリスティーナが慌てて向かうと、その光景に息を飲んだ。
変わり果てた女の子が町の男に抱き抱えられていた。
十歳になったばかりの女の子は土ぼこりにまみれ、顔や全身のあちらこちらが青あざのために腫れ上がっていた。
鼻が折れてしまったのだろう、おかしな方向に曲がり、鼻下から胸元までどす黒く染めていた。
特に酷いのは左腕と両足で、赤黒く変色し、あり得ない感じにぶら下がっていた。
唯一の救いと言うべきか……。
強烈な痛みをともなうであろう現状、彼女の意識は失われていた。
孤児院全員で必死になり、土ぼこりを取り、出来る限りの手当を行った。
町医師が駆けつけてくれて治療をしてくれたが、頭への衝撃が強すぎて、今日を乗り切るのも厳しいだろうと悲しげに首を振った。
孤児院長も伝手を当たると出て行ったが、それまで持つとはとても思えなかった。
クリスティーナは少女の右手を優しく握った。
今朝、『クリスお姉ちゃん! 手伝う!』と洗濯かごを持ってくれたその手は、ひんやりとしていた。
クリスティーナはその手を両手で包むと、優しく温める。
女の子をここまでにしたのは、貴族だったという。
その貴族は、ただ通り過ぎただけの女の子を呼び止めると、使用人達に滅多打ちにさせたという。
何一つ、何一つ瑕疵のない女の子が暴行される様子を、その貴族は大喜びしながら笑っていたという。
(何でこんな酷いことが出来るの!?)
クリスティーナは大粒の涙をこぼしながら、下唇を噛む。
脳裏に、泣き叫びながらラインハルト・マガド男爵に強姦される母クラーラの姿がよぎる。
こんな理不尽があってはならない。
こんな理不尽など許されてはならない。
「光神様……。
この子をお救いください!」
女の子の右手を包む両手、そこに額を当てながら、クリスティーナは懇願する。
「この子まで、この子まで、わたしから奪わないでください!
お願いします!
お願いします!」
クリスティーナの必死の願いが、光神に届いたかどうかは定かでは無い。
だが、少なくともこの少女に秘める恐るべき才能は揺り起こされる事となる。
何やら騒々しい音に、クリスティーナは目を覚ます。
遠くから「その貴族は教徒からの除外を検討する!」などという怒声が近付いてきて、訳もわからず、寝惚け眼を擦った。
そして、はたと気付く。
「え!? 朝!?」
クリスティーナは慌てて、女の子に視線を移した。
包帯に巻かれた少女、彼女がモグモグと何やかを呟きながら眠っていた。
本来、苦痛で強張っているはずのその表情は、暢気さすら見えた。
赤く汚れた包帯の隙間から覗く、折れていた筈の手足や腫れ上がっていた顔が、普段とさほど変わらないように見えた。
「そ、そんな……」
クリスティーナは両手で口元を押さえると、溢れる感喜が堪えきれず大粒の涙をボロボロと零し始めた。
「光神様!
光神様、ありがとうございます!」
クリスティーナは思わず女の子に抱きついた。
それに揺り起こされたのか、女の子が「ふにゃ?」と声を上げる。
すると、後ろから「これはどういうことだ?」と声が聞こえた。
涙を流すクリスティーナが女の子を抱きしめながら振り返ると、呆然とした顔の孤児院長とその同じ年頃の男性がこちらを見ていた。
その日以来、クリスティーナは患部に触れるだけで癒やしを行う事が出来るようになった。
その力は強大で、後に王都を震撼させた流行病を彼女はギリギリの所で押さえ込んで見せた。
その無償の献身と明るい性格も相まって、貧民街の者達はこのように呼んで愛した。
ルルシエの聖女、クリスティーナ・ルルシエと。
――
ところがである。
”今回”のクリスティーナ、母親であるクラーラは生きている。
ばかりか、エリージェ・ソードルにマガド男爵邸から連れ出されて、散々甘やかされている。
大半の平民は家事や見習い仕事に汗を流している年頃であり、大半の貴族令嬢は勉強や礼儀作法を厳しく躾けられている年頃である。
にもかかわらず、このクリスティーナ、日中は庭園などでゴロゴロしているか、小説を読みながら内容に楽しみ悶えるか、エリージェ・ソードルに甘えるかをしていて、夜は寝台でゴロゴロしているか、小説を読みながら内容に楽しみ悶えるか、エリージェ・ソードルに甘えて時に一緒に寝ている。
つまる所、このクリスティーナという少女、オールマ王国屈指のだらけた九歳児なのである。
「ふにぁ~」などとだらし無く口を開けるクリスティーナを不思議そうに眺めていた女であったが……。
不可思議に思うだけで、さほど気にしない。
聖女聖女と言ってはいたが、結局の所、エリージェ・ソードルとしては、別段、クリスティーナが聖女で無くても不都合は無かった。
この女はあくまでも可愛らしいの一点で連れて帰ったに過ぎない。
まあ、たまには癒やしの魔術で領運営等を手伝ってくれれば助かる――その程度の認識である。
その程度の認識であるのだが……。
だらけきったクリスティーナを見て、少々、心配になり始めた。
この女、エリージェ・ソードルは公爵代理である。
そうあろうと、必死に過ごしていた。
なので、政務についてそれなりに精通している。
更に、王妃になるべく礼儀作法や一般教養なども身につけている。
故に、この女、令嬢でありながらそれなりに能力は高い。
年齢的な問題さえ解決できれば、比較的女性の社会進出が進むオールマ王国であれば、突然公爵家を出る事になったとしても、文官も家庭教師としても、それなりにやっていけるだけのものを備えていた。
魔術を加味すれば、そこらの木っ端貴族ぐらいの生活を送る事は可能だろう。
だから、仮にクリスティーナが癒やしの魔術が仕えなくても、一生面倒を見る事ぐらいは自信があったし、実際、この女は平気でできるだろう。
ただ、不安に思う部分も確かにあった。
それは、”前回”の様にエリージェ・ソードルがおかしくなってしまった時のことだ。
恐らく、自分は始末されるだろうと思っている。
始末されるべきだと思っているし、そうなるよう女騎士ジェシー・レーマーに力を強くする術も教えたし、それ以外にも手があるようであれば打つ気でいた。
ただ、そうなった時にクリスティーナがどうなってしまうかが心配だった。
弟マヌエル・ソードルが支えてくれるだろうとも思うが、それとは別に、生きて行くための伝手を作ってあげたいと思った。
「クリス、ちょっと起きなさい」
エリージェ・ソードルが彼女の背中を押して、上半身を起こす。
そして、少々寝惚けた顔で「ふにゃ? にゃに?」などと言っているクリスティーナと正面に向かい合うようにすると、エリージェ・ソードルは真剣な表情で話し始めた。
「クリス、あなた貴族令嬢とお友達になりなさい」
「んんん~?
お友達~?」
「そうよ、そのためには礼儀作法を覚えなくてはならないわ」
貴族令嬢と友達になれば、最底辺の男爵とて使用人を雇い入れている。
白の魔力持ちであるクリスティーナがそこまで困窮するとは思えないが、最悪の場合、侍女として仕えるという手もある。
ただ、そんなエリージェ・ソードルの思いなど理解できないクリスティーナは
「……えぇ~止めておくよぉ~」
などと露骨に面倒くさそうな顔をする。
エリージェ・ソードルは諭すように続ける。
「クリスティーナ、良く聞きなさい。
ご本はね、同じ様に好きなお友達がいれば、更に面白くなるらしいのよ」
「そうなの?」と目を丸くするクリスティーナにエリージェ・ソードル重重しく頷く。
「だけど、普通の平民だと本は買えないし、下手をすると文字も読めないわ。
だからクリス、貴族令嬢とお友達になるの」
クリスティーナは困ったように眉をハの字にする。
「でもエリーちゃん、クリス、貴族様とお話なんて出来ないよぉ~
第一王子ルードリッヒ・ハイセルが「だから、僕らは貴族どころじゃ無い――」などとぼそぼそ言っているが、説得に懸命なエリージェ・ソードルには聞こえていない。
「大丈夫よ」と更に続ける。
「わたくしがちゃんと教えてあげるから。
今も楽しい本が、倍は楽しくなるのよ!
試してみない!?」
もちろん、”倍”などは適当に言っているだけだが、クリスティーナは目をキラキラさせながら頷いた。
「分かった!
倍、楽しくなるなら、クリス頑張る!
頑張って、貴族のお友達を作る!」
そんな宣言をするクリスティーナに、エリージェ・ソードルは優しく微笑みながら頷くのだった。
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