婚約について当面の状態1
王都ソードル邸、応接室にて、なにやら疲れた顔をする第一王子ルードリッヒ・ハイセルの対面に、静かにお茶を飲む女がいる。
エリージェ・ソードルである。
この女、茶碗を置きながら、少し不思議そうに訊ねる。
「殿下、ずいぶんお疲れのようですね?
何かございましたか?」
第一王子ルードリッヒ・ハイセルは顔をひきつらせながら答える。
「いや、なに、精神的に疲れる事がここ最近多くてね。
ハハハ……」
暗にエリージェ・ソードルが原因だと含めているのだが……。
この凡庸たる女は気づかない。
少し、気遣うように言う。
「まあ、それは良くありませんね。
うちのミーナは抱きしめると相手の精神を落ち着かせる不思議な能力を持っているんですが……」
そこで、この女、侍女ミーナ・ウォールを一瞥する。
小柄な侍女は必死に取り繕ってはいるが、主のとんでもない発言に顔を青ざめさせ、体を細かく震わせていた。
「え、そんな能力あるの?」
と第一王子ルードリッヒ・ハイセルも視線を侍女ミーナ・ウォールに向け、何かを察したのか、苦笑しながら視線を戻す。
「まあ、どちらにしても僕がお願いするわけには行かないよ。
これでも僕も、十歳になったからね。
夜会の舞踏ならともかく、他のご令嬢に密着する訳にはいかないよ」
「そうですわね。
せっかくの能力なのに披露できなくて残念ですわ」
などと、エリージェ・ソードルは惜しそうな顔をする。
そして、改めて第一王子ルードリッヒ・ハイセルに向かって姿勢を正した。
「それはそうと、殿下。
婚約者でもない女の元にむやみに訪問するのは、余り誉められたことではありませんよ」
「いやいや、待ってエリー!
婚約はまだ、破棄されてないだろう!?」
そして、侍女ミーナ・ウォールや従者達に視線を向ける。
察したのか彼らは、一礼をして部屋を出た。
それを確認した後に、第一王子ルードリッヒ・ハイセルは続ける。
「なあエリー、父上ともそう言う話になったんだよね!」
「まあ、それはその通りなのですが……」
エリージェ・ソードルは口元に閉じた扇子の先を持って行き、思い返す。
――
婚約破棄宣言の翌日、エリージェ・ソードルは説明のために王城にいた。
その時、国王オリバーと二人きりで話し合うこととなった。
エリージェ・ソードルは取りあえず”前回”の事を隠すこととした。
第一王子ルードリッヒ・ハイセルを害した事で自分だけではなく、ソードル家に対して不利益なことになるのを恐れてのことだ。
それに正直、自分でもなぜ時間が戻ったのか良く分からない現状、それを公にして国王オリバーや周りを無為に混乱させる訳にもいかなかった。
”今回”起きていないのである。
だったら、変なことをせずに、自分が第一王子ルードリッヒ・ハイセルから距離を取ればよい、そう結論を出した。
とはいえ、凡庸な女のすることだ。
原因を隠した状態で説明した所で、『近くに自分がいると殿下が危ない』とか『何かの弾みで殿下に怪我を負わせてしまうかも知れない』とか非常に抽象的な話に終始してしまうこととなる。
それは、話している当人ですら、(説得力がないかも)と不安になる有様だった。
だが、聡明なはずの国王オリバーは意外なほどすんなりと、エリージェ・ソードルの話に理解を示した。
それには、この女も拍子抜けをするほどであった。
全てを聞き終えた国王オリバーは立ち上がり、長いすに座るエリージェ・ソードルの隣に座り直すと、女の手を取り、優しく微笑んだ。
「エリー、君が不安に思っているのはよく分かった。
公爵家の事もあるし、わたしとしては無理強いするつもりは無いよ。
ただ、これだけは覚えていて欲しい。
わたしは、わたし達は、君が意味もなくルードリッヒを傷つけるとはこれっぽっちも考えていないことにね。
そして、エリー、わたし個人として君が何か不安なことがあるのであれば手助けをしたい。
そう思っていることも、ね」
「陛下……」
目の奥が熱くなるのを、エリージェ・ソードルは感じた。
身勝手に婚約破棄をする自分に、これほどまで心を砕いてくれることに嬉しくも、申し訳ない気持ちが胸を圧迫する。
(わたくしは、このような素晴らしい方の嫡子を害してしまったのね)
目を一度、強く
(陛下にも、殿下にも、必ず何かをお返ししなくてはならないわ)
などと、心に誓っていると、国王オリバーは少し言いづらそうに続ける。
「ただエリー、婚約破棄については了解したが、時期について今だと少し問題があるんだ。
申し訳ないが、発表は少し待ってて貰えないか?」
国王オリバー、問題があるといいながら、”問題”の内容を言わない。
だが、凡庸たる女は、少し不思議そうにしつつも、王族的な何かがあるのだろうと勝手に解釈をする。
「畏まりました。
こちらの勝手な都合で願い出たことですもの、陛下のご采配にお任せします」
とあっさり頷く。
国王オリバーは眉をハに字にしながら続ける。
「エリー、これは実に政治的なことなんだ。
だから、ひょっとすると君が学院を卒業するまで出来ないかも知れない。
だが、安心して欲しい。
その時は、オリバー・ハイセルの名に誓って、良縁を整えてみせる。
だから、その時を信じて待っていてくれ」
幼少期の場合ならともかく、成人を超えた頃の婚約破棄は外聞が非常に悪い。
だが、この女はあっさり頷く。
「陛下、畏まりました。
お気になさらないで下さい。
わたくしは最悪、未婚でも構いません。
マヌエルに頼んで、公爵領の端にでも屋敷を用意してもらい、ひっそりと暮らします」
エリージェ・ソードルには正直、第一王子ルードリッヒ・ハイセル以外の元に嫁ぐ意味を見いだせずにいた。
それだったら、弟マヌエル・ソードルをかげながら支えつつ生きていく方が良いように思えた。
だが、国王オリバーは首を横に振りながら悲しげに言った。
「エリー、その年でそのようなことは言わないでくれ。
少なくともエリー、王妃の前では言ってはいけないよ。
卒倒してしまうから」
「……はい。
そういたします」
マルガレータ王妃は理知的で、貴族夫人に対してほとんど興味を持たないこの女が、珍しく尊敬する女性だ。
だが、そんなマルガレータ王妃に女は先ほど、婚約破棄について凄い勢いで問いつめられた。
「エリー、なにがあったの!?
ルードリッヒが何かしたの!?
あの子に不満な点があれば、わたくしがひっぱたいて矯正するわよ!」
ここまで感情を露わにするマルガレータ王妃を見たことがないエリージェ・ソードルは、目を白黒するしかなかった。
「エリー、王妃は立場があって余り言えないが、君のことをとても心配しているんだよ」
「はい、恐れ多くも有り難いことです」
――
エリージェ・ソードルは第一王子ルードリッヒ・ハイセルを見つめながら、諭すように言う。
「それでも殿下、先日”ご説明”した通り、わたくしの側には極力、近寄ってはなりません。
殿下はこの国にとって大切な御方なのですから」
女の真摯な言葉に、第一王子ルードリッヒ・ハイセルは頭痛を堪えるように顔を少し歪ませた。
「いやエリー、君を疑うようなことはしたくないんだけど……。
君が将来、僕を殺すとか、時間が戻ったとか言われても……ねぇ」
エリージェ・ソードルは国王オリバーにすら話していない事全てを、第一王子ルードリッヒ・ハイセルに対しては話している。
これは、この女なりの誠意であり、この女がそれだけ第一王子ルードリッヒ・ハイセルを想っていることに他ならないのだが……。
十才そこそこの少年は、その突然の告白に、ただただ困惑した。
「ねえ、エリー」と第一王子ルードリッヒ・ハイセルは少し上目遣い気味にエリージェ・ソードルを見る。
「婚約はそのままに、君が僕を殺さない方法を探る――という方向で考えるというのはどうだろう」
「うっ!」とエリージェ・ソードルは第一王子ルードリッヒ・ハイセルのその表情に思わず頷きそうになる。
第一王子ルードリッヒ・ハイセルのお願いは、この冷淡で効率ばかりを追求するこの女の数少ない、心を揺らがすものであった。
だが、重ねていた自身に左手を右手でぐっと掴みながらそれを堪える。
そして、視線を強くしながら首を横に振る。
「なりません。
少しでもその可能性があるうちは、わたくしの側にいることも極力避けなくてはなりません」
この女は”前回”、第一王子ルードリッヒ・ハイセルを害してしまった現実もさることながら、それ以上にその異常な所行を、しばらくの間、異常と”認識できなかった”事に強い危機感を持っていた。
そう、この女は”前回”の、生徒会室での惨劇をきちんと覚えていたのだ。
にもかかわらず、逆戻った”今回”、暢気に執務を行っていたのだ。
この女としてはとてもではないが、飲み込めるものではなかった。
(ひょっとしたら、なにかしら外的な悪意にハメられたのかしら?)
などと疑っている。
それが晴れるまでは、とてもではないが婚約者を続ける気にはなれなかった。
「わたくしとて、婚約者のままでいられたらとも思います。
しかし殿下、王族の身に少しでも危険があるのであれば、その芽は摘まなくてはなりません。
まして、次代の国王となるお方であれば、なおさらです」
「そ、そうは言ってもだよ……」
と言いながら、第一王子ルードリッヒ・ハイセルは二の句に窮すのか、眉を寄せている。
第一王子ルードリッヒ・ハイセルとしては、このまま婚約破棄になれば、王位も遠のくと言いたかった。
だが、国王オリバーから王家の弱みとなりえるその事について言及するのを止められていたので、言葉に詰まってしまったのだ。
だが、そんなことも察せられないエリージェ・ソードルは納得して貰えたと判断し、寂しげに微笑んだ。
「わたくしとしても、殿下がこれから発展させるであろう国の姿を、殿下のお側で見ることが出来ないのは残念に思います。
ですが、どこでになるかは分かりませんが、一国民として殿下の偉業が轟くのを楽しみにさせていただきます」
そこまで言うと、ふと思いついたことを言う。
「あ、殿下。
あと、いくら美しい聖女とはいえ、お立場を考えますと分別無く言い寄るのはよろしくないかと。
せめて、王妃となるご令嬢とのお世継ぎが生まれてからにして下さい」
「いやエリー、正直言うと、君がいるのにその聖女に僕が
苦笑する第一王子ルードリッヒ・ハイセルに対して、この女、なにやら訳知り顔でうんうん頷いて見せた。
「殿下、殿下が信じられないというお気持ち、よく分かります。
わたくしも、一目見るまでは正直、殿下が平民の娘に夢中になってたなどと信じられませんでしたから。
しかし殿下、あの子の愛らしさは実際目にしないと分からないと思います」
そこで、エリージェ・ソードルは顎に手をやり少し考える。
そして、言った。
「殿下、もしよろしければお会いになりますか?」
「え?
会えるの?」
「ええ」と言いながら、この女、どことなく自慢げに言った。
「あの子は可愛らしいですし、なにより、将来聖女と呼ばれるぐらい魔術に秀でていますから、現在、当家に来てもらってます。
だから、すぐにでも会うことも可能ですよ。
ただ、先ほども言いましたが、いくら美しいとはいえ、身分のことを考えますと良縁にはなり得ません。
それに、なによりもあの子自身はどうやら望んでいませんので、言い寄ったりするのはやめて下さいね」
「そんな心配は無いと思うけどなぁ……」
と言いつつも、エリージェ・ソードルが余りにもはっきりと言っているからだろう、少し不安そうに語尾を小さくした。
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