第26話 新しい日々 仲違い(なかたがい)

「ゴミ出し完了っと。さて――――」


 雑多なプラゴミが詰まったゴミ袋を共用のゴミ捨て場に置きやる。相変わらずきゅうりと豆腐パックが中身の大半を占めているが、進歩もしている。カップ麵といった栄養の偏ったインスタント食品類はほぼ口にしなくなった。


「さ、行くかいね」


 ゴミ捨て場から視線を上げたとき、こちらに気づいたパジャマ姿のお隣さんが通りの向こうから歩み寄る。


 僕が言うお隣さんは日乃実ちゃんと園さんのどちらかに当たる。が、僕を見かけて無視でもUターンでもなく、わざわざヒラヒラと手を振ってくれる人物は。


「島さんナイスタイミングゴミ出しぃ。ちょうど良かった、今夜うちで飲みませうぜ」


 園さんだけだ。


 無視やUターンは日乃実ちゃんがする。あの日から僕と日乃実ちゃんは会話すら交わしてない。日乃実ちゃんがそうするように、僕が彼女を突き放したから。


「ガッコ、今日は入学式で終わりなんすよね? だったら時間空けといてくださいよぉ。なんならあたしから島さん呼びに行きますんで」

「ありがたいですけど、でも」

「やっぱご近所付き合いが寂しいのって良くないと思うんすよね~うん。二年間も音沙汰ないお隣さんのせいで、凍えた思いをしたさや子さん的には」


 七時くらいに来てくださいね。そんじゃ!


 片手を振るとあっという間に部屋へ戻ってしまった。


(……断る隙もなかったな)


 園さんは時折、有無を言わさぬ宅飲みの誘い方をするんだよな。


 だけどむしろ、いま誘われるのは都合が良かったかもしれない。

 日乃実ちゃんより園さんと親しくなっておけば、既成事実というかアリバイができる。


 それがあれば、僕と日乃実ちゃんをセットにしようとする学校内の白い目に対して、堂々と否定を叩きつけられる。


 そこまで思い至ったとき、自身の唾はヘドロに変わり、肺の空気が粘つく錯覚に襲われた。

 吐きたかった。考え方は非常識で、あまつさえそれが日乃実ちゃんのためだと根っこの部分で唱えている。


「もういい……行こう。学校」


 四月でも駐車場は地下らしいひんやりした空気で包まれている。


 ブレーキペダルを沈めて、エンジンをかける。うすら寒さを振り切るべく、やがて車を発進させた。


 学校に許可を得ての自動車通勤は現状の精神にはありがたかった。運転に集中できるおかげで気がまぎれる。


 結局それも一時しのぎでしかなかったけど。学校に到着して車を降りると春のぬるい大気が衣服の中で全身にまとわりついて、入学式が終わったあとのホームルームまで落ち着かなかった。


 新入生は全十クラス、一クラスにつき四十人弱。そのうち、僕の担当は三組だ。日乃実ちゃんが所属するのも、この三組。


「ええ~みなさん、はじめまして。先生は今日からみなさんの担任になりました、宇石うつわ めぐみといいます」


 黒板に『宇石 恵』と記名すると「ウイシではないです」と、宇石先生は教師らしい高くよく通る声でひとボケかましてみせた。


「先生は今年度から初めて教師になりました。なので、みなさんがいま緊張しているように、先生もドキドキしているんですけど、精一杯頑張ります! どうぞよろしく!」


 春にぴったりな挨拶に教室の生徒皆が拍手を贈る。宇石先生は初々しく一礼すると僕に場を譲った。ほら、あなたの番よ、と目線一つで促され教壇に立つ。


 四十人もの生徒がこちらを向く。どんな先生だろう、と単に僕への興味を示す生徒もいれば、品定めしてやろうという意気も放つ生徒もいる。


 悟られないように口を湿らせて、


「はじめまして、島慎太郎です。宇石先生ほど若くないけど、実は僕も教師としては新人です。もうじき四十七。採用試験の年齢制限もギリギリで教師になりました。これから、何卒、よろしく」


 本当は「もともと記者で、経験を活かして社会科を担当します」あたりまで言いたかったけど、視線に耐え切れず早々に礼をして撤退。


 次は生徒たちが番号順に自己紹介をしていく。安藤から始めて、瀬川、高野…………そして。


「計屋日乃実ですっ。ちょっと雪国っぽいとこから上京してきましたっ」


 職員会議で、日乃実ちゃんは一組にしようと提案したのは僕だ。可能な限り物理的に距離を取るべきだと、あの当時から画策していたから。

 結局のところ却下されて、僕と同じ三組の一員となってしまった。


「東京は初心者なのでっ、みんなといろんなところに遊びに行けたらいいなと……思ってますっ。ヨロシクっお願いします」


 僕の目は自己紹介をする日乃実ちゃんを向いているようでその実、彼女向こうにある景色に焦点を合わせていた。

 拍手が鳴るのを聞いてから拍手をした。周囲に合わせることで、不審な振る舞いを見せないよう努めた。


「なるほど、ね」

(――――……っ!)


 狙いをつけたようなつぶやきが、僕の鼓膜を竦ませる。

 視線の主は教壇の横、生徒に対するそれとは異なる温度を帯びた宇石先生が、無機質な双眸でこちらを睥睨へいげいしていた。生きた心地がしない。


 自己紹介が終わり、宇石先生が明日の連絡事項を伝えたところで、ホームルームは解散となった。


 生徒はまばらに帰宅しだし、宇石先生と僕は職員室へ向かう。このあとは昼食を兼ねて宇石先生と明日の段取りを打ち合わせるのだ。


 特に委員会役員決めについてだ。クラスを割り当てる際にリーダー候補がどうと議論したのはこの委員会役員決めのためでもあるから、大事なことだ。


 だというのに、弁当を広げた彼女の第一声は思いがけないものだった。


「計屋さんという子」

「っ! ……はい」


 僕は身構える。さっきから弁当に手をつけられないでいた。


「図書委員とかが向いているかしらね」

「な……なぜです?」

「それか保健委員ね。おとなしそうでしょう、あの子」


 おとなしいだって? 選りにも選った上で、さらに選りに選って日乃実ちゃんがおとなしい。


 とんでもない。思わず宇石先生に向き直った。おかっぱとポニーテールは相変わらずで、生徒を前にしたときの柔らかい眼差しも職員室では鳴りを潜め、ツリ目を隠さず吊り上げている。


「……本気で言ってますかいね?」

「あら、あなたはどう思うの。あの子について」

「そりゃあ、文実委員とか」


 文実。文化祭実行委員のこと。

 祭りやイベントごとで一番にはしゃぎそうな日乃実ちゃんのことだ。中心人物としての役回りの中でも、真面目さが必要そうな学級委員よりは適任だと思える。


「クラス分けのときもそうだったけど、」


 もはや食事をしながら、という雰囲気の打ち合わせではなかった。


「計屋さんのどの部分を見てそう思うのかしら?」


 詰問、という表現がぴったりの問い方で、彼女の言わんとしていることがわかった。


「計屋さんの自己紹介を宇石先生も聞いていましたよね。みんなと遊びたいって、積極的そうな生徒だと思いませんでしたか? まぁ、緊張こそしてましたけど」

「自己紹介の数秒間で、あの子の性格を推し量ったということかしら?」

「その通りです。曲がりなりにも教師ですからね」

「フン、愚かね」


 冷たい面に鬼の首でも取った、勝ち誇ったような顔が現れる。


「クラス分けの会議時点では知り得ないことだわ」

「いやあれは……フィーリング、偶々ですって。適当な提案をして僕が恥かいてたのは、宇石先生も隣で見ていたじゃないですか」


 あの場では「考えなしに発言する無能」という体を貫くことでキナ臭さを誤魔化したはずだった。学年主任をはじめ他の先輩教師方にも「これから覚えていきましょう」と憐れまれもした。


 そんな中、いまだ激しく懐疑を抱くのが彼女だ。


「べつに偶々ならそれでいいのよ。ただ、よく憶えておくのね。計屋さんは一人で上京してきたのは、通信簿からわかるわ。当然、確認したわよね? そう、わかってるならいいわ。生まれてからずっと手を借りてきた親元を離れて、たった一人でここへ来た。きっと大事な決断をしてこの学校を選んだはず」


(知ってるさ。明るく見えて、大きな覚悟を背負っていることも、打ちのめされて心細くなる瞬間があったことも。日乃実ちゃんの、向き合える強さを。アンタより一年先に知ってる)


 言ってやりたいことばかりで頭が煮えそうだが、それをぶちまければ全て終わる。喉まで出かかった言葉は全て、胸へ押し込めた。


「トラブルや悩みを抱えても近くに助けてあげられる人はいない。あの子は弱い立場にあるわ。それでも大事なもののために、勇気を出して家を発ってきた。教員として、よく注意を払うべき……島慎太郎」

「……なんですか」

「弱さに付け込んだりしたら、殺す」


 何も知らないくせに。

 勝手なことばかり言われて、頭に血が昇るのがわかった。


 それきり、宇石先生から日乃実ちゃんの話題を上がることはなかった。

 お互い開きっぱなしになっていた弁当にようやく口をつけ、明日以降の打ち合わせをする。


 すぐに信頼しろなんて難しいだろうし、接し方にはトゲがある。が、仕事であればとりあえず僕のことは副担任として扱うつもりらしい。


 打ち合わせ後も言えないことばかりのやりきれなさが胸にわだかまっていた。気の悪さを払拭するように、僕は一人になってもなお山積みの仕事をこなしていく。まだ先の話だけど、授業の準備をしなくてはならないから。


 時計の長針が幾度も周回した頃、職員室を後にした。乗り込んだ車内で今朝と同じ匂いを嗅いだとき、ふと宅飲みの約束を思い出した。


(誘われていてよかった……今度は、本当の意味で)


 鬱屈な日は酒が飲みたくなるのも仕方ない。園さんには愚痴にならない程度に話を聞いてもらいたかった。

 僕と日乃実ちゃんのことを以前から知っている園さん相手なら、気兼ねない時間を過ごせるだろうから。


 車を発進させる。やはり運転はいい、気がほぐれていく。夕方の街を開放的な心持ちでマンションまで走った。

 が、ゆるりと入浴を終えたとき、約束の時刻を少し過ぎてしまっていると気づく。


 自室を出て一つ左の部屋、そこが園さんの部屋だ。一年前から変わってない。日が暮れ、肌色の照明が落ちる共用廊下を数歩渡ってインターホンを押し鳴らす。


 しばらくすると、しかし開いた玄関の向こうから現れたのは園さん――――ではなく、あのツリ目がちな同僚だった。


「なっ……なんで宇石先生が?」


 オフだからか眼鏡を掛けているが、レンズの奥の目つきを見れば人違いの線はないとわかる。僕を一目見るなり、安息モードだった目元に激烈なキツさを宿らせるので、いやでも、わかる。


「なぜですって? こちらのセリフだわ……」


 落ち着いた紺の寝間着姿、いつもは馬の尻尾だった後頭部が団子状に一まとめに括られている。要するに風呂上がりらしかった。


 お互い言葉も発さず数瞬、睨み合う。宇石先生を前にするとふと、自分がどんな表情をしているかわからなくなる。昼間のことを思い出して、苛立ちが顔に出たりはしていないだろうか。


「恵センセ、どったのー?」


 園さん宅の居間からひょこっと顔を覗かせるのは日乃実ちゃん。

 なぜ、彼女まで宅飲みの場にいるのか。一体なぜ。


「計屋さん!? 貴方は出て来ちゃダメよ!」

「その通りだ! 学校外で一緒になるのはマズい!」


 ん?


 刹那的に反応を示し合ってから、宇石先生の双眸が一層キツく歪んだ。彼女は日乃実ちゃんを僕から守るかのように腕を開く。


「一体、貴方は誰の心配をしているのかしら?」

「それはひの……、計屋さんのに決まってますよ」

「白々しいわね。自分の部屋に帰りなさ――――あ、計屋さんっ待ちなさい」

「もしかして……シンタローも呼ばれてたり?」


 開かれた腕の下を日乃実ちゃんの顔が通り抜ける。言葉尻に以前ほどのはつらつさがなく、自分から前に出てきた割には僕と視線が合わない。


 二週間振りに顔を合わせた彼女はなんだかぎこちなく見える。


 でも気持ちはわかった。日乃実ちゃん同様、どうしたって僕も気まずい。


「僕は今朝、園さんに飲もうって誘われて、それで」

「そのとお~~~~~り~~~~ぃひぃ~~~ーーー……、ぃひいぃ……ほぉらお入りくだせぇっや!」


 うお。酔い気味の園さんの手が二人の背後から伸びてくる。手は困惑する日乃実ちゃんも警戒心バリバリの宇石先生をも押しのけ、引きずり込むように僕を招いた。


「ああも~っ! さや子さん酒臭いっ」

「ちょっとさや子、何考えてるのっ! ダメよ、この男は――――」

「島さんも、日乃実ちゃんもぉ、『う』もみ~んなあたしが招待しましたよん。よこそぉお~~~」

「お邪魔します…………………………なんでこんなことになってるんだ……」


 園さんに導かれるまま座ると、なんと隣の座椅子に日乃実ちゃんが背をもたれさせた。お互い気まずい席順。

 僕の来訪により殺意を放散する宇石先生が対面、その横でトゲトゲしさを宥めながら園さんが座る。


「ぉらおら、島さんも来てくれたことだしぃ、飲みもん持ったかぉ? 日乃実ちゃんもほらぁ、注いだげるから」


 もちろんジュースだ。床のお盆にりんごとハスカップのパックが乗せている。


「いや散々飲んだし、酔い過ぎだしっ」

「んそぉ? しょうがないにゃあねぇえぇ。じゃ乾杯! 乾杯カンパイっ、かんぱいぃっひぃ!」


 今朝早くに、無理矢理な誘われ方をされたまではよくあることだった。


 でも僕以外に人が来ることは知らされてなかったし、取り合わせがこの二人ときた。

 座る場所だって、園さんにさりげなく誘導されたから腰をつけた。


 気まずいのを知ってか知らずか、わざわざ日乃実ちゃんの隣に。

 そしてどういうわけか対面に宇石先生。そもそも園さんは彼女と知り合いだったのか?


 園さん主催の奇妙な宅飲みに、なにかしらの思惑を察知せずにはいられなかった。

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