第24話 新しい日々 再会

 冬の澄んだ空気と暖かな春の気配が星空に混ざる三月中旬。どちらかといえばまだ冷たい夜風が、仕事でくたびれた僕の身体を震わせる。


「うぶるぅ……さむ。昼どきなら気持ちいい春風かもしれないけど……さむ」


 寒い外気から逃げるような早足でアパートの階段を駆け上がる。


 それにしても今日の会議は冷や汗ものだった。思い出せば身体だけでなく肝まで冷えてくる。


 新入生のクラス割り当て会議をしていた。

 約二週間後に入学予定の新入生。まだ顔を見たことない彼らのクラスを決めようという職員会議にて、僕はちょっと口を滑らせたかもしれなかった。


 くっ。恥ずかしさを振り切りたくて階段を上る足が速くなる。それほどまでに決定的な一幕だったのだ。


「ああ、くそ……明かりが点いてるってことは」


 玄関ドアのノブを捻る。鍵はかかっていなかった。


「お、きたきたっ。おかえりシンタローっ」


 廊下の奥、キッチンのあたりから少女の声が届いた。一人暮らしの僕の部屋に先客がいる。

 断っておくが、僕はいまだ独身、彼女なし。

 と来れば、合鍵を持つ人物は一人しかいない。


「今日もはりきって作っちゃいましたーっ! お風呂にする? ご飯が冷めちゃうから先に食べよっ?」


 五日前からこうだった。勝手に部屋に上がっては、僕がそろそろ帰って来るかというタイミングで冷えた身体に有り難い手料理をそろえてくれる、気ままな先客。


「ただいま……っていうのも変な感じだけど、ただいま」

「いーじゃん。そのうち慣れるって」


 慣れる。この関係に慣れる。


「夜ご飯のあと、大事な話がある。いいかいね?」

「? 食べながらじゃダメなんだ?」


 駄目だ、と首を振る。


「せっかくだから、食べるときは食べるのに集中したい」

「んんー……せっかく『私が作ったおいしいお料理』だから集中したいってことっ?」


 そうだ、と首を縦に振る。彼女の料理は大袈裟じゃなく美味しいし、疲れた心身に沁み渡る何かがある。


 もっとも、そっけない僕の首肯に対して、彼女の喜び方は大げさに見える。


 あの頃から変わらないな、と思う。

 堂々としていて、褒められればパッと笑う素直な明るさと、肘で小突いてからかってくる幼さ。


 あと髪型にも見覚えがある。サイドテールと呼ばれるものだ。

 笑うたび、からかうたび、料理を運び歩く今もそれは楽しげに揺れる。


「「いただきます」」


 五日前、園さんとは逆側の部屋に彼女は引っ越してきた。園さんと同じくお隣さんの関係になり、暇さえあれば僕の部屋に入り浸ること請け合い、という状態。

 約一年前、地元にまで持ち帰った鍵で、まるでそれが当たり前だ言わんばかりに施錠された玄関さえ勝手に開けて。


 仕事から帰って来た僕に、彼女は毎日のように料理を振る舞う。


「んふぅおいひぃ~さすが私」


 十か月振りに作ってもらった手料理が以前より美味しくなったのはもちろん、特筆すべきは彼女にとって課題だった手際が格段にレベルアップしていて、その成長に驚いた。


 この腕なら、きっと調理師科に通ってもやっていける。


「相変わらずみたいだな。あのオープンキャンパスから帰った後も練習したと見える」

「おほっ、そこまでわかるかねシンタローくん。私の料理を食べて来ただけはあるっ」


 ごめん計屋さん。今は何の味も感じないんだ。

 普段口にする生きゅうりの水分の方がまだ甘みがあるように思える。


 味蕾に問題があるわけではないことはわかっている。

 問題は気負いだ。この関係に対しての気負いと、これからする――――告白への気負い。


 つまるところ、緊張で味がわからないのだ。


「シンタローだって出来るよーなるしっ。なんたってこれから私がいくらでも教えたげられるからねっ!」


 これから、か。なんてことない会話の中にその単語が混じるだけで、僕は正直に答えられなくなる。


「「ごちそうさま」」


 食器を全て片付け終えて、いざ皿を洗おうというとき。


「シンタローにまかせるっ!」


 唐突にピューと廊下を駆けていく。皿を洗わずに玄関の方へ。


 彼女らしからぬ行動に眼鏡がずり落ちそうになる。唐突なのはむしろいつも通りだけど、好物の洗い物をほっぽるなんてよっぽどのことだった。


「気をつけて帰ってね」


 でもまぁそういう日もあるのかな、と慌ただしい背中に声を投げてやるが。


「気を付けてって、お部屋隣だしまだ帰らないよっ! シンタロー、話あるって自分で言ったんじゃんっ」


 じゃあなぜと今度こそ眼鏡がずれる。石鹼の付いた手では上手く直せない。


「見せたいものがあるのっ! 用意してくるから洗い物は譲ったげるっ」


 傍から聞けば押し付けているように聞こえるかもしれないが、彼女にとって洗い物は娯楽なので本当に譲ったつもりなのだろう。


 日乃実ちゃんは一つ敬礼を飛ばすと玄関を出ていった。




 洗い物が終わった頃、戻って来た彼女は学制服を身にまとっていた。


「どうよコレっ!? 可愛くないっ!?」


 ワイシャツの白。紺のブレザーと対照的な赤いリボンが前よりいくらか育った胸の元を飾っている。スカートはチェック柄。決してボーダーなどではない、これはチェック柄なのだ、憶えたとも。

 若さと希望を象徴するその服は活気溢れる彼女によく似合っていた。


「リボンとネクタイを選べるのがポイント高いよね~」


 学校指定のリボンとネクタイ。他でもない彼女がそれらを交互に胸元へあてがうのを目の当たりにして腹が決まる。


「シンタローはどっちが良いと思う?」

「計屋さん」

「………………ぇ」

「もう僕の部屋に来るのはナシだ」


 話は今日の職員会議に遡る。

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