第20話 最後の日 2/5

 現れたのは上下スウェット、むやみに飾り立てず、親しみが持てるネコ口が印象的な部屋主だった。


「どもども、おはようございまぁす~……おぉ?」


 黒いまつ毛に埋もれた糸目が日乃実ちゃんを捉えるなり、お隣さんはその手を彼女の脳天へ届かせる。


「日乃実ちゃんおっは~。今日は元気そうであたしゃ安心だよ~」

「そうかな? えへへ、おかげさまでっ」

「まっことかぁいいな~おのれは。うりうりうり~」


 ポンポンわしゃわしゃと頭やら頬を撫でまわす。日乃実ちゃんもまんざらではないので、さながら喜ぶ子犬と飼い主みたいな図になる。


「髪型も決まっとるねぇ。こりゃなんていうんだっけか」

「サイドテールっ!」

「そそ、それそれ。天使のお御髪みぐしあたしにニギニギさせちくり~」


 かくいうお隣さんは、肩口で短めに切り揃えた毛先を遊ばせるのみという、サッパリした人柄に似合う髪型。


 サイドテールをめぐって日乃実ちゃんと無邪気にじゃれる若さと、それでも決して過度にははしゃがない落ち着きがお隣さんを大人たらしめている。


 お隣さんはひとしきりじゃれ合うと日乃実ちゃんを腕に抱き、日乃実ちゃんもまたおとなしく彼女に背中を預けた。


「島さん」

「あ、はい」

「いやはや、お隣なのにずいぶんおひさになっちゃいましたね」

「そうですよね、二年振りくらいですかね?」

「ですです。あたしがいま大学三年なんで、二年と一ヶ月っってとこすね~」

「ん? 大学ぅ?」


 日乃実ちゃんはお隣さんの胸あたりからお隣さんの顔を仰いだ。私にわからない話をするなーと言いたげに会話に混ざる。


「そうだぜ~? あたしゃ大学進学と同時にここに越して来たのぜ」

「シンタローっ! さや子さんは大学生なんだってっ!」

「さすがにそれくらいは知ってたよ。初めて挨拶したときにに聞いたからね」

「結婚したらやっぱり二十五歳差婚だねっ!」

「おほぉっ、日乃実ちゃんは案外マセガキですなぁ」

「おいやめろヤメロ本人の前でっ。ったく……あ、それでですね」


 話題の行方があやしくなったので、舵を切るならここだ。


「これ、玉子焼きと浅漬けなんですけど。前に日乃実ちゃんを預かってもらっちゃったお礼に」


 僕の両手に一つずつ、ずっと持っていたタッパーをようやく差し出した。お隣さんのネコ口が意外そうに「O」の字を作る。


「いやはや、大したことしてないのになんかわるいっすよ~。でもありがたくいただきまっす」


 ありがとう、の言葉と同時に、タッパーの重みが僕の両手を離れ、お隣さんの手へと渡る。


 曲がりなりにも手料理だからか、あるいは贈り物そのものに慣れていないからか、馴染みのない感情に頬が緩んでしまうのがわかる。

 日乃実ちゃんにもお隣さんにも悟られたくなくていつまでもペコペコ頭を下げていた。


「はいはいっ! あと私からもコレッ、肉じゃがだよっ」

「おおっ、さすがやるね~日乃実ちゃん。前に言ってた通り、あんさんは料理うまだずぇ」


 日乃実ちゃんも下からタッパーを掲げて見せる。意外のO、が称賛のおお~に変わった。かなり余談だが、これら三つのタッパーは全て徳枝さんの餞別タッパーを使っていたりする。


「と思うじゃんっ? ところがどっこい、ぜんぶシンタローのお手製ですっ」

「ありゃ、そうなん? あたしゃてっきり島さんは」


 称賛のOが意外そうなOに逆戻りさせて、お隣さんの口が僕を向いた。


「自炊とかって、しないもんだと」

「いや、実際してないですよ。最後にまともなモノを作ったのは、多分園さんがここに来る以前ですから」

「あーやっぱりでしたか。たま~にあるんすよね、ゴミ捨て場に」

「ある……というのは?」

「カップ麵と豆腐パックだけが詰まったゴミ袋」

「そーそー。なのにシンタロー、さや子さんにお礼するからって張り切っちゃってたんだよっ」

「Oh……それはそれは」

「おい日乃実ちゃん?」

「だからはいっ、どーぞっ」


 日乃実ちゃんはお隣さんの手の上に「品」の形で肉じゃがのタッパーを乗せる。


 渡すつもりではなかった肉じゃが。これも余談だけど、残り物の肉じゃがを渡すことに渋い僕を見た日乃実ちゃんが「じゃあこの肉じゃが私が貰ってもいい?」と訊くので、イエスと答えたらこれだ。結局渡すことになっていた。


 曰く「私が貰ったものだから扱い方は私が決めていいでしょっ」とのこと。

 また、「せっかく作ったんだから食べてもらわないとダメだよっ。だって、食べてもらえるんだからっ」とも言われた。日乃実ちゃんなりに思うところがあるのかもしれない。


「島さん……あんなぁ」


 糸目の視線が今は痛く刺さる。


「いや違いますよ。日乃実ちゃんが勝手に言ってるだけであってですね」


 僕は別におかしな張り切り方はしてない――――はず。相手が女性だからとか、このお礼にそういうベクトルの意味はない。


 先ほどまでと違い、これは余談ではないのではっきり否定してしまってもよかったが。


「わかってますって。島さん誠実そうだし、コンビニのレジ打ちさんにお礼言えるタイプでしょう? 日乃実ちゃんがキャッキャしてるんは、あくまでおマセさんだからであって、ね?」

「……むぅ」


 不満気な唸りの出所はもちろん、口をとがらせる日乃実ちゃん。このお隣さん、やはり日乃実ちゃんより一回り大人らしい。なにせ物事の分別を備えている。


 お隣さんは手の中のタッパーを改めて確認するように覗くと、僕の見間違いでなければ糸目と口元に笑みをこぼした。


「あたしのバイト先、駅のコンビニなんですけどね」

「あ、はい」

「そこでいつも賄い、もとい廃棄品もらって帰ってくるんすよ。でもだんだん飽きてきてまして」

「ふんふんっ、それでっ?」

「だから、家庭の味ってヤツに飢えてたんですよね。ほんとう、ありがたいっす」


 正面の頭がペコリと下がる。仕事以外で大人から感謝を述べられるのも久々だと気づいた。

 仕事で頭を下げられるのとは色の違う感慨が胸に湧いたから、気づけた。


「いえ、どういたしまして。そう言ってもらえれば、僕としても幸いです」

「特にこの浅漬けと玉子焼きなんて、今朝のおつまみにちょうどいいかも。島さん――――」


 顔を上げたお隣さんはニッと笑みを深くする。笑顔の中でも、したり顔というに正確だ。


「酒飲みの心わかってますね~」

「狙ってたわけじゃないですけど、気に入ってもらえたなら良かったです」

「どうです、休みの日にでも一緒に飲んじゃいます? なんつって、にゃははは」


 そんな冗談交じりの立ち話と、日乃実ちゃんとの戯れを繰り返すうち、次第にお隣さんの口からあくびが漏れ出し始めた。


 お隣さんは夜勤明けで眠気も溜まっていることだろう、僕らはそろそろ退散するべきだった。


「では、僕らはこれで」

「いやはや、すいませんねぇ。いいモノ頂いた上にあくびなぞしちゃって」

「いえ、こちらこそお時間取らせてしまって、おやすみなさい」


 こうして、僕たち三人はそれぞれの部屋に帰っていく。


「さや子さんっ」

「んーにゃ、どったの?」


 最後に、扉と扉の距離で日乃実ちゃんが呼びかける


「食べ終わったタッパー、シンタローに直接返してあげてねっ」

「あいよ、かしこまり」

「郵便受けに置いとくのもナシだかんねっ」

「日乃実ちゃんの仰せの通りに、ってね」


 僕は一礼して玄関扉を閉め切るギリギリまで、日乃実ちゃんとお隣さんはバイバイと手を振り合っていた。

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