第4話 一日目 4/5

 もわっ――――。

寸胴鍋から解き放たれた大量の湯気が僕の視界を占領する。


「あははっ! めっちゃメガネ曇るじゃん、おもしろっ!」


 すぐ横で堪らず自身の健康的な太ももをバシバシ叩く。曇ったレンズのせいで何も見えずとも、そんな彼女の様子は容易に想像できる。


 僕ら二人はいま、出来上がったカレーの鍋を前にしている。使用はおろか、目にすることさえ久しぶりな我が家の寸胴鍋が、いまや立派に湯気を吐いて役目を全うしている様はなんだか現実感がない。


「むふふ~どうどうっ? おいしそうでしょ~?」


 小さな身体をくねくね揺らしてどう、どう? と目で尋ねてくる。

 眼鏡を白く染めない程度に鍋を覗き込んだ刹那。


「ああ美味し…いや、これは……ッ!?」


 美味しそうだと伝えようとしたすんでのところで、圧倒的なカレー属性の香りが僕の鼻孔に到達した。


「食べなくても美味しい……!」

「えぇ~!? せっかく作ったんだからちゃんと食べてよね?」

「いやいやいやホントに。すでにすげぇうまいんだって、特にニオイが」


 鼻が香りをキャッチした途端、胃腸がうごめき、唾液腺が活発になるのがわかった。香りを嗅いだだけで身体が「すでにカレーを食べている」と錯覚しているのだ。


 激しく立ち昇る湯気とともに鼻になだれ込むカレーの香りはほんのりと辛く、その辛い風味の中にバキッと際立つ旨味もある。

 比喩でも冗談でもなく食べる前から美味しいのだ。


 という脳内食レポを、僕が言葉足らずなせいで不満そうな日乃実ちゃんに全部伝えてみた。


「えへへへ、でしょ~もぅシンタローったら口が上手いんだから~しょうがないな~サービスでたくさんよそったげるねっ」


 たくさん食べて欲しそうにしていたので、よそうのは日乃実ちゃんに一任し、僕はその他おかずをテーブルに揃え座って待つ。


 やがてご飯を盛る日乃実ちゃんの鼻唄が止み、最後のメニューであるカレーが運び込まれる。


 カレーは、彼女の小さな身体に反比例するかのような山盛りだ。

 傍目には信じられないほどの大量だろうが、アクティブな彼女を知っている僕としてはむしろ大食い気質は解釈通りであった。


「はいどーぞっ、シンタローの分だよ」


 ゴドン。大盛りの皿がその重量を音で伝えながら置かれる――――僕の前に。

 富士山みたいな仰天サイズのカレーは、彼女のではなく僕のらしい。


「とんでもない……これ僕の分かいね? 本当に?」

「サービスだよっ」


 にひっと歯を見せ、まばゆい笑顔を向けられた。この純粋さを前にしては、もはや誰も何も言い返せまい。


 こうして食卓に山盛りならぬ山カレーと、おかずにはサラダとみそ汁が彩りよく並ぶ。カレー同様、どれもが美味しそうな輝きを放ち、やはりどれもが大盛りだった。


 我が家の小さなテーブルがまさに何十年ぶりというレベルで華やかになったのを確認してから、二人で合掌。


「いただきます」

「ふふん、たーんと召し上がれっ。私もいただきまーすっ」


カレーと白米を丁度よく掬い、辛いなと思ったら後味スッキリなサラダを食み、みそ汁をすする。みそ汁の塩味は丁度よく、優しさのようなものすら錯覚してしまう。

 麦茶を飲んだらカレーへ。辛くなったらサラダ。麦茶を飲む、またカレー。


 今までの生活では決して発生し得ない、二人分の食器の音がこの一室で今、鳴っている。


 じーっという気配を感じて顔を上げれば、日乃実ちゃんとバッチリ視線がぶつかる。彼女は動物番組に出演する小動物を見守るかのように、ニマニマと笑みを浮かべていた。


「わざわざ聞かなくてもわかっちゃうぐらいおいしいってカオしてるよ、シンタロー」

「あぁ、そりゃあもう! カレーは何回か自炊したことあるけど、昔の僕が作ったって絶対にここまで上手くは作れないな」


 市販のカレールーさえあれば誰でも一定のクオリティで出来上がるだろうが、彼女のカレーは香りも味も段違いに冴えていた。

 一人暮らしが始まってすぐの頃、自炊の成果物と母の料理をつい比べたりしたが、日乃実ちゃんのそれは比べるまでもなくトップに君臨できてしまう。


「ふふ~ん、ありがとっ。そんじゃほらほら、にんじん」

「ん?」

「食べてみてっ、これと……はいコレ」


 前触れもなしに彼女の皿からニンジンが二かけら送り込まれる。


「食べ比べる前にちゃ~んとお茶飲んでね」


 ぐいとコップを押し付けられる。これで口の中の味をリセットしろということだろう。

 なんとなく有無を言えない響きがあるので従って麦茶を飲み下す。


 富士山から丘くらいに減ったカレーの頂上にトン、とニンジンが二かけら。色や形は一緒だが、そのうちの片方は何故か半分くらいの小さなサイズだ。


 奇妙に思って彼女を目で伺っても「食べてよぅ」と促すのみなので、まぁ大人しく食べてみる。もぐ。


「ふむ……ん」

 ごくん。ニンジンは風味を残して食道を落ちていく。

「どお? どうよ?」


 まず口に運んだのは、普通サイズのニンジンだったのだが。


「どう? って言われてもな……うん、味がよく馴染んでて良いじゃないか。美味しい」

「だよねっ私もそー思うっ。じゃホラ、次はこっちの」


 食べる前にまたお茶飲んでね、ということなのでゴクっ。さっきのと合わせてコップは空になる。


 よもや日乃実ちゃんの作ったモノがマズいはずなどないが、なんとなく怪しくなって頂上にあと一つとなった半分サイズのニンジンを見やる。


 買った時は赤々としてたニンジンはほかの食材同様、うっすら黄土色に染まってテッペンに鎮座する。

 カレーの風味を継承し、味がしっかり馴染んでいる証拠だ、おかしなところは何もない……はずだ。


 小さなニンジンだけを匙で掬い口に放った。

これは――――。


「率直にキタンのない感想をゆっていいんだよっ?」

「うん? なんか……火が通ってない? というかべきか……」


 ちょっと固いな、と思ってしまった。


「そこで昼間の第二問、だよシンタロー。いま食べてくれた本来の食感を残した固めのにんじんと、一個目のほろっと崩れるにんじん。シンタローはどっちがお好み?」

「おっと、第二問っていえば……そんな感じの問題だったか?」

「ううん。おいしいにんじんと、おいしくないにんじん。両方買うのはなぜでしょーか? だったよ。でも、結局はそれと一緒」


 果たしてそれは一緒と言っていいのか、僕はあまり要領を得てないが、彼女は納得げに続ける。


「……ま、シンタローの反応を見たカンジ、柔らかいのが好きなんだよね、きっと」

「どちらかと言われればそうだね」

「じゃ、今度からもそういうのを選んで買ってくるね」


 ん、つまりどういうことだ。


「なぁ、良い形をしたニンジンは良い味で、芯の太いやつは固くなりがちなら、やっぱ最初っから良い方だけを買いそろえた方が良かった、っていう話じゃないのか?」

「シンタロー甘いな~。それはあくまで目利き的な良し悪しのハナシじゃん」


 僕はまだ得心がいかないでいると、日乃実ちゃんはおほん、と教師然な咳払いをしてみせる。


「例えばこのカレー。シンタローが柔らかいニンジンがおいしーって言うように、柔らかい具材だけ使ってまとまった一皿にするのも正解だけどさ」

「正解だけど?」


 日乃実ちゃんはいつになく流暢に続きを語る。


「色んな素材の食感を楽しんでもらうために、あえて仕上がりが固くなる具材だけを使ってみたりしてさ。そうやって試行錯誤して、ようやく固いニンジンと柔らかいニンジン、それぞれ違う良さがあるのが判る。そして何よりシンタローの好みもわかってくる。でしょ?」


 食材のそういう特徴をぜ~んぶ把握して、用途に合わせて使い分けられるようになるまでが知識なんだからっ、とのこと。


 つまり彼女の言う目利きとは単純な良し悪しだけではなく、自分が目指す味により近づくための「適材適所」を判断するものらしい。僕はようやく腑に落ちた。


「固い方はサイズが小さめでしょ。他と比べてそのにんじんだけ固すぎて悪目立ちしちゃうだろうから、気にならない程度に小さく切ったつもりなんだけど、いいでしょ?」

「なるほどね。じゃあ第二問の答えは、固いニンジンの良さ、例えば素材が持っている本来の食感の活かし方を模索するため……とか」


 固い食感なら固いなりの良い所を引き出せるようにしておけば、料理人としての手札も増えてレベルアップできる、というところだろう。


「あぁ~、そういう捉え方かぁ。はい三十点! 正解は~……」


 というところだろう、ではないらしい。不正解。心の中で勝手に納得していたものだから、ちょっと肩透かしを食らった。


「……正解は?」

「シンタローの好みを知るため、でしたー。私ほとんど正解を喋ってたのにシンタローときたら、鈍感だしっ」

「好みを知るため?」


 そろそろ食べ終わりそうな量になったカレーを掬う。気づけば僕は、話し中でも構わず彼女の料理をかき込んでいた。


「そりゃー私も調理師志望として? 味の研究みたいなこともするよ。でもそれは地元にいる頃に済ませてきましたっ! やっぱり食べる人が喜ぶのが第一だよねっ!」


 僕は咀嚼しながらも、日乃実ちゃんの声に集中していた。


「お料理してる時って、食べてくれる人のことを考えてる瞬間が一番楽しいんだよ? おかーさんは濃い味きらいだから塩は控えめにしよーとか、おとーさんのおつまみに今日はから揚げ作っちゃおうかな、とか」


 残りの一口を嚥下する。喉を通る最後の瞬間までうまかった。


「じゃあ料理中、ご両親に作った時と同じように、僕の存在が頭の中でチラついたりしたのか?」

「もちろんっ。外で脂っこいものばかり食べてるらしいからみそ汁は少し味付け薄めに作ったしー、サラダは大盛りだよっ」


 それを聞いて僕はみそ汁を一口、口に含んだ。その温度と味は、喉を通って消化器官に落ちるのではなく、身体の芯へじんわり染み入るようだった。


 たしかに優しい。


 僕の仕事の都合上、外食が多めなのは買い物帰りの車内で話していたので、日乃実ちゃんも承知済みだった。


 あんな他愛のない、さりげないやり取りさえ彼女は情報として汲み取っていて、しかも実際に料理に落とし込んでいたとは。


「サラダの大盛りは、全部大盛りだからともかく……でもまぁ、道理で――」

「どうりで?」

「――美味しいわけだよ。……全部、美味しいよ」


 こそばゆい間が流れた後、日乃実ちゃんはもお、シンタローったらもおー、なんてふにゃふにゃな顔を両手で覆って牛のマネをしだす。


 彼女はうれしくてたまらない牛のマネをしながらに残りのカレーをかき込み、僕もみそ汁に含まれている彼女の気遣いを再確認し、やがて二人そろってごちそうさまをする。


 自分のことを考えて作ったのだと、久々に真っ直ぐで好意的な施しを享受したからなのか。あるいは仕事外の、利害を気にしないで済む相手との食事がただ楽しかったからか。


 後片付けにキッチンと居間を往復する僕の足取りは、妙に軽やかだった。

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