プリンセス・ゴリラ
「葵って、お昼はどうしてるの?」
四時限目が終わり、財布の小銭を数えていると、隣の机から兎萌が身を乗り出してきた。
きっちり二百五十円になるように握り締め、席から立ち上がる。
「購買でパンと牛乳だけど」
「なら良かった。作って来たから、今日からお弁当食べて」
彼女は机の向こう側にかけていたトートバッグから、包みを二つ取り出し、大きい方をこちらの机へ乗っけると、もはや決定事項であるかのように机をの向きを変え始めた。
立ったまま茫然としていたばかりに自分の机の向きも変えられ、逃げるタイミングを見失ってしまった葵は、何度か瞬きをしてから、まあ別に逃げる必要もなかったかと席に着き直す。
実はそろそろ購買パンのルーティンも飽きが来ていて、かといってコンビニで買えば高くつくのもあって、渡りに船だった。ありがたく、手を合わせる。
「へえ、いいじゃない。いただきますとごちそうさまの言える男子」
「父さんにめっちゃ叱られるんだよ。『十字は切らなくても構わないが、日本人であることを裏切るな』って」
「さすが英国紳士、粋なこと言うのね」
父のことを褒められて、葵は少したじろいだ。気恥ずかしかったのもあるが、これまで、川樋葵少年に異国の血が入っている諸悪の根源のような扱いだって受けたこともあるからだ。
最近こそ随分と減ったが、父が外国人であることを知れば、きまって「どうして日本人と結婚したの」と訊かれる。あまりに不思議がられるので、葵もその問いを投げかけてみたことがあったが、返ってきたのは「父さんは日本人と結婚したんじゃない。母さんと結婚したんだ」という笑顔だった。
そんな風に、誰よりも血の扱いについて気を配る人間だったからこそ、日本人としてのマナーにも厳しかった。ハーフであることは、学びを放棄する免罪符ではないのだと。
「材料費はちゃんと請求してくれな」
「出世払いでいいわよ。というか、食べてみたら、不味くて支払う気がなくなるかもよ?」
はじめて両親に手料理を振る舞った子供のように、無邪気な照れ顔で舌を出してみせて、兎萌はじっとこちらの手元を見つめた。
弁当箱の蓋を開ける。五穀米のご飯に梅干し、おかずは鳥ささみの照り焼きに、おからのハンバーグとゆで卵。サラダは野菜系と海藻系の二種に区切られ、添えられたタッパーにはバナナの入った薄桃色のヨーグルト。
「これ、ヨーグルトに何か混ざってる?」
「そ、ストロベリーのプロテインをちょこっとね」
「プロテインにイチゴ味なんてあるのか……」
「最近はすごいわよ。定番のチョコ系はどんどん美味しくなってるし、シナモンデニッシュだとか、フルーツミックスなんかも出てる」
「プロテインで……フルーツミックス……」
「結構人気よ。私は直飲みならチョコ系だけど、混ぜ物にするならベリー系も好き」
カルチャーショックだった。もっとも、近年では女性のアスリートもかなり増えてきているし、昔から粉末タイプのスポーツドリンクなんかも出てはいるから、不思議なことではないのだろう。さすがに、勇魚のようなガタイの良いタイプが「フルーツミックス味が好きです♪」と言っているところを想像するとなかなかにシュールではあるが。
葵はささみの照り焼きを箸でつまみ、食べた。思っていたようなパサパサ感はなく、薄味ながらしっかりと効いているタレも、油分が控えめでさっぱりと抜けていく。男子の胃袋を満たしながら、健康面やアスリートの栄養面へと完璧に配慮された、素晴らしい弁当だ。
「お前は良い嫁さんになるよ」
「なんだろう、喜ぶべきか悲しむべきか、分からないわね……」
口は噛みしめたいのに手は動く。体の矛盾した反応に、葵は鼻をすすりながら箸を動かした。
そんな折だった。のっけから息を潜めているギャラリーには気が付いていたが、購買での食料調達を済ませた面々もそれに加わったことで、徐々に教室内のざわめきが大きくなってくる。
まずは、二人の関係が議題に上がる。次に、こちらが連れ立ってジムに入っていくところを見たという目撃者と、通っている弟が話していたと事の顛末を伝える証人が現れ、被告そっちのけの裁判が進行されていく。
顔を突き合わせた陪審員たちは、口々に「やっぱり類は友を呼ぶのか」だとか「暴力的な男子は、ちょっと……ねえ?」などと囁いている。
「気にしない。後ろ指さしてくるのは戦わない奴だけよ。言わせておけばいいわ」
判決が気になって手を止めた葵に、兎萌が声を潜めて言った。
……が、チャンピオンにさえ牙を剥く血気盛んな蹴り姫様が、こんなところで堪える性分であるはずもなく。
「と、言いたいところだけど」
箸を置いてすっくと立ちあがり、一番声を大きくして葵を野蛮と非難していた男子のところまで行くと、その顔を掠めるように、足を壁へと突き立てた。
「うちの相方馬鹿にしてんじゃねぇぞクソ外野。あ?」
普段の彼女からはまるで予想できないドスのきいた声で、中指をぶちかました。
葵はため息を吐いて、机から手ごろな教科書を引き出した。蹴りが顔を掠めた際の風圧は、トラックとすれ違ったそれとは比べ物にならない程の怖さがある。あと数ミリずれていれば耳が吹き飛んでいるかもしれない、あと数センチずれていれば目が抉れているかもしれない。
足刀とはよく言ったもので、現に兎萌から詰められた男子も、刀の抜き身を首にあてがわれているような引き攣った表情で震えていた。
「あんたらもよ。勝手に噂立てて囀り回るのは結構だけれど、それなら電信柱の上でピーチクパーチクやってくれるかしら。人にケンカ売るなら、ちゃんと殴ってきなさいよ」
「は、はひ……ごめんなさい」
「飯の時に暴れてんじゃねえよバカ。新手の壁ドンか」
気持ち語調を軽めにして、葵は丸めた教科書で兎萌の頭を引っ叩いた。
すこーん! ともぐら叩きのように彼女の頭が揺れる。教室中から「蹴り姫を、殴った?」と畏怖の声が巻き起こる。知ったことじゃあない。悪いのはこいつだ。
涙目でだってだってとぐずる首根っこを、だってじゃありませんと引きずり、席に戻る。
「だってえ」
まだ言うか。箸を取ろうとした手の軌道を修正し、頬をむにむにと引っ張っておく。
「怖い顔してんぞ」
「別にいいもん。昔から、キックやってると知った途端にゴリラ呼ばわり。もう慣れたわよ」
そう言って、兎萌は机の空きスペースに上体を預けてぶーたれた。
「ゴリラ、ねえ……」
子供の無差別性は怖ろしいものだ。勇魚に言うならともかく彼女にはナシだろう。それから分別の付く年になっていくことで、『蹴り姫』に定着していったのだろうけれど。
どうせ姫と呼ぶならば、その辺りの分別まで付けて欲しいものだ。
「モテそうな気がするけどなあ」
「お生憎様。ゴリラにそういう持ち上げは嫌味よ?」
「ゴリラ言うなって。それに、俺はそんな風に思ったことないよ。たまにお前、すっげえ可愛く笑うし」
「かわっ!?」
稲妻のキックもかくやの勢いで、兎萌がガバッと顔を上げた。
「だーから、食事中に暴れんなって」
「うるさいっ!」
顔を真っ赤にした彼女は、ハンバーグに手を付けようとした葵の箸を掻い潜り、弁当箱ごとかっさらってしまう。
「何すんだよ、まだ食ってる途中なのに!」
「しーりーまーせーんー!」
何故か怒気をこちらに向け始めてしまった蹴り姫は、それからしばらくツンと顔を逸らすばっかりで、ようやく拝み倒して葵が昼食にありつくことを許されたのは、昼休み終了まで五分を切ったところだった。
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