79.『ルリの覚悟』


 消えない不安を抱えながら、俺は自室に向かう。

 タマユラの言葉が響かなかったわけじゃない。

 むしろ、その逆だ。


 タマユラのおかげで、俺の心は少しだけ軽くなった。

 ただ、それでさえも押し切れないほどの鬱積を抱え込んでいるというだけ。

 そして、タマユラにその殻を破ってもらったおかげで、ぶよぶよの中身が溢れそうになっているだけだ。


「大丈夫、寝れば忘れる、寝れば忘れる……」


「……何を忘れるの?」


「うわぁっ――!? なんだ、ルリか! びっくりさせないでくれる!?」


「……勝手にびっくりしないでくれる?」


 自室に向かう途中の暗がりで、角からにゅっと出てきた黒い物体。意識の外からやってきたそれに、俺は夜ということも忘れて叫び声をあげてしまった。


 何かと思えば、ルリだ。

 ちびっ子は寝る時間だというのに、まったく躾のなっていない子である。


「……なんかすごく心外なことを考えられてた気がする」


「気のせいだよ……っていうか、なにその能力。心とか読めるの?」


「……読める。ヒスイのは」


 今明かされる衝撃の事実。

 やっぱり俺はわかりやすい人間だったらしい。


 この上なくわかりやすいルリに言われたのだから間違いあるまい。


「明日は早いんだから早く寝なさい」


「……なんとなく腑に落ちない」


「なんでだよ!」


 そりゃ、タマユラに言われたことをそのままルリに横流しした形だけど、そんなことルリにはわからないはずだ。

 やっぱり、本当に心を読めるんじゃないだろうか。


 まぁそんなことはどうでもいい。

 これはルリとの会話の取っ掛りみたいなもので、ぶっちゃけ俺もルリをさっさと寝かせようとは思っていない。や、変な意味じゃなくて。


 早い話、俺もルリと話していたいのだ。

 こういうメンタルになった時は、人と関わるに限る。

 相手がかわいい女の子だとなおいい。


「……じゃ、おやすみ」


「あ、本当に寝るの――?」


「……本当は寝て欲しくないの?」


 見ろ、ルリの顔を。

 ほんの少しだけ目を細めて、悪戯にニヤついている。なんたる小悪魔。

 俺が名残惜しいのを見透かして、手玉に取ろうとしているのだ。

 

 くそ、悔しいけど俺の負けだ。

 というか、この俺を焦らすなんて――コミュニケーション能力が壊滅的だったルリが、いつの間にあんな高度なテクニックを身につけたのだろうか。


 いや、なんとなくわかる。タマユラの仕業だ、きっと。

 なんてもんを教えてるんだ。元祖小悪魔め。


「くっ……本当は、寝て欲しく……ないです……!」


「……なんでそんな断腸の思いで屈服した兵士みたいな顔してるの?」


「そんな顔してたの? 俺」


「……いいよ、ヒスイのために起きててあげる。おいで」


 ちびっ子風17歳の母性に負けて、俺はルリの部屋に上がり込んだ。

 いやほんと、いつの間にルリはこんなに母性を振りまく淑女になったのか。末恐ろしいね。


 ルリはベッドに座ると、隣をぽんぽんと叩いた。


「……座って」


「はい」


 俺は言われるがままにルリの隣に腰掛ける。

 ルリは座る位置を調整すると、俺の肩をそっと引き寄せた。


「あっ」


 ルリの小さくも温かな手と重量に逆らえず、俺の上半身は90度傾けられることになる。俺の頭が着地した場所には柔らかな温もりがありながら、少しだけ頼りない線の細さも感じられた。

 これは――、


「――膝枕?」


「……ん。落ち着く?」


「すごく。ただ――」


「……?」


 とても、落ち着く。何故だかわからないが、涙さえ出てきそうなほどの安心感がある。

 このまま深くまで沈んでいきたい。そう思わせるほどの魔力がある。

 胸のドキドキが鳴り止まないほどの、大胆な色気がある。


 ただ――、


「ちびっ子に膝枕なんてされると妙な背徳感が」


「……落とすよ?」


「ごめん、嘘」


 嘘じゃないけど。

 よもや、ルリに膝枕なんてされる日が来るとは思わなかった。

 まさかとは思うが、俺はルリに庇護対象だと思われているのではあるまいな。

 あまつさえ、年下扱いされているのではなかろうか。


 まぁいいや。この安堵感の前では、そんな些細なことは気に止めることすらない。

 正直、全てを忘れてこのまま眠りに落ちてしまいたいくらいだ。


「……いいよ、寝ても」


「え、いいの? ルリはどうやって寝るの?」


「……気にしないでいいから、寝られそうなら寝なさい」


 そう言って、ルリの小さな手が俺の頭に置かれる。

 目を瞑っていても、ルリの指の細さや繊細さがはっきりとわかる。


 認識を改める必要があるが、ルリはちびっ子ではない。

 精神的にも、肉体的にも。


 この指は、繊細な女性の指そのものだ。

 ルリはちょっと体が小さいだけで、立派な女性なのだ。


 おまけにこんな女性的なところを見せられては、もう悪ふざけでもちびっ子なんて口に出来ないな。

 

 急速に、眠気が襲ってくる。

 俺のちっぽけな不安や焦燥感など、もはやどこかに吹っ飛んでしまった。


 タマユラに解され、ルリにじんわりと温められて。

 俺は、なんて幸せ者なのだろうか。


 ほんと、タマユラとルリには感謝が尽きないな。


 気付けば俺は、まどろみに吸い込まれていった。



「すー……すー……」


「……おやすみ、ヒスイ」


 その顔を見つめながら頭を撫でていると、いつしかヒスイは寝息を立て始めていた。

 ほんの少しでも安心して眠れたなら嬉しいと思う。


 ヒスイの顔を見ればすぐにわかった。

 昼間から、よくない時の顔をしていたのだ。


 ヒスイは強いし、すごい人だ。

 人間の常識を覆すような、とてつもない力を持っている。

 だけどあれでいて、心の容量は人間相応のものだから、かけられる期待に押しつぶされそうになる時だってあるのだ。


 それを少しでも支えてあげるのが、ヒスイと人生を分かち合う私の役目だ。

 平たくいえば、恋人としての使命でもある。


「……どうやって寝よう」


 膝の上にはヒスイの頭。

 いくら私がちっちゃいからと言っても、生憎このまま縦に寝転がる広さはこのベッドにはない。

 

 困った。

 これはヒスイが起きるまでこのままかもしれない。


 まぁ出発は朝早いと言っても、しばらくは馬車で移動するわけだし、そこで寝てしまえばいいか。

 街道にはあまりモンスターも出ないし、万が一出没してもヒスイとタマユラがいればどうとでもなる。


 そう思えば、今はヒスイの寝顔を見つめるのも悪くない。


「――俺は……S級は……」


「――ヒスイ?」


 起きている様子はない。

 寝言、だろう。


 意識のないヒスイの言葉を盗み聞きするなんてよくないことだと思いながら、何故だか私は耳を澄ませていた。

 私の底意地の悪さが出たのか、ヒスイの寝言に興味が湧いてしまったのだ。


 本心をあまり晒そうとしないヒスイの、無意識下での言葉。

 それを聞けるチャンスが巡ってきたことに、私としたことがドキドキしてしまった。

 しかし――、


「――みんなの、希望じゃなくちゃ……」


「――――」


 飛び出したその言葉にハッとした。後悔した。胸が締め付けられた。

 そして、聞けてよかったとも思った。


 定期的に後ろ向きになるヒスイだが、今回のはかなり深刻らしいことに、やっと気付いた。

 膝枕なんて小手先のものだけでなんとかなると考えていた浅はかな私が、途端に腹立たしく思えた。


「……心なんて、読めないよ」


 ――ヒスイは、たったひとりの人間には大きすぎる信念を抱えている。


 そもそもヒスイは、S級冒険者としての信念に悩みがあるようだった。

 特にタマユラと自分を比べて、酷い自己嫌悪に苛まれていたこともある。


 だから私は、ヒスイを叱りつけてしまった。

 タマユラと同じになろうとしなくていい。

 ヒスイはヒスイでいい、と。


 タマユラの背中を追いかけているように見えたから、自分自身の道を見つけて欲しい。そう思って。

 

「ごめん、ヒスイ……」


 でもヒスイは、そうではなかった。

 タマユラの抱える立派すぎる信念。

 ヒスイは、さらにその上を目指していたのだ。


 その過程で、タマユラを超えなければならなかったのだ。


 民の期待を背負う『剣聖』を超えて。

 最後には、全世界の希望を背負って立つために。


「でもヒスイ、それは無謀すぎるよ……」


 それは、人ひとりが背負うには重すぎる枷だ。

 力を持って生まれてしまった者が、生まれながらに償わなければならない罪で、罰だ。

 

 それに真摯に向き合おうとする姿は美しいが、理想に至る前にヒスイが折れてしまう。


 改めて思う。あの日ヒスイを叱りつけた私は、間違っていなかった。

 ただ、ヒスイを救う力が私にはなかった。


 ならば、私ができることは――。


「……ヒスイ。私はヒスイを、絶対にひとりにしないから」


「すー……むにゃ……」


 どこまでも、ついていく。

 それが、添い遂げるという覚悟だ。


 私は、いつまでもどこまでも、ヒスイとある。

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