第八話
―――その力とは、
いわゆる病院では原因がわからず、医師では治せぬ類の症状を発した患者の治癒です。
その症状は、様々でした。
ある日突然――歩けなくなった、話せなくなった、耳が聞こえなくなった。一切の感情表現がなくなってしまった、脈絡なく奇声を上げ暴れだす――。
そういったものに出くわした時、人は呪いや障り、祟りなどを考えたくなります。実際には、そんな事はほとんど無いのですが。不可思議なものに直面すると、人間は神や仏にすがる。普段は信心など一切なくとも――。
ご家族に伴われて、そんな症状を持つ方が訪れると、和尚はこのお堂で対峙し、唯々じっと見つめ、やがて頷き、最後にお経を上げました。
それだけでした。何も仰々しいことなどは、されなかった。
しかし、その方々が帰られると後日、必ず快癒の旨が綴られた手紙と多額の金品とともに米や味噌などの食料が贈られてきました。
―――実に不思議でした。
一度だけ、思い余って聞いてみた事があります。
何をなさっているのか、どうすればそんな力を持てるのか―――。
和尚はただ一言――「何万人をも死なせた罰だ」―――それだけを言われ、それ以上は何も聞くなと、無言の背中が拒んでいました。
―――随分と時が経ち、私がこんな老僧になって思うのは、和尚は心因性の病気を治されていたのではないかという事です。
人間の体とは不思議なもので、肉体の機能的には何の問題もなくとも、心に途方もない負荷がかかってしまうと、正常に機能しなくなる場合があります。
これは――和尚の足元にも及ばぬ愚僧の推測に過ぎませんが――、
和尚には、その原因となるトラウマが映像として視えていたのではないか。
ちょうどあの夜、一瞬で私の全てを視てとったように。
そして、なんらかの力で、その原因となる当人の記憶を消す事ができたのではないか――。
あの最後の読経は飾りのようなもので、和尚の治癒の骨髄は――あの対峙し、患者を視ている時に、そして頷いた時にこそ――あったのではないか。
もし仮にそうだとするなら、なぜ和尚は、私がこの寺に来る原因となったトラウマは消してくれなかったのか――。
それはつまり、背負えという事なのだろう―――。
そう解釈しました。と、言いますのも――
治癒にあたり、和尚がいつもと同じ手順を踏まず、早々にお経を上げ、終えてしまう事がありました。
そんな時、私が訝しく思っていると、
「あれは、あのままでいい―――」そうおっしゃいました。
それは私と同じように、当人に背負わすために、あえて消さなかったという事でしょう――。
それとは逆に―――客が帰られてから、
「どこも悪いところなどない―――」と、おっしゃる事もありました。
それは、たとえば口がきけないとか全ての感情が消えてしまった様を、何らかの理由で当人が演じているという事に他ならなかったでしょう。浮世にいれば、いっそ狂人の振りをした方が楽という事もあります。そんな人は案外、多いのやもしれません―――。
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