第五話
―――誰も歩いてくる音などしなかったのに……と酔いが回り始めていた頭で不思議に思いました。
黒いワンピースがよく似合い、長い黒髪が、月の光を受けて艶やかに光っていました。
そして、スカートから伸びる足が白く、なまめかしかった。
目が吸い寄せられて離れないのです。
この若い女性も――自分と同じように死に場所を求めて彷徨っているのだろうか、そうぼんやりと思いました。
周囲を見回すと、当然のことながら誰もいません。
闇の中、こんな山奥深くに若い女と、死を決意した男が二人きり―――。
そう思った刹那―――頭の奥の深いところで眩しい白い光が炸裂するように弾け、激しい眩暈を覚えました。
そんな経験は、生まれて初めてでした。
眩暈がおさまると、いてもたってもいられぬほど女性の身体が激しく欲しくなりました。
雄の本能とでもいうのでしょうか、自らの種を残したくなるような――。
それとも、ただの薄汚れた肉欲だったのか………。
気がつくと駆け出していました―――。
そうです――その女性を犯すために私は、駆け出したのです。
野獣と何も変わりがありません。何日も餌にありつけない中、突然目の前に最高の獲物を見つけた文字通りのケダモノと言ってよかったでしょう。
何もかもを失い、死を覚悟した最期に、最高の肉欲の獲物を見つけた人間という名がついただけの―――。
私はそれまで自分の事を、人より特に秀でた取り柄などは無いものの、善良な人間だと思ってきました。
でも、あの瞬間、私は間違いなく「悪」そのものでした。こんな「悪」が今まで自分の中の、どこで息をひそめていたのか――、鳴りを潜めていたのか――。
たったいま炸裂した白い閃光が、その「悪」の解放の合図だったのか―――。
自分で自分が、恐ろしくなりました―――。
いえ―――。
正直に申しましょう。犯そうとしただけでは、ないのです。
あの瞬間、私の頭の中には、その女性を殺す事さえ浮かんでいたのです。
信じられますか……。初対面の何の罪もない、当然恨みなどあろうはずもない若い女性を、己の欲望のままに犯すだけでなく、その命さえ奪おうとしたのです
どうせ死ぬ――一人で逝くのはさみしいではないか――誰かを道連れにできるなら―――。
常人の考える事ではありません―――。
しかし、あの瞬間、私はたしかにそう考えていました。そして私は、この山にのぼるまで、その女性を見つける瞬間までは、善良な常人として、善良な常人のつもりで生きてきたのです。
つくづく想いました。人間など己の事さえ、ろくに知らないのだと―――。己の内に宿しているものすら知らないのだと。
いえ――人間と、ひと括りにしてしまったのは傲慢やもしれません。ただ、私のように抱えているものが「悪」でなかったとしても――人間はなにか――自分自身すら死ぬまで見ることのない「何か」を抱えているとはいえるのかもしれません。
私の場合、――それが「悪」だったのです―――。
―――ここには、テレビもラジオもありません。浮世の事はわかりませぬが、きっと今も「悪」を宿した人間による無慈悲な事件が日々起こっているのでしょう―――。
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