第44話「彼の正体」
ハルは香李との関係に悩んでいた。下衆な父親との間に生まれてしまったことに絶望した娘は、声を交わせばすぐ反発。何を話すにも常に氷のような冷徹な瞳を向けてきた。
何か娘の心を温めるようなきっかけを得られないだろうか。氷河期が続くような生活に、何とかして温もりを与えることができないだろうか。
「シュバルツ王国……大戦記……」
娘の部屋を掃除しようとして、いつものように激怒されて廊下に追い出されたハル。しかし、彼女は娘の部屋の本棚にシュバルツ王国大戦記の原作本が、大量に揃えてあるのを発見した。
「これだ!」
近年、バーチャルリアリティの技術が発展し、ゴーグルをかけるだけでゲームの世界に入り込んだようなリアルな体験を味わうことができる。
だが、視界だけでは満足させない。感触や匂い、臨場感、空想の世界を細部まで楽しむには、現代の技術は未だに乏しい。香李は少なくともそういった娯楽に興味はあるようだ。
「漫画の世界をリアルに味わえるようにすれば……」
偶然か運命か。自分はこの世に生を受け、科学者として君臨している。地球にはなかった技術を駆使し、究極の娯楽を提供できるかもしれない。それこそ、今まで誰も感じたことのないリアルな漫画の世界。娘の心を掴むための、母親からの最高の贈り物だ。
「よし!」
ハルは白衣を身に纏った。
「うあっ!?」
ユキテルは体を覆う痺れに悶絶し、すぐさま魂が抜けたように脱力する。頭が軽くなり、意識が飛んでいく。その隙をラセフは見逃さない。力が弱まった弟の剣を押し返し、崖の方へと突き飛ばす。
「……」
ユキテルは気を失ったまま、谷底へと真っ逆さまに落ちていった。イワーノフとラセフは、豆粒のように小さくなっていく彼の姿を見下ろす。
“くっ……俺……こんなところで……”
みるみる小さくなっていくラセフとイワーノフの顔。自分が遥か下の谷底へと落下していく感覚が、逆に恐怖と焦りを阻害させる。先程ユキテルの身に直撃した緑色の光を纏った強力な魔法により、彼の心は一時的に無と化した。
“あれ……そういえば……俺……”
バァァァァァァァァン!!!!!!!
「ゲホッ、ゲホッ……うぅぅ……失敗か……」
研究室に煙が立ち込める。ユキテルは死を覚悟していたが、落下したのは鋭い岩肌ではなく、なぜか滑らかな木の床だった。しかも、視界が灰色に覆われ、妙に煙たい。どこかに一瞬にしてワープさせられたような感覚だった。
「どこが悪かったんだろ……って……人?」
そして、ハルは煙の中に横たわるユキテルを発見した。煙が完全に消え失せ、彼の凛とした白髪が
ハルは首をかしげた。試しにジゲンホールをシュバルツ王国大戦記の世界と繋げてみたが、システムの暴走により爆発した。それから発生した煙が、白髪のイケメンを出現させた。何とも奇妙な現象である。
「まさか……ジゲンホールを潜って向こうから誰か来ちゃった?」
ハルが発見したキャラ……ユキテルは虚ろな表情で彼女を見つめ返した。自分がどうしてこの場所にいるか理解できないようだ。しかし、それは唐突に漫画の世界から現実世界に転移させられたことだけが原因ではなかった。
「あの、あなた……誰……?」
「分からない……俺……誰だっけ……」
ユキテルは自身の記憶を失っていた。崖から転落させられる前、イワーノフが魔術書を使用して放った魔法は、相手の記憶を奪う力を秘めていたようだ。
そしてラセフの攻撃を受け、谷底へと落下。偶然にもハルがジゲン・コジアケールのプロトタイプで発生させたジゲンホールが谷底に出現し、放り出されるようにユキテルは現実世界へとやって来た。自分の王子としての名声を失った状態で。
「とりあえず、食べて」
ハルは自宅にユキテルを匿った。ユキテルに姿が酷似しているとはいえ、香李は不審な男を家に入れることに猛反対だった。
しかし、ハルは娘の反対を押しきり、彼に手料理を振る舞った。とても王子とは思えない弱々しく縮こまった彼を放ってはおけなかった。かつて自分が親に捨てられた身であったために。
「あなた、名前が無いのよね?」
「えぇ……」
ユキテルの存在は、後で香李が持っていた漫画を読んで知った。今後生活していくとして、新たな身分が必要だ。現実世界であるこの場所で、漫画のキャラクターである彼が生きていくには不便が多すぎる。
「棚橋透井。これがあなたの新しい名前よ」
「棚橋……透井……」
ユキテルは……透井は名前を与えられ、喜ぶことも不満を言うこともなかった。だが、記憶を失くしてぽっかり空いた心の穴が、ほんの少し満たされたような気がした。それが果たして温かいものか冷たいものか。それは彼の今後の人生が決定していく。
「よろしくね、透井君」
「はい……よろしくお願いします……」
こうして、死亡したと思われたシュバルツ王国の王子ユキテル・コーツェンバルクは、新たな世界で棚橋透井としての人生を歩むこととなった。
* * * * * * *
「そんなことが……」
私は衝撃的な事実を受け止めて狼狽えるけど、心の中でどうも引っ掛かるものがある。それは、薄々感付いていたという事実だ。
そりゃあ、現実に漫画のキャラクターとそっくりの人間なんて普通いるもんじゃないし、魔法なんて非科学的な現象はあり得ない。夢という名前が付けられた私だけど、夢のない思考を抱えて生きてきた。
だけど、漫画の世界へ転移し、モンスターと戦いながら強くなり、広大な世界を冒険するなんて、現実の理屈を無視した体験を重ねてきたら、若干狼狽えてしまうのも無理はないじゃない。
「透井殿……お主はシュバ大の世界からやって来た漫画のキャラ……しかもユキテル本人だったのか……」
卓夫君がわざわざ丁寧に事実を口にする。それこそ、意外な敵の正体を知った漫画の主人公みたいに。でも、確かに口に出して落ち着かせたくなるほど、私達の目の前に佇むのは驚愕すべき事実だ。
今まで透井君だと思っていた男の子が……ただのそっくりさんだと思っていた彼が……まさかのユキテル君本人だったなんて……
「そんなの……」
そんなの……
「ぶふぉぉぉ!!!」
最高じゃない!!!!!!!!!!!!
「ゆ、夢さん!?」
私は興奮のあまり鼻血を噴射してしまった。まさかの私の愛しの推しがずっとそばにいて、私を支えてくれていたなんて……灯台もと暗しとはこのことかしら。今までの透井君とのあんなことやこんなことは、全部ユキテル君とやっていたことに……
「キャァァァァァ~~~!!!!!!!!」
「夢さん、落ち着いて!」
落ち着いていられるわけがない。ユキテル君の美しい両腕が、私の肩に触れているのだから。もし彼の腕が点滴のチューブだとしたら、私の体は一生分健康的に暮らせるほどの栄養を受け取っていただろう。
それくらいユキテル君の魅力は私の生きる糧で……ああ……なんか幸せすぎて頭クラクラしてきた……マジ無理……最高すぎる……。ユキテル君、しゅき。
「……変わらないなぁ、夢さんは」
すると、透井君……ユキテル君? えっと、どっちで呼んだらいいんだろう。彼はフフッと微笑んできた。オタクの末期症状に呆れ、思わず笑ってしまったのだろうか。
「こんな時でも明るくて楽しくて、自分らしさを忘れない。好きなものの前では我を忘れてはしゃぎまくって、でもすごく一生懸命に推していて、眺めててすごく元気がもらえる。面白いよ、夢さんは」
そうだ。香李ちゃんが拐われているんだ。ぐずぐずしてたら殺されてしまうかもしれないんだぞ。呑気にはしゃいでいる場合じゃない。
それにしても、私ってそんなに魅力的な人間なのかな……。今まで散々自分のことを卑下してきた私だから、褒めてもらえるのに未だに慣れていない。それでも、透井君は私の魅力を何度でも見つけてくれる。真摯に指導する学校の先生みたいに。
その優しさ、まさにユキテル君そのものだ……。
「そんな夢さんが、俺は好きだな」
「……へ?///」
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